第73話 目覚めの余熱
世界樹の最奥。
精霊の泉に、静かな波紋だけが残っていた。
さっきまで暴れていた紫の魔力は消え。
翠の光が、ゆっくりと泉を満たしている。
まるで、森そのものが呼吸を取り戻したようだった。
その中心。
石台の上で、少女が微かに震えていた。
リゼ。
細い肩が上下する。
呼吸は浅い。
だが、生きている。
セリナは、震える手で妹の頬に触れた。
「……リゼ」
かすれた声。
信じられないものを見るように。
リゼの瞼が、ゆっくり開く。
淡い翠の瞳。
以前と同じ。
幼い頃から知っている色だった。
焦点が揺れる。
ぼんやりと。
そして、目の前の顔を見た。
「……ねえ、さま……?」
小さな声。
掠れた。
壊れそうなほど弱い声。
それだけで――
セリナの目から、涙が零れた。
「……リゼ」
堪えていたものが、崩れる。
セリナは妹を抱きしめた。
「よかった……」
「よかった……」
何度も。
何度も繰り返す。
リゼは少し戸惑ったように目を瞬かせた。
だが、抵抗しない。
細い指が、ゆっくりとセリナの服を掴む。
弱く。
確かに。
「……あたたかい」
セリナが息を詰めた。
幼い頃。
寒い夜に、よく言っていた言葉だった。
同じだった。
まだ、妹だ。
壊れていない。
ロックが少しだけ視線を逸らし、鼻を鳴らす。
「……やっとかよ」
軽口のようでいて。
いつもの調子ではない。
安堵が滲んでいた。
リュシアも弓を下ろす。
周囲のエルフたちの緊張も、ようやく解け始める。
だが――
アルヴェインだけは、静かな目で見ていた。
リゼではなく。
ガルドを。
泉の縁。
黒剣を背負ったまま。
ガルドは、変わらず立っていた。
ただ。
その右手が、僅かに震えていた。
ロックが気づく。
「……ダンナ?」
セリナも顔を上げた。
その時。
カン――
黒剣が、小さく鳴った。
同時に。
ガルドの膝が、僅かに沈む。
セリナの顔が変わる。
「ガルド!」
ロックが駆ける。
支えるより早く。
ガルドは片膝をついた。
重い鎧が、根を打つ。
ガン、と鈍い音。
黒剣は抜かれていない。
だが。
鞘の隙間から、黒い霧が細く漏れていた。
以前より静かに。
だが、消えていない。
アルヴェインが前へ出る。
視線は、首元。
鎧の隙間。
そこに――
黒い炎のような痣が、わずかに脈打っていた。
セリナが息を呑む。
「……痣」
前に見た。
だが、今は違う。
広がってはいない。
フィルエナの印が、翠に光り、抑え込んでいる。
それでも。
黒い炎が、内側で揺れていた。
アルヴェインが低く言う。
「無理をした」
ロックが眉をひそめる。
「侵食か?」
長老は首を横に振る。
「進んではおらぬ」
静かな声。
「だが――剣が動きすぎた」
セリナが黒剣を見る。
違和感。
ずっとあった。
泉で。
術式を断った時。
ガルドは剣を抜いていない。
それでも。
黒霧が動いた。
自分で。
ロックが、少し真顔になる。
「……あれ、ダンナがやったんじゃねぇのか」
誰も答えない。
ガルド自身も。
無言。
ただ、呼吸を整えていた。
長老が、ゆっくり黒剣へ近づく。
触れない。
ただ観る。
「自律に近い」
その一言に。
場の空気が、少し変わった。
リュシアが顔を強張らせる。
「剣が……?」
アルヴェインは、わずかに目を細めた。
「まだ断言はせぬ」
「だが」
「主の感情だけで動いているようには見えぬ」
セリナの視線が、ガルドへ向く。
彼は変わらない。
静かだ。
怒りも。
激情も。
大きな波もない。
だからこそ。
黒剣と共存している。
それなのに。
黒剣だけが、少しずつ変わっている。
セリナは、胸の奥に小さな寒気を覚えた。
その時。
石台の上。
リゼが、微かに身を起こした。
セリナが駆け寄る。
「リゼ!」
リゼの瞳が、揺れる。
まだ弱い。
けれど、正気だ。
視線が動く。
セリナ。
ロック。
アルヴェイン。
そして――
ガルドで止まる。
しばらく見つめる。
記憶を探るように。
震える唇。
「……くろい、ひと」
ロックが眉を上げた。
「黒い人?」
リゼは、小さく震えた。
恐怖ではない。
戸惑い。
混乱。
そして――
かすかな安心。
「……こわく、なかった」
セリナが目を見開く。
リゼは、言葉を探しながら続けた。
「……くらいのに」
「しずかで」
「……おちついた」
泉で。
暴走の中。
最も近づいた存在。
黒い鎧。
黒い剣。
それでも。
恐怖ではなかった。
セリナが、静かにガルドを見た。
ガルドは何も言わない。
ただ、小さく視線を返すだけだった。
その時――
ざらつく。
ロックの頭の奥。
「……っ」
息が止まる。
まただ。
泉の底。
見ていないのに。
“近い”。
声が落ちる。
以前より、深く。
以前より、重く。
«『境界が揺らぎ続けている』»
«『剣もまた、目覚め始めた』»
ロックの拳が強く握られる。
«『黒き核は、止まらぬ』»
初めて。
その言葉が変わった。
黒剣を指しているのか。
それとも――
別の何かか。
ロックの額に汗が滲む。
セリナが気づく。
「ロック?」
彼はすぐに笑った。
無理やり。
「……なんでもねぇ」
嘘。
だが、今は言えなかった。
言葉にした瞬間。
何かが近づきそうだった。
アルヴェインは、その様子を静かに見ていた。
気づいている。
だが、問わない。
長老の視線は、泉と黒剣、そしてロックを順に追う。
三つの異変。
別々に見えて。
どこか、繋がっている。
風が吹く。
世界樹の葉が揺れる。
遠くで、精霊がざわめいた。
リゼは、まだ完全ではない。
黒剣は、変化し始めている。
そして――
見えない境界の向こうで。
何かが、少しずつ近づいていた。
静かな安堵の中に。
新しい不穏だけが、確かに芽吹いていた。




