第91話 選ばれなかった者
野営地の朝は早い。
まだ陽が昇り切る前から、セリナは火を起こしていた。
焚火の上では湯が沸いている。
リゼも少しずつ手伝うようになっていた。
以前なら考えられない変化だ。
「熱いから気を付けて」
「うん」
短いやり取り。
それだけでセリナは少し嬉しかった。
妹は確実に前へ進んでいる。
その少し離れた場所では、ロックが眠そうな顔で座っていた。
昨夜は結局よく眠れなかった。
白い階段。
あの声。
思い出そうとすると頭の奥がざらつく。
「最悪だ……」
ぼやく。
ガルドは既に起きていた。
いつも通り。
全身鎧。
黒剣。
そして無言。
ロックが横目で見る。
「ダンナって悩みなさそうだよな」
ガルドは答えない。
数秒後。
「ある」
短い返答。
ロックは吹き出した。
「あるのかよ」
「ある」
「何だよ」
沈黙。
そして。
「面倒だ」
ロックが腹を抱えて笑った。
「それ悩みか?」
セリナも思わず笑う。
ガルドは真顔だった。
本人は本気らしい。
***
昼頃。
一行は街道を進んでいた。
王都へ向かう大街道。
人通りも増えてきている。
商人。
旅人。
巡礼者。
様々な人々が行き交う。
その途中。
街道脇に小さな慰霊碑が見えた。
古い石碑。
風雨に晒され、文字もかなり薄れている。
ロックが足を止めた。
「ん?」
セリナも気付く。
近付いてみると、そこには騎士達の名前が刻まれていた。
古い戦争の慰霊碑らしい。
ロックは何気なく眺める。
「へぇ」
その時だった。
ガルドの足が止まる。
珍しい。
自分から立ち止まった。
セリナが少し驚く。
ガルドは石碑を見ていた。
刻まれた名前。
その中に見覚えがあった。
昔の騎士団。
同じ部隊だった男達。
今はもういない者達。
風が吹く。
沈黙。
ロックが空気を読んで黙る。
やがてセリナが静かに尋ねた。
「知り合い?」
ガルドは頷く。
「……昔の」
短い答え。
それだけで十分だった。
セリナは石碑を見る。
名前が並んでいる。
誰かの人生。
誰かの死。
その中にガルドの名前は無い。
生き残ったからだ。
だが。
本当にそれだけだろうか。
その時だった。
近くを歩いていた老人が話しかけてきた。
巡礼者らしい。
杖をついている。
「騎士様か」
老人はガルドを見た。
ガルドは否定しない。
老人は慰霊碑を見る。
「昔は英雄が多かった」
「今は減った」
ロックが肩を竦める。
「英雄なんて大体ろくな目に遭わねぇだろ」
老人は苦笑した。
「違いない」
そして。
ぽつりと言った。
「だがな」
「英雄になれなかった者が、一番多くを守ることもある」
風が吹く。
セリナの視線がガルドへ向く。
老人は続ける。
「名を残した者だけが偉いわけではない」
「誰にも知られず死んだ者」
「功績を奪われた者」
「選ばれなかった者」
「そういう者達が、国を支えてきた」
静かな声だった。
だが妙に心に残る。
ロックも黙った。
老人は微笑む。
「英雄とは運じゃよ」
「だが、人を守るのは意志だ」
そう言って去っていく。
杖を鳴らしながら。
誰も引き留めなかった。
しばらく沈黙が続く。
やがてロックが口を開いた。
「レオンは英雄だったんだろうな」
誰に言うでもない呟き。
セリナが答える。
「多分ね」
歴史に残った。
伝説になった。
名前を消されるほどの存在になった。
間違いなく英雄だったのだろう。
その時。
リゼが小さく首を傾げた。
「……ガルドは?」
全員の視線が向く。
ガルド本人も。
リゼは純粋な顔をしていた。
疑問だったのだろう。
セリナが少し困った顔になる。
ロックは笑う。
「難しい質問だな」
ガルドはしばらく考えた。
本当に珍しく。
少し長く。
そして。
「違う」
そう答えた。
即答ではなかった。
だが迷いも無かった。
ロックが眉を上げる。
「そうか?」
ガルドは石碑を見る。
昔の仲間達。
追放された自分。
守れなかったもの。
失ったもの。
そして今。
背負っている黒剣。
「……ただの騎士だ」
静かな声だった。
誰かに聞かせるためではない。
本心だった。
セリナは何も言わない。
ロックも。
リゼだけが少し考えていた。
やがて。
小さく呟く。
「でも」
ガルドが視線を向ける。
リゼは少し迷いながら言った。
「助けてくれた」
それだけだった。
だが。
ガルドは答えなかった。
答えられなかった。
風が吹く。
慰霊碑の前を、一行は再び歩き始める。
名前を残した英雄。
名前を失った英雄。
そして。
英雄にならなかった騎士。
それぞれの足跡が交差しながら。
旅は続いていく。
その背で黒剣が微かに鳴った。
カン——。
まるで何かに反応するように。
だが誰も気付かない。
ガルドでさえも。




