第63話 調律
世界樹の朝は、静かだった。
鳥の囀り。
葉が擦れる音。
小川のせせらぎ。
森そのものが呼吸しているような、穏やかな時間。
だが――
「……ここから先は、私と長老だけだ」
リュシアの声は、張り詰めていた。
世界樹の根元、そのさらに奥。
普段は誰も立ち入らない、最深部へ続く道。
淡い緑の光が、足元を照らしている。
セリナが、静かに頷く。
「分かったわ」
隣にいるカルドの背中には、眠ったままのリゼ。
昨夜よりも顔色はいい。
呼吸も安定している。
だが――まだ、目は覚めない。
アルヴェインが、静かに振り返る。
「調律は、干渉を断つものではない」
翠の瞳が、四人を順に見る。
「乱れた流れを整え」
「侵食された魂と肉体を、本来あるべき形へ戻すものだ」
ロックが腕を組む。
「つまり、“治す”んじゃなく、“戻す”ってことか」
アルヴェインが、僅かに頷く。
「理解は早いな」
ロックが肩をすくめる。
「頭痛いと、変に冴える時があんだよ」
軽口。
だが、額には汗が浮いている。
森に入ってから楽にはなった。
それでも。
世界樹に近づくほど、“ざらつき”は形を変えて強くなっていた。
不快感ではない。
むしろ――
“呼ばれている”。
そんな感覚。
ロックが無意識に、世界樹の奥を見る。
何かが、いる。
いや――
何かが、“こちらを知っている”。
その時。
アルヴェインの視線が、ロックで止まった。
ほんの一瞬。
だが。
全てを見透かすような視線。
「……お前は、ここより先へは来るな」
ロックが眉をひそめる。
「なんでだよ」
アルヴェインは答えない。
代わりに。
世界樹の奥へ視線を向けた。
「まだ、早い」
昨夜と同じ言葉。
だが、今度は意味が違う。
ロックが舌打ちする。
「またそれかよ」
セリナが、小さくロックを見る。
「……今は従って」
ロックは数秒だけ黙り――
やがて、肩をすくめた。
「分かったよ」
だが。
視線だけは、世界樹の奥から離れない。
何かが。
確かに、いる。
その後ろ。
ガルドは、何も言わない。
ただ、静かに立っている。
首元には、フィルエナの印。
翡翠色の護符が、淡く光っている。
その光に呼応するように。
黒い痣も、静かなままだ。
セリナが、少しだけ安堵する。
アルヴェインが、今度はガルドを見る。
「お前は、来い」
短く。
ロックが目を丸くする。
「……俺はダメで、ダンナはいいのか?」
アルヴェインは答える。
「黒剣は拒絶される」
静かに。
「だが――今は、許されているのだ」
フィルエナの印が、淡く光る。
森が。
精霊が。
黒剣を、完全ではないが受け入れている。
ロックが苦笑する。
「……ダンナ、森にも気に入られ始めたか」
ガルドは答えない。
ただ。
リゼへ視線を向ける。
アルヴェインが、静かに歩き出した。
世界樹の根の奥へ。
セリナが続く。
ガルドも。
リゼを背負ったまま。
緑の光に包まれながら。
その先に見えたのは――
巨大な空洞。
世界樹の根が、円を描くように広がり。
中央には、水面のように揺れる光。
祭壇。
いや――
“泉”に近い。
セリナが、息を呑む。
「……精霊の泉」
幼い頃。
物語でしか聞いたことのない場所。
アルヴェインが、静かに頷く。
「ここが、調律の間」
その瞬間。
リゼの首元が、ふわりと光った。
今までとは違う。
苦しむような光ではない。
呼応するような。
導かれるような。
セリナの目が見開かれる。
「……反応してる」
アルヴェインが、静かに言う。
「精霊が、触れ始めた」
だが。
その直後だった。
外から――
「……ッ!」
ロックの声。
何かに気づいたような、鋭い声。
次の瞬間。
ガルドの目が、僅かに細くなる。
世界樹の外。
森の空気が――
一瞬だけ、歪んだ。
誰かが。
“入ってきた”。
しかも――
結界を、すり抜けて。




