第66話 同期
張り詰めた空気の中。
ガルドが、一歩前へ出た。
ただ、それだけ。
黒剣には、まだ触れない。
柄にも。
背中のハーネスにも。
何も。
だが――
その一歩だけで。
三人の観測者が、ぴたりと動きを止めた。
仮面の奥。
初めて。
“警戒”が滲む。
先頭の仮面が、静かに口を開く。
「……黒剣」
感情のない声。
だが、その一拍に、僅かな揺らぎがあった。
「適合率……想定以上」
ロックが、口元を歪める。
「おいおい、ビビってんのか?」
返事はない。
その代わり――
空中の魔法陣が、さらに強く紫に染まった。
「同期率、上昇」
「再接続、第二段階へ移行」
その瞬間。
セリナの腕の中で。
リゼの身体が、大きく仰け反った。
「――ッ!!」
「リゼ!!」
セリナが、思わず抱きしめる。
首元だけではない。
肩。
腕。
首筋。
淡い紫の紋様が、皮膚の下から浮かび上がる。
まるで、身体そのものが書き換えられていくように。
リュシアが息を呑む。
「……何なの、これ……」
アルヴェインの目が険しくなる。
「魂そのものへ干渉している……!」
ロックが舌打ちする。
「クソが……人間にやることじゃねえだろ……!」
だが。
リゼの苦しみは、止まらない。
「ぁ……あ……っ……!」
セリナの声が、震える。
「やめて……お願い、やめて……!」
その声が。
ガルドの耳へ届く。
静かな男の中で。
ほんの僅かに。
何かが、揺れた。
守りたい。
助けたい。
それは怒りではない。
激情でもない。
ただ――
“守る”という、静かな意志。
その瞬間。
セリナの視線が、ふとガルドの首元へ向く。
「……っ!」
黒い痣。
炎のような紋様が――
僅かに、揺れた。
まるで、熱を帯びたように。
だが。
次の瞬間。
ガルドの胸元。
タリスマンに映るフィルエナの印が、ふわりと緑に光った。
優しく。
包み込むように。
翡翠の光が、首元へ流れる。
黒い炎を、静かに撫でるように。
そして――
痣は、再び静まった。
広がることも。
脈打つこともなく。
ただ、そこに留まる。
セリナの目が見開かれる。
「……フィルエナの印が」
リュシアも、息を呑む。
アルヴェインは、小さく目を細めた。
「……あぁ、効いているのか……」
だが――
その直後だった。
カチャ……
微かな音。
誰も、最初は気づかなかった。
だが。
ロックの目が、見開かれる。
「……おい」
セリナも、息を止める。
ガルドは――
動いていない。
黒剣にも、触れていない。
なのに。
背中の黒剣が――
僅かに、ひとりで動いた。
カチャ……
背中の黒剣を留めるハーネスの中。
刃が、僅かに浮く。
観測者たちの空気が、変わる。
「……?」
「……記録にないぞ」
「自律反応しているのか……?」
次の瞬間。
ガルドの背中から――
黒い霧が、ふわりと漏れた。
意思を持つように。
生き物のように。
真っ直ぐ――
紫の糸へ向かって伸びる。
「なっ――」
観測者の声が、初めて揺らいだ。
黒霧が。
空中の紫の糸へ触れる。
次の瞬間――
ブツン。
まるで、見えない線を断ち切るように。
紫の糸が、切れた。
「――ッ!?」
魔法陣が、大きく歪む。
リゼの身体から、紫の光が消えていく。
苦しそうだった呼吸が、少しずつ戻る。
セリナが、涙ぐんだ声で叫ぶ。
「リゼ……!」
観測者たちが、初めて一歩退いた。
仮面の奥で。
明確な動揺。
「黒剣が……」
「主の操作なしに……」
「自己判断なのか……?」
ロックが、思わず笑う。
「……はは」
短剣を構え直す。
「ダンナより、剣の方が短気らしいな」
だが。
ガルドは、何も言わない。
自分でも。
何が起きたのか、分かっていない。
ただ。
静かに、前を見ている。
その背中で。
黒剣だけが――
微かに、低く鳴いていた。
まるで。
“仲間に触れるな”
そう、告げるように。




