第71話 揺らぐ境界
世界樹の最奥。
精霊の泉が、静かに脈打っていた。
淡い翠の光が、水面を伝い。
根の間を縫うように広がっていく。
まるで森そのものが呼吸しているようだった。
その中心。
石台に横たわるリゼの身体が、微かに浮かび上がっていた。
白銀の髪が揺れる。
泉の光に包まれながら。
アルヴェインが両手を掲げる。
空中に浮かぶ古代精霊文字が、幾重にも重なっていく。
円環。
連鎖。
調律。
幾百年と受け継がれた、エルフの最奥術。
低く、重い詠唱が森に響いた。
「精霊よ」
「乱れた魂を鎮め」
「歪みをほどけ」
光が強くなる。
泉が震える。
リゼの首元に残る紫の痕が、じわりと浮かび上がった。
セリナが息を呑む。
「……っ」
消えていなかった。
深く。
魂に刻まれていた。
リュシアが低く呟く。
「根が深い……」
アルヴェインの額に汗が滲む。
「静まれ」
さらに術を重ねる。
翠の光が、紫の痕へ絡みつく。
押さえ込むように。
ほどくように。
少しずつ。
リゼの呼吸が整っていく。
その細い指が、微かに動いた。
セリナの目が見開かれる。
「リゼ……!」
だが。
次の瞬間だった。
ビキッ――
泉の水面に、黒い亀裂のような波が走る。
ロックが顔を上げた。
「……なんだ?」
ざらつく。
頭の奥。
まただ。
危険な未来が“見える”のではない。
ただ、来ると感じる。
直前の違和感。
骨の奥を掻くような不快感。
「……下がれ!」
ロックが叫ぶ。
その声と同時に。
泉の底が、歪んだ。
紫の魔法陣。
水の下に、見えないはずの術式が浮かぶ。
セリナの顔が凍る。
「結社の干渉……!」
アルヴェインが目を見開いた。
「内部に残されていたか……!」
首輪ではない。
もっと深い。
魂の奥。
リゼの体内に刻まれた、観測と制御の補助術式。
今まで眠っていたそれが。
調律によって浮き上がったのだ。
リゼの身体が、大きく跳ねた。
「……あ……あぁッ!」
初めて。
声が漏れた。
苦しみの叫び。
セリナが駆け寄る。
「リゼ!」
だが。
紫の衝撃が弾けた。
轟音。
セリナの身体が吹き飛ぶ。
「――っ!」
ロックが受け止める。
「セリナ!」
セリナは咳き込みながらも、叫ぶ。
「近づいちゃ駄目!」
リゼの周囲に、暴走した魔力が渦巻いていた。
風。
炎。
雷。
無秩序な属性が、空間を裂く。
以前より不安定だった。
調律が途中だからだ。
抑えかけた魂が、逆に揺らいでいる。
アルヴェインが歯を食いしばる。
「泉を壊すな……!」
術を維持する。
だが。
押し切れない。
その時。
根の外側。
一歩。
ガルドが動いた。
黒剣を背負ったまま。
泉へ向かう。
セリナが顔を上げる。
「ガルド……!」
だが。
止めない。
もう知っている。
この場で、最も近づけるのは彼だと。
リゼの暴走魔力が、ガルドへ向かう。
雷撃。
炎弾。
風刃。
だが。
ガルドは剣を抜かない。
静かに歩く。
その目だけが。
僅かに鋭くなっていた。
助ける。
その意志だけが、宿る。
一歩。
また一歩。
近づく。
黒剣が、カン……と鳴る。
そして。
首元。
鎧の隙間。
黒い炎の痣が、微かに揺れた。
同時に。
胸元のタリスマンが、翠に光る。
フィルエナの印。
緑の光が、痣を抑え込むように脈打つ。
侵食は進ませない。
だが――
その感情の揺らぎだけは。
黒剣へ届いた。
ガルドの背。
鞘の隙間から、黒い霧が漏れた。
セリナが息を呑む。
「……黒霧」
以前と違う。
噴き出すようではない。
細く。
静かに。
生き物のように。
足元を這う。
霧は、泉へ流れ込んだ。
リゼを傷つけず。
周囲の紫の術式だけへ絡みつく。
触れた瞬間。
バチッ――
紫の魔法が、一瞬だけ途切れる。
アルヴェインが目を見開いた。
「干渉を……断った?」
ロックが舌打ちする。
「ダンナ、相変わらず規格外だな……」
だが。
ガルド自身は何もしていない。
剣を抜いていない。
ただ。
近づいているだけ。
セリナは、その違和感に気づきかける。
けれど今は――
考える余裕がなかった。
リゼの叫びが、少しずつ変わっていく。
苦痛から。
混乱へ。
そして。
対象が変わる。
紫の瞳が、ゆっくり開いた。
焦点の合わない目が。
ただ一人を見た。
ガルド。
彼へ。
魔力の渦が集中する。
風が唸る。
泉が震える。
リゼの唇が、かすかに動いた。
「……ぁ……」
言葉にならない。
だが。
明確に、標的が移った。
セリナが震える声で呟く。
「……また、ガルドに」
ロックが短剣を握る。
「来るぞ」
ガルドは止まらない。
泉の縁。
あと数歩。
その時だった。
ロックの頭の奥に、再び“声”が落ちる。
今度は、はっきりと。
«『泉の底を見るな』»
«『まだ、触れるな』»
ロックの目が見開く。
「……っ」
誰だ。
また、お前か。
だが。
問いは届かない。
目の前では。
少女の暴走と、黒剣の霧。
精霊の泉と、結社の干渉。
すべてが、ひとつの点へ収束し始めていた。
そして。
ガルドが――
泉へ、手を伸ばした。




