第32話 無言の選択
雨は、もうなかった。
だが。
空気はまだ、重かった。
景色がゆっくりとほどけていく。
戦場の残滓が消え、土の匂いも薄れていく。
代わりに現れたのは――
ざわめき。
人の声。
酒と鉄の匂い。
ロックが周囲を見渡す。
「……今度は、街か」
セリナも静かに頷く。
そこは、騎士団とはまるで違う場所だった。
粗雑な木の机。
雑多な装備。
笑い声と怒号が混ざる空間。
壁には無造作に貼られた依頼書。
――冒険者ギルド。
その中で。
一人、静かに立っている男。
黒い鎧。
背筋の伸びた姿勢。
だが。
誰とも関わらない。
視線も交わさない。
ただ、依頼書を見ている。
ロックが小さく呟く。
「……変わんねぇな」
立場は変わっているはずなのに。
中身は、何一つ変わっていない。
その時。
近くの冒険者たちの声が耳に入る。
「最近よ、山の方が妙なんだ」
「魔獣が減ってるって話だろ?」
「ああ、それに――」
声が少しだけ潜まる。
「人の出入りが増えてる」
「依頼でもねぇのに、な」
セリナがわずかに反応する。
ロックも眉をひそめた。
「……嫌な匂いだな」
ガルドは動かない。
だが。
次の瞬間、依頼書を一枚、静かに取る。
「……行くのかよ」
ロックがぼそりと呟く。
答えはない。
そのまま、歩き出す。
――――――
山は、静かだった。
風が抜ける音だけが響く。
ロックが周囲を見回す。
「……静かすぎるな」
魔獣の気配がない。
本来なら、もっと荒れているはずだ。
セリナがしゃがみ込み、地面を見る。
「……足跡」
指でなぞる。
「人のものが多い」
「しかも、同じ方向」
ロックが舌打ちする。
「依頼でもねぇのに、集団かよ」
ガルドは、足を止めない。
迷いもない。
ただ、進む。
やがて。
岩場に出る。
崖の縁。
その下に、開けた空間。
ロックが目を細める。
「……いたな」
複数の人影。
五人。
いや、六人。
装備はばらばら。
だが、動きに無駄がない。
囲んでいる。
その中心にあるものを。
セリナが息を呑む。
「……あれ」
小さな影。
震えている。
翼。
未発達な鱗。
「……ドラゴン……?」
ロックが低く言う。
「子供、か」
その周囲で。
男たちが笑っている。
「おいおい、本当にいたぞ」
「こいつぁ当たりだな」
「親が来る前に終わらせるぞ」
縄。
拘束具。
準備がいい。
ロックの顔が歪む。
「……手慣れてやがるな」
ただの偶然じゃない。
だが。
それ以上は分からない。
子ドラゴンが、鳴く。
高く。
か細く。
威嚇のつもりなのか。
だが、震えている。
後ずさる。
逃げ場はない。
崖に追い込まれている。
その時。
一人の男が剣を抜く。
「暴れる前に、足を落とすか」
軽い口調。
躊躇がない。
セリナの手が、わずかに動く。
だが――止まる。
これは、過去。
干渉できない。
ロックが低く唸る。
「……クソが」
その瞬間。
子ドラゴンが、こちらを見る。
崖の上。
ガルドの立つ位置。
目が合う。
一瞬。
ほんの一瞬。
時間が止まる。
ロックが息を呑む。
「……おい」
セリナも気づく。
あの視線。
恐怖だけじゃない。
何かを、求めている。
だが。
ガルドは、動かない。
ただ、見ている。
無言で。
そのまま。
沈黙。
そして。
男の剣が、振り上げられる。
「よし――」
その時。
ガルドが、動く。
一歩。
踏み出す。
それだけで。
空気が変わる。
ロックが小さく笑う。
「……だよな」
セリナは、何も言わない。
ただ、見ている。
あの背中を。
また同じだ。
守るものが変わっただけで。
選ぶことは、変わらない。
ガルドは、崖を降りる。
音もなく。
気配も消して。
だが。
もう、止まらない。
選択は、終わっている。
――ここから先が、すべての始まりになる。
黒剣へと続く、最初の一歩が。




