第81話 旅立ち
朝の森は静かだった。
白樹の葉が風に揺れ、柔らかな光が地面へ降り注ぐ。
エルフ領で迎える最後の朝。
館の前には、既に旅支度を終えた一行の姿があった。
ロックは背負袋の紐を締めながら空を見上げる。
「結局、ここにも結構いたな」
しみじみと呟く。
最初は入ることすら拒まれた。
結界に弾かれ。
エルフ達に警戒され。
長老に見定められ。
気づけば、もう出発の日だ。
ロックの視線がガルドへ向く。
相変わらず全身鎧。
相変わらず無言。
背には黒剣。
何も変わっていないように見える。
だが、この森に来る前とは確かに違っていた。
フィルエナの印。
レオンの記録。
そして黒剣。
様々なものが少しずつ繋がり始めている。
その本人だけは気づいていないようだったが。
「ダンナ」
ロックが声を掛ける。
ガルドが視線だけ向けた。
「世話になったぐらい言っとけよ」
数秒の沈黙。
そして。
「……世話になった」
ロックが吹き出した。
「本当に言うのかよ」
ガルドは何も言わない。
セリナが小さく笑う。
その隣ではリゼが首を傾げていた。
「?」
まだガルドの言動に慣れていない。
だが、その様子を見たセリナの表情は柔らかかった。
以前なら考えられなかった光景だった。
館の入口からアルヴェインが歩いてくる。
その後ろにはリュシア達の姿もあった。
見送りだ。
リュシアは腕を組みながら鼻を鳴らす。
「人間ども」
相変わらずの口調。
だが敵意はない。
ロックが苦笑する。
「最後までそれかよ」
「当然だ」
言いながらも、その目は少しだけ穏やかだった。
アルヴェインがガルドの前で立ち止まる。
老いたエルフの目が静かに黒剣を見る。
「忘れるな」
短い言葉。
ガルドは頷く。
首元の見えない場所。
黒い炎の痣。
そして胸元の護符。
フィルエナの印が微かに揺れた。
長老はそれを確認するように目を細める。
「まだ時間はある」
「だが無限ではない」
ガルドは短く答えた。
「……ああ」
アルヴェインはそれ以上言わなかった。
今はそれで十分だった。
次に視線がロックへ向く。
ロックは少し身構える。
長老の視線はいつも何かを見透かしているようで苦手だった。
「お主もじゃ」
「俺?」
「森の声を無視するな」
ロックの表情が僅かに固まる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
アルヴェインの目が細くなる。
だが、それ以上は言わない。
ロックも聞かなかった。
聞いてしまえば、答えを求めてしまいそうだったからだ。
代わりに肩を竦める。
「善処する」
長老は小さく笑った。
そして最後にリゼの前へ立つ。
リゼは少し緊張していた。
アルヴェインは優しく頭に手を置く。
「焦るな」
「はい」
「お主はもう一人ではない」
リゼの瞳が揺れる。
横を見る。
セリナ。
ガルド。
ロック。
皆がいる。
少しだけ表情が和らいだ。
「……はい」
長老は満足そうに頷いた。
やがて門が開く。
森の外へ続く道。
来た時とは違う。
もう拒絶する結界はない。
精霊達も静かだった。
一行は歩き始める。
セリナが先導する。
エルフ領の道は彼女が最も詳しい。
しばらく進んだところで、リゼの足が少し止まった。
「リゼ?」
セリナが振り返る。
リゼは森の奥を見ていた。
白樹が揺れている。
風が吹く。
その光景をしばらく見つめたあと、小さく頭を下げた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉だったのか。
精霊か。
森か。
長老か。
あるいは全てか。
誰にも分からなかった。
だが、その瞬間。
風が優しく吹いた。
白い花びらが舞う。
ロックが目を丸くする。
「今の、返事か?」
セリナが苦笑した。
「かもしれないわね」
森は何も答えない。
ただ静かに揺れているだけだった。
やがてエルフ領の境界が見えてくる。
あの日、拒絶された場所。
ロックは立ち止まった。
「懐かしいな」
ついこの前のことなのに。
ガルドも境界石を見る。
あの時は弾かれた。
黒剣も。
ロックも。
今は違う。
境界は静かだった。
アルヴェインの許可もある。
精霊達も騒がない。
一行はそのまま森の外へ出る。
その瞬間だった。
ロックの胸の奥が、僅かにざわつく。
まただ。
敵意ではない。
殺気でもない。
遠く。
どこか遠い場所。
何かが動いている。
死の気配に似ている。
だが違う。
もっと大きい。
もっと曖昧なもの。
ロックは眉を寄せた。
「……」
声には出さない。
今はまだ。
だが。
その感覚は以前より少しだけ強くなっていた。
前を歩くガルドは気づいていない。
いや。
気づいていても言わないだけかもしれない。
旅は再び始まる。
森を出た先には、人の街がある。
聖教会。
失われた記録。
黒剣の過去。
結社。
そして——。
まだ誰も知らない真実。
エルフ領を背に、一行は新たな道へと歩き始めた。




