第57話 森の民
結界を越えた瞬間。
空気が、変わった。
いや――
空気そのものが“生きている”。
ロックが、ゆっくりと息を吐く。
「……なんだ、ここ」
頭の奥をざらつかせていた違和感が、少しだけ遠のいていた。
完全ではない。
だが、森の外よりは明らかに楽だ。
「頭痛は?」
セリナが振り返る。
ロックは首を回しながら、小さく笑った。
「……少しマシだな」
だが、その目は周囲を警戒したままだ。
楽になった。
だからこそ、逆に分かる。
“何か”に見られている。
森そのものに。
試されているような。
そんな感覚。
「気を抜くなよ」
ぼそりと呟く。
誰に向けた言葉でもない。
リュシアが先頭を歩く。
その背中は、一切こちらを信用していない。
「余計なものには触れるな」
振り返らずに言う。
「木も、水も、石も」
「この森の全ては、お前たちを見ている」
ロックが苦く笑う。
「歓迎されてねえのは分かった」
リュシアは答えない。
そのまま進む。
森の中。
道らしい道はない。
それでも、エルフたちは迷わない。
木々の間。
根の上。
小川を越え。
森と一体になったような足取りで進んでいく。
セリナもまた、自然とその歩調に馴染んでいた。
ロックが横目で見る。
「……やっぱ、お前ん家なんだな」
セリナは少しだけ目を細める。
「……帰ってきた感覚は、まだないけどね」
短く。
だが、その声には僅かな揺らぎがあった。
その後ろ。
ガルドは変わらない。
背にはリゼ。
一定の歩幅。
一定の呼吸。
何一つ乱れない。
だが――
「……あれ?」
ロックが、ふと気づく。
ガルドの背。
リゼの首元。
昨日まで、移動の揺れだけでも不安定になっていたはずなのに。
今は、静かだった。
首元の光も。
呼吸の乱れも。
ない。
セリナも気づく。
「……森が、抑えてる?」
リュシアが初めて足を止めた。
僅かに、後ろを見る。
「精霊の領域よ」
短く。
「外の穢れは、ここでは弱まる」
セリナの表情が少しだけ和らぐ。
「……よかった」
その声に。
ガルドの背中で、リゼの指がわずかに動く。
鎧に、そっと触れる。
無意識か。
それとも――
セリナは、その様子を静かに見つめた。
その時だった。
木々の間から、小さな影が覗く。
子ども。
エルフの子どもたち。
三人。
興味半分。
警戒半分。
こちらを見ている。
ロックが片手を上げる。
「よ」
次の瞬間。
子どもたちの視線が、ガルドへ向いた。
正確には――
その背中の黒剣へ。
そして。
「……っ」
一人の子どもが、小さく息を呑む。
次の瞬間。
泣き出した。
「う、うわぁぁぁっ!」
「っ!?」
ロックが目を丸くする。
他の子どもたちも、一斉に逃げ出す。
「黒いの……!」
「こわい……!」
森の奥へ消えていく。
静寂。
ロックが苦笑する。
「……傷つくな、これ」
だが。
リュシアは笑わない。
むしろ、その目はさらに鋭くなっていた。
「子どもは敏感よ」
短く。
「精霊より先に、異物を見抜くこともある」
視線は、黒剣へ。
ロックも黙る。
その時。
道の脇。
年老いたエルフが、水を汲んでいた。
白髪。
深い皺。
長く生きてきたことが、一目で分かる。
その老人の目が、ふとガルドへ向く。
そして――
ぴたりと止まった。
視線は、黒剣ではない。
もっと上。
ガルドの首元。
鎧の隙間。
そこに見える、黒い痣。
老人の瞳が、大きく見開かれる。
手に持っていた木桶が、地面へ落ちた。
乾いた音。
全員の視線が集まる。
老人は、震える指でガルドを指した。
「……まさか……」
かすれた声。
信じられないものを見る目。
リュシアの表情が変わる。
「どうした、長老補佐」
だが、老人は答えない。
いや――
答えられない。
その目は、黒い痣から離れなかった。
「……黒い、炎……」
小さく。
震える声。
「記録と……同じ……」
その言葉に。
セリナの目が細くなる。
ロックも息を呑む。
リュシアの表情が、初めて揺らいだ。
「……何?」
老人は、ようやく顔を上げる。
その瞳には、明確な動揺があった。
「……アルヴェイン様に」
かすれた声で。
「すぐに……お伝えを」
森の空気が、変わる。
ただの異物ではない。
ただの侵入者でもない。
何かが――
過去と、繋がった。
リュシアは数秒だけ黙り込み――
やがて、静かに頷いた。
「……予定を変える」
振り返る。
その視線は、真っ直ぐガルドへ。
「長老のもとへ案内する」
森が、静かにざわめいた。
まるで。
何かを、迎え入れるように。




