第89話 境界の夢
その夜。
ベルンの街は静かだった。
昼間の喧騒は消え、通りを歩く人影もまばらになっている。
宿の窓から差し込む月明かりだけが、薄暗い部屋を照らしていた。
ロックは寝返りを打つ。
眠りは浅かった。
最近ずっとそうだ。
エルフ領を出る前から続いている。
あの違和感。
あの声。
そして——。
気づけば、夢を見ていた。
***
霧だった。
白い。
どこまでも続く霧。
地面があるのかすら分からない。
空も見えない。
音もない。
ロックは一人立っていた。
「……またか」
夢だと分かる。
普通の夢ではないことも。
ここ数日感じている違和感と同じ匂いがした。
前方に何かが見える。
ぼんやりと。
巨大な影。
人ではない。
魔物でもない。
輪郭そのものが曖昧だった。
見ようとすると霞む。
認識しようとすると遠ざかる。
奇妙な存在。
ロックが眉を寄せる。
「お前か?」
返事はない。
だが。
次の瞬間。
声が響いた。
> 『まだ来るな』
聞き慣れた声だった。
男とも女ともつかない。
若くも老いてもいない。
不思議な声。
ロックは舌打ちする。
「そればっかだな」
「だから何なんだよ」
霧が揺れる。
影も揺れる。
返答はない。
だが今までと違った。
影の向こう。
さらに奥。
何かが見えた。
階段だった。
果てしなく続く白い階段。
空へ向かうような。
深淵へ落ちるような。
そんな階段。
ロックの顔から笑みが消える。
本能が理解した。
近づいてはいけない。
まだ。
今は。
その感覚だけが異様に鮮明だった。
> 『境界は近い』
声が響く。
ロックが眉を寄せる。
「境界って何だ」
> 『お前はまだ人の側にいる』
「まだ?」
霧が揺れる。
階段の先に何かがいる。
見えない。
だが。
いる。
ロックの背筋を冷たいものが走った。
死の気配ではない。
もっと大きい。
もっと根源的な何か。
その時だった。
霧の中に別の姿が現れる。
黒い鎧。
巨大な剣。
見慣れた背中。
ガルドだった。
ロックの目が見開く。
「ダンナ?」
だが違う。
振り返らない。
声もない。
ただ階段の方を見ている。
その背後で。
黒剣だけが動いていた。
ゆっくりと。
まるで生き物のように。
ロックが息を呑む。
だが次の瞬間。
全てが崩れた。
霧。
階段。
影。
ガルド。
全てが白く染まる。
そして。
最後に一言だけ。
> 『その時が来れば分かる』
***
ロックは飛び起きた。
「っ!」
荒い呼吸。
額には汗。
まだ夜だった。
窓の外には月が見える。
部屋は静かだ。
誰も起きていない。
「……夢か」
そう呟く。
だが嫌な感覚だけが残っている。
胸の奥が重い。
ロックは頭を掻いた。
「何なんだよ、本当に」
夢の内容を思い出そうとする。
霧。
階段。
声。
そしてガルド。
だが細部はすぐに曖昧になる。
まるで思い出すこと自体を拒まれているようだった。
ロックは溜息を吐く。
眠る気にはなれない。
静かに部屋を出た。
宿の廊下。
階段。
そして屋上。
夜風が吹く。
冷たい空気が火照った頭を冷やしていく。
「最悪だ……」
空を見上げる。
星が綺麗だった。
その時。
屋上の端に人影が見えた。
ガルドだった。
全身鎧。
背には黒剣。
相変わらず無言。
ロックが苦笑する。
「ダンナも寝れねぇのか」
ガルドは少しだけ視線を向ける。
それだけ。
ロックは隣へ歩いていく。
しばらく二人で空を見上げた。
静かな時間。
やがてロックが口を開く。
「変な夢見た」
ガルドは何も言わない。
だが聞いている。
ロックは続ける。
「またあの声だ」
「まだ来るな、だとさ」
夜風が吹く。
しばらく沈黙。
そしてガルドが短く言う。
「……行くな」
ロックは吹き出した。
「だから何処だよ」
ガルドは答えない。
ロックは苦笑しながら空を見る。
本当に変な男だ。
だが。
少しだけ気が楽になった。
夢の内容は分からない。
声の正体も分からない。
それでも。
今はまだ。
考えすぎる必要はない気がした。
その頃。
ベルンの街から遥か遠く。
誰も知らない場所。
闇の中で、一人の男が目を開く。
銀色の瞳。
長い黒髪。
その口元が僅かに動く。
「近いな」
小さな呟き。
誰に向けたものでもない。
だが。
その視線は確かに何かを見ていた。
人では届かぬ場所を。
そして。
まだ誰も知らない未来を。




