第74話 静かな異変
エルフの森に、静かな朝が落ちていた。
高く伸びた白樹の枝の隙間から、淡い光が差し込む。
風は柔らかく、葉が擦れ合う音だけが遠く続いていた。
だが、その静けさの中に——
どこか張り詰めたものが残っていた。
長老の館、その一室。
寝台の上で、少女が浅く息を繰り返している。
リゼだった。
首元に刻まれていた不自然な魔法干渉の痕は、以前より薄くなっている。
肌の色も戻りつつあった。
だが、完全ではない。
セリナは寝台の横に座り、妹の手をそっと握っていた。
細い指先は、少しだけ温かい。
「……戻ってきて」
小さく呟く。
ずっと探してきた。
村を出て。
痕跡を辿って。
結社の施設を追い。
何度も、手を伸ばして届かなかった。
やっと、ここまで来た。
だが——まだ遠い。
寝台の向こうで、長老アルヴェインが静かに口を開く。
「調律は成功しておる」
深い皺の刻まれた指が、リゼの首元へ向く。
「暴走の連鎖は抑えた」
「魔力循環も以前より安定しておる」
セリナの表情が少しだけ上がる。
だが、次の言葉で止まった。
「……だが、根は残っている」
空気が静かに沈む。
ロックが壁にもたれたまま眉を寄せた。
「根?」
アルヴェインが頷く。
「外から刻まれた干渉」
「結社の制御痕じゃ」
「調律で表層は整えられても、完全には断てぬ」
セリナの指先が少し震える。
「……治せないの?」
長老はすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
揺れる白樹。
精霊の風。
そして、長い沈黙。
「今は、安定じゃ」
「それだけでも大きい」
セリナは唇を噛んだ。
悔しさ。
安堵。
期待。
恐れ。
その全てが混ざった、複雑な表情だった。
そのときだった。
寝台の上で、リゼの指先が微かに動く。
セリナが息を呑む。
「……リゼ?」
ゆっくりと、少女の瞼が開いた。
淡い金色の瞳。
焦点が揺れる。
ぼんやりと視線が動く。
最初に映ったのは、セリナ。
少女の唇がかすかに震えた。
「……ねぇ、さま……?」
その一言で、セリナの目が見開かれた。
次の瞬間、堪えていたものが崩れた。
「リゼ……!」
思わず抱き寄せる。
リゼの呼吸が少し乱れるが、暴走はない。
震える腕で、セリナの服を掴む。
「……こわかった……」
小さな声だった。
幼い頃と変わらぬ、優しい響き。
セリナの肩が震える。
「もう大丈夫」
「もう、一人にしない」
ロックは視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……よかったな」
そのとき。
寝台の奥、扉の近くに立っていた影へ、リゼの目が向いた。
全身鎧。
背に巨大な黒剣。
無言の騎士。
ガルド。
一瞬だけ、空気が張った。
セリナが身構える。
だが——
リゼは怯えなかった。
じっと見つめる。
それから、小さく言った。
「……あったかい」
ロックが目を瞬く。
セリナも振り向いた。
ガルドは何も言わない。
ただ立っていた。
黒剣も静かだった。
長老アルヴェインの目が細まる。
(やはり——)
完全な治療ではない。
だが。
少女の魔力が、わずかに整っていた。
ガルドの近くにいる時だけ。
黒剣の影響か。
ガルド自身か。
あるいは、その両方か。
まだ分からない。
長老は口を閉ざした。
今は、言うべきではない。
その頃——
館の外。
森の縁。
ロックが一人、歩いていた。
冷たい風が木々を揺らす。
不意に、足が止まる。
「……なんだ?」
胸の奥がざわついた。
敵意ではない。
殺気でもない。
だが。
以前、アズラエルとの戦いのときに感じた
あの“死の気配”に似た違和感。
もっと曖昧で。
もっと遠い。
まるで——
どこか別の場所から、呼ばれているような感覚。
ロックの背筋に冷たいものが走る。
「……気持ち悪ぃな」
拳を握る。
だが次の瞬間。
すっと、その感覚は消えた。
風だけが残る。
森は静かだった。
ロックは眉を寄せたまま、館へ振り返る。
何も言わず、歩き出す。
まだ話すほどではない。
だが。
確かに、何かが動き始めていた。
そして館の中。
窓際に立つガルドが、森の奥を見ていた。
何も言わない。
だが、その視線だけが——
わずかに、遠くへ向いていた。




