第58話 記憶を継ぐ者
森の奥へ進むにつれ。
空気は、さらに濃くなっていった。
木々は高く。
枝葉は空を覆い。
差し込む陽の光すら、緑に染まっている。
「……すげえな」
ロックが思わず呟く。
声が自然と小さくなる。
まるで、この場所そのものに“聞かれている”ようだった。
頭の奥のざらつきは、まだある。
だが。
境界の外で感じていた不快感とは違う。
今はむしろ――
何かが、自分を観察している。
そんな感覚。
「黙って歩け」
前を歩くリュシアが言う。
ロックは肩をすくめる。
「へいへい」
セリナは何も言わない。
ただ、周囲を見ていた。
懐かしい。
だが。
同時に、少しだけ遠い。
記憶の中の森と、同じで。
どこか違う。
その後ろ。
ガルドは変わらず歩いていた。
背にリゼを乗せたまま。
歩幅も。
呼吸も。
何一つ変わらない。
その姿に、周囲のエルフたちは無言のまま視線を向けている。
警戒。
戸惑い。
そして――
恐れ。
やがて。
森が開けた。
そこには。
巨大な樹があった。
森そのものが形を持ったかのような。
天を貫くほどの大樹。
幹には、淡い緑の紋様が脈打っている。
「……世界樹」
セリナが、小さく呟く。
ロックが目を見開く。
「これが……」
言葉が続かない。
その存在感に、圧倒されていた。
大樹の根元。
木々と一体化するように建てられた、静かな住居。
いや――
神殿に近い。
リュシアが足を止める。
「ここから先は、私語を慎め」
誰も答えない。
自然と、そうなる。
入口をくぐる。
中は静かだった。
木の香り。
水の音。
風が通り抜ける音。
そして。
その奥に、一人の男が座っていた。
長い銀髪。
深い緑の衣。
閉じた瞳。
微動だにしない。
まるで、最初からそこに“在った”ような存在。
ロックが思わず息を呑む。
「……この人が」
リュシアが静かに頭を下げる。
「長老、アルヴェイン様」
セリナも、自然と膝をつく。
一瞬だけ迷い。
そして、頭を下げた。
「……お久しぶりです」
アルヴェインは、ゆっくりと目を開いた。
深い翠の瞳。
一瞬。
その視線が、ロックへ向く。
「……」
ロックの背筋に、冷たいものが走る。
見透かされた。
そんな感覚。
次に。
セリナを見る。
そして――
小さく頷く。
「……帰ったか」
短く。
それだけ。
だが。
その一言に、セリナの肩が僅かに揺れた。
そして。
最後に。
視線が、ガルドへ向く。
動きが、止まった。
空気が、変わる。
ロックが息を止める。
アルヴェインは、何も言わない。
ただ。
じっと見ている。
ガルドを。
背中の黒剣を。
そして――
首元を。
その時。
ガルドが、ゆっくりと膝を折る。
リゼを下ろそうと、身体を少し前に傾ける。
鎧の隙間。
首元。
そこに刻まれた、黒い痣。
炎の形をした紋様。
その瞬間。
アルヴェインの瞳が、大きく見開かれた。
初めて。
その無表情が、崩れる。
「……ッ」
息を呑む音。
静かな部屋に、それだけが響く。
リュシアが目を見開く。
「……長老?」
アルヴェインは答えない。
ゆっくりと、立ち上がる。
何百年も動かなかったものが、動いたような。
そんな重み。
一歩。
また一歩。
ガルドの前へ。
そして――
かすれた声で、呟く。
「……黒い炎」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、過去をなぞるように。
震える指が、僅かに伸びる。
だが、触れない。
触れられない。
「……同じだ」
ロックが眉をひそめる。
「同じ……?」
アルヴェインの視線は、ガルドから離れない。
深い記憶の底を見ているようだった。
「……その男を」
静かに。
だが、揺るぎなく。
「……近くへ」
リュシアが、言葉を失う。
森が静まり返る。
セリナも。
ロックも。
何も言えない。
ただ一人。
ガルドだけが、何も変わらない。
静かに。
無言のまま。
長老の前へと、一歩踏み出した。
そして――
アルヴェインの脳裏に。
遠い昔。
炎に焼かれながら、それでも笑っていた。
一人の“人間”の姿が、蘇っていた。




