第77話 境界の呼び声
夜の森は静かだった。
白樹の枝葉が風に揺れ、淡い月光が細く地面へ落ちる。
昼とは違う静寂。
虫の声すら遠い。
エルフの館の灯りだけが、森の闇の中に浮かんでいた。
ロックは一人、館の外に出ていた。
木柵にもたれ、空を見上げる。
「……寝れねぇ」
小さくぼやく。
理由は分かっていた。
ここ数日続く違和感。
森に入ってから、さらに強くなっている。
敵意ではない。
殺気でもない。
だが、胸の奥を掻き回されるような妙な感覚。
まるで——
“何か”が、遠くからこちらを見ている。
ロックは舌打ちした。
「気持ち悪ぃな……」
その時だった。
風が止む。
森の音が消えた。
ロックの表情が変わる。
「……っ」
頭の奥が、ざらついた。
景色が僅かに歪む。
視界が暗く揺れる。
次の瞬間——
声が落ちた。
> 『まだ、来るな』
低い。
遠い。
男とも女ともつかない声。
ロックの背筋に冷たいものが走る。
「……誰だ」
反射的に周囲を見る。
誰もいない。
森は静かなまま。
だが、声は消えない。
> 『境界が近い』
> 『今、触れれば壊れる』
ロックの呼吸が乱れる。
以前。
アズラエルとの戦いの時に聞こえた声。
あの時と同じ。
だが、もっと近い。
もっと鮮明だった。
ロックは拳を握る。
「ふざけんな……」
「何なんだよ、お前……!」
返事はない。
ただ——
頭の奥へ、別の感覚が流れ込んだ。
血。
黒い空。
崩れた塔。
そして。
巨大な“何か”の影。
見えない。
輪郭が認識できない。
だが、存在だけが圧し掛かる。
ロックが息を呑む。
瞬間。
胸の奥で、強烈な嫌悪感が跳ねた。
危険。
近づくな。
死ぬ。
本能が叫ぶ。
ロックは思わず一歩下がった。
その瞬間、景色が戻る。
森の音。
風。
白樹の揺れる音。
全てが元に戻る。
ロックは荒い息を吐いた。
額に汗が滲んでいる。
「……なんだよ、今の」
心臓がうるさい。
嫌な汗が背中を流れる。
これまで感じていた“死の気配”とは違う。
もっと根源的なもの。
未来を見るのではない。
もっと曖昧で。
もっと深い。
“境界の向こう側”に触れかけたような感覚。
ロックは苛立ったように頭を掻いた。
「意味わかんねぇっての……」
その時。
背後で、鎧が小さく鳴った。
ロックが振り返る。
ガルドだった。
全身鎧。
背には黒剣。
いつもの無言の姿。
ロックは少しだけ肩の力を抜く。
「……ダンナか」
ガルドは何も言わない。
ただ、ロックを見る。
それだけだった。
だが、その視線は妙に鋭かった。
ロックは苦笑する。
「そんな顔すんなよ」
「別に死にかけたわけじゃねぇ」
ガルドの沈黙は変わらない。
やがて、一言だけ落ちた。
「……嫌な気配か」
ロックが目を瞬く。
「分かるのか?」
ガルドは少しだけ森の奥へ視線を向けた。
「……少し」
短い返答。
だがロックは眉を寄せた。
ガルドの“少し”は、大体当たる。
ロックは木柵へ背を預け直す。
「最近ずっとだ」
「森入ってから、特に」
「何かに呼ばれてるみてぇな感じがする」
ガルドは黙って聞いていた。
ロックは空を見上げる。
「しかも、近づくなとか言いやがる」
「意味分かんねぇだろ」
苦笑。
だが、その声には微かな不安が混じっていた。
ガルドは少しだけ考えるように沈黙する。
それから、小さく言った。
「……行くな」
ロックが吹き出した。
「ダンナまで言うのかよ」
ガルドは答えない。
だが、その視線は真剣だった。
ロックは笑いながら肩をすくめる。
「分かってるって」
「自分から死地に突っ込む趣味はねぇよ」
そう言いながらも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
その時。
館の二階。
窓辺に立っていたアルヴェインが、静かに二人を見下ろしていた。
長老の目は細い。
特に——ロックへ向いている。
(位相の揺らぎが強くなっておる……)
精霊は拒絶していない。
恐れてもいない。
だが、“噛み合っていない”。
まるで、この世界に半歩だけ深く沈んでいるような感覚。
長老にも正体は分からない。
ただ。
あれは、人の魔力循環ではない。
そして——
森そのものが、それを感じ始めている。
アルヴェインの視線が、次にガルドへ移る。
黒剣。
静かなままの異物。
そしてロック。
二つの“境界”。
偶然とは思えなかった。
風が吹く。
白樹が揺れる。
その葉音の奥で——
誰にも聞こえない声だけが、静かに囁いていた。
> 『まだ、早い』
> 『器は未完成だ』
ロックは、その言葉を聞いていない。
だが胸の奥だけが、妙に冷えていた。




