第53話 森へ至る道
夜が明ける頃には、空気が変わっていた。
潮の匂いは、もうしない。
代わりに、湿った土の匂い。
草木の青さ。
朝露を含んだ冷たい風が、肌を撫でる。
森が近い。
「……ここから先は、馬車も終わりね」
セリナが言う。
小さな停留地。
森の手前で止まった馬車から、四人は降りる。
御者は一度もこちらを深く見ようとしなかった。
金だけ受け取り、すぐに去っていく。
ロックがその背を見送り、小さく笑う。
「……俺たち、そんなに怪しく見えるか?」
セリナは即答する。
「見えるわ」
ロックが肩をすくめる。
「即答かよ」
その横を、ガルドが通り過ぎる。
背には、リゼ。
眠っている。
だが、完全に眠れているわけではない。
時折、小さく指が動く。
呼吸も浅い。
それでも――
ガルドの背にいる限り、安定している。
セリナが、その様子を確認する。
そして――
また目に入る。
首元。
鎧の隙間。
黒い痣。
炎のように揺らぐそれが、昨日より少しだけ広がっているように見えた。
「……」
セリナの指が、わずかに強く握られる。
気づいていない。
ガルド本人は。
それが、余計に胸を重くする。
「どうした?」
ロックが気づく。
セリナは、一瞬だけ視線を逸らし――
「……何でもない」
そう答える。
ロックは、それ以上聞かない。
ただ。
目だけは、少しだけ細くなる。
森へ入る。
一歩。
また一歩。
その瞬間。
空気が、変わる。
音が減る。
鳥の声すら、遠い。
風も、妙に静かだ。
ロックの足が、止まる。
「……またか」
低く呟く。
セリナが振り返る。
「ロック?」
ロックは、前を見たまま答える。
「……静かすぎる」
セリナは目を閉じる。
意識を広げる。
精霊の流れ。
木々の呼吸。
水の気配。
異常は――ない。
「問題ないわ」
そう言いかけて。
ロックが、首を振る。
「違う」
短く。
だが、はっきりと。
「“何もない”のが気持ち悪い」
その言葉に。
セリナの表情が少しだけ変わる。
ロックがここまで言うのは珍しい。
しかも――
その顔色が悪い。
「……顔、白いわよ」
ロックが苦く笑う。
「気持ち悪いんだよ」
冗談ではない。
額に、うっすら汗。
呼吸が、少し浅い。
「……頭の奥が、ざらつく」
言葉にしながら、自分でも意味が分からない。
だが、確かにそう感じる。
ざらざらと。
何かが擦れるような。
そして――
“こっちじゃない”。
その感覚だけが、強い。
ロックが、森の奥を睨む。
「……右はダメだ」
セリナが周囲を見る。
本来なら、右が最短だ。
精霊の流れも悪くない。
だが。
「……理由は?」
ロックは、即答しない。
数秒。
そして。
「……死ぬ気がする」
静かに。
冗談ではない声で。
セリナの目が、細くなる。
そこまで言うなら――
「……分かった」
迷わない。
「左へ行く」
ロックが、小さく息を吐く。
「助かる」
ガルドは、何も言わない。
ただ。
そのまま、左へ向きを変える。
セリナも続く。
ロックも。
その時。
森の奥。
本来進むはずだった右側の道から――
ガサリ、と。
何かが動いた。
全員が止まる。
ロックの目が鋭くなる。
「……ほらな」
次の瞬間。
木々の間から。
黒い影が、ゆっくりと姿を現す。
狼。
いや――違う。
狼の形をしているだけだ。
全身を覆う黒い靄。
赤く光る目。
明らかに、自然の生き物ではない。
セリナが息を呑む。
「……魔獣……?」
ロックが低く笑う。
「しかも、待ち伏せかよ」
一体。
二体。
三体。
木々の奥から、次々と現れる。
囲まれている。
セリナが、弓に手をかける。
だが。
ガルドは、動かない。
背にリゼを乗せたまま。
ただ――
首だけが、わずかに動く。
狼たちを見る。
その瞬間。
黒剣が、ドクンと脈打った。
セリナの目が、再び首元へ向く。
黒い炎の痣が――
今度は、はっきりと揺らいでいた。
「……ガルド」
思わず、名前を呼ぶ。
だが。
その声に応える前に。
ロックが、一歩前へ出る。
口元を拭う。
まだ、気持ち悪い。
頭も重い。
それでも――
目だけは、冴えていた。
「……来るぞ」
その瞬間。
黒い狼たちが、一斉に地を蹴った。




