第61話 友の残影
夜だった。
世界樹の根元。
静かな森に、虫の声だけが響いている。
昼間のざわめきは、もうない。
エルフたちも、それぞれの住居へ戻り。
森は、本来の静けさを取り戻していた。
その中で。
アルヴェインは、一人立っていた。
世界樹の根に、そっと手を添えて。
目を閉じている。
風が吹く。
銀の髪が、静かに揺れた。
「……長老」
後ろから声がした。
リュシアだった。
弓を背負ったまま、静かに歩み寄ってくる。
「まだ起きておられたのですね」
アルヴェインは、目を閉じたまま答えた。
「眠れぬ夜もある」
短く。
リュシアは、その隣に立つ。
しばらく、沈黙。
やがて。
「……あの人間」
リュシアが口を開く。
「本当に、記録の英雄と同じなのですか」
アルヴェインは、ゆっくりと目を開いた。
翠の瞳が、世界樹の光を映す。
「同じではない」
小さく。
「……だが、同じものを背負っている」
リュシアは黙る。
アルヴェインの視線は、遠くを見ていた。
何百年も前。
まだ森が、外界と繋がっていた頃。
エルフと人が、共に戦っていた時代。
アルヴェインは、世界樹の根へそっと手を添える。
淡い緑の光が、指先を伝った。
「……忘れるものか」
静かに。
だが、その声には、僅かな熱があった。
「あの日を」
風が止まる。
森の音すら、耳を澄ませているようだった。
「この森が焼かれ」
「精霊が泣き」
「そして――」
ゆっくりと、目を閉じる。
「私の友が、最後まで剣を振るった日を」
リュシアの目が、見開かれる。
「……友……?」
アルヴェインの脳裏に。
遠い昔の光景が、鮮明に蘇る。
炎。
咆哮。
崩れ落ちる森。
邪竜の黒い翼。
そして――
その前に立つ、一人の人間。
まだ若い。
傷だらけで。
それでも、笑っていた。
黒剣を肩に担ぎ。
全身に、黒い炎の痣を浮かべながら。
『おい、そんな顔するなよ』
明るい声。
若き日のアルヴェイン。
今より、ずっと未熟で。
世界の広さすら知らなかった頃。
その隣に立っていた。
たった一人の、人間。
『お前ら、長生きなんだろ?』
『だったら、俺の分まで覚えとけ』
炎の中で。
笑いながら。
それでも、剣を下ろさなかった男。
アルヴェインの瞳が、僅かに揺れる。
「……レオン」
小さく。
何百年ぶりに、その名を口にする。
「お前は最後まで……笑っていたな」
リュシアが、言葉を失う。
長老のそんな顔を。
見たことがなかった。
「守れると思っていた」
アルヴェインが、静かに続ける。
「精霊も」
「森も」
「仲間も」
世界樹の光が、静かに揺れる。
「……だが、守れなかった」
かすれた声。
何百年も抱え続けた後悔が、そこにはあった。
アルヴェインは、ゆっくりと自分の胸元へ手を伸ばした。
衣の内側。
そこから、一つの護符を取り出す。
翡翠色の石。
精霊文字が刻まれた、小さなタリスマン。
長い年月を経ても、淡く光り続けている。
リュシアが息を呑む。
「……まさか」
アルヴェインは、護符を静かに見つめる。
「渡すはずだった」
小さく。
自分へ言い聞かせるように。
「戦いが終わったら、渡すと約束した」
握る手に、僅かに力が入る。
「……だが、間に合わなかった」
何百年も。
ずっと、持ち続けてきた。
守れなかった友へ渡すはずだったものを。
その時。
後ろで、足音がした。
ロックだった。
水でも飲みに出てきたのか、片手に木杯を持っている。
「あー……悪い」
少し気まずそうに。
「聞くつもりじゃなかったんだけどな」
リュシアが睨む。
だが、アルヴェインは止めない。
むしろ。
ロックを見た。
その翠の瞳が、深く細くなる。
「……お前」
ロックが眉をひそめる。
「なんだよ」
アルヴェインは、少しだけ沈黙し――
やがて、小さく言った。
「お前もまた……境界の者か」
ロックの動きが、止まる。
木杯を持つ手が、僅かに止まる。
「……何の話だ?」
アルヴェインは答えない。
ただ。
小さく目を閉じた。
「……まだ、早い」
短く。
それだけ。
ロックは、何も言えなかった。
ざらつく。
頭の奥が。
また、少しだけ。
そして。
アルヴェインは、護符を握りしめながら。
静かに呟いた。
誰にも聞こえないほど、小さく。
「……今度こそ」
その声を。
世界樹だけが、静かに聞いていた。




