第64話 境界を越える者
世界樹の空気が、僅かに揺れた。
ほんの一瞬。
風でもない。
精霊のざわめきでもない。
“異物”が触れた時だけ生まれる、森の拒絶。
アルヴェインの目が、細くなる。
「……まさか」
小さく。
だが、その声には明確な警戒があった。
セリナも、すぐに振り返る。
「今の……」
ガルドは、何も言わない。
だが、その視線はすでに外へ向いている。
世界樹の外。
森の奥。
確かに――何かがいる。
その時。
外から、ロックの声が響いた。
「セリナ!! ダンナ!!」
ただ事ではない。
次の瞬間。
ロックが、世界樹の根の入口へ飛び込んできた。
息が荒い。
だが、その目は冴えている。
「……来やがった」
ロックの後ろ。
リュシアも駆け込んでくる。
普段崩さない表情が、僅かに強張っていた。
「侵入者です」
短く。
だが、重い。
「結界を……抜けてきた」
セリナの目が見開かれる。
「そんな……」
あり得ない。
結界は、精霊そのもの。
無理矢理破れば、森全体が反応する。
だが――
今回は違う。
誰にも気づかれず。
“すり抜けた”。
アルヴェインの表情が、さらに険しくなる。
「……干渉か」
低く。
一つの可能性に辿り着く。
「外から結界そのものを読まれたか」
ロックが舌打ちする。
「結社か?」
アルヴェインは答えない。
だが、その沈黙が答えだった。
セリナが、無意識にリゼを抱き寄せる。
「……追ってきたの?」
ロックが首を振る。
「違う」
短く。
そして。
「最初から、ここを探ってた」
その言葉に。
アルヴェインの瞳が、僅かに揺れる。
世界樹。
精霊の泉。
この場所そのものが狙い――
そこまで考えた時。
森全体に、鋭い警戒が走った。
エルフたちの気配。
弓を引く音。
木々を蹴る音。
戦士たちが、一斉に動き出す。
リュシアが、すぐに振り返る。
「迎撃します」
だが。
アルヴェインが、静かに首を振った。
「待て」
その一言で、空気が止まる。
リュシアの目が揺れる。
「長老?」
アルヴェインの視線は、ガルドへ向いていた。
そして。
ゆっくりと言う。
「……お前たちを、見に来たのだろう」
ロックが眉をひそめる。
「何?」
アルヴェインは続ける。
「結界を壊さず」
「森を刺激せず」
「ただ、ここまで辿り着いた」
静かに。
「目的は奪還ではない」
「観測だ」
セリナの背筋に、冷たいものが走る。
結社。
あの地下施設。
あの観測者たち。
まるで、実験の続きを見に来たような――
その時。
世界樹の外。
森の奥から、ゆっくりと足音が響いた。
一歩。
また一歩。
焦らすように。
見せつけるように。
ロックの表情が、険しくなる。
「……来るぞ」
木々の間から、影が現れる。
黒い外套。
顔は見えない。
だが――
一人ではない。
三人。
まるで、最初から森の中にいたかのように。
セリナが息を呑む。
「……何なの、あれ」
リュシアが弓を引く。
エルフたちも、すでに包囲している。
だが。
誰も撃てない。
撃てば、何かが起きる。
そんな本能的な警戒。
その時。
先頭の黒衣が、ゆっくりと顔を上げた。
仮面。
目だけが見える。
そして――
真っ直ぐ、ガルドを見る。
「……やはり」
男の声。
感情のない声。
だが、その一言だけで。
全員の背筋が凍る。
「黒剣は、君を選んだか」
セリナの目が見開かれる。
ロックが、一歩前へ出る。
「……お前ら、何者だ」
仮面の男は答えない。
ただ。
その視線は、ガルドから一度も逸れない。
そして。
小さく、笑った。
「観測は、成功だ」
その瞬間。
ガルドの背中の黒剣が――
ドクン、と。
今までにないほど、深く脈打った。




