第155話 失われた一文
パキン。
二本目の亀裂が。
祭壇の結晶を走った。
「離れて!」
セリナが叫ぶ。
ガルドは。
リゼの前へ出る。
ロックも。
反射的に剣へ手を伸ばした。
だが。
何も襲ってこない。
魔物も。
黒い腕も。
現れない。
ただ。
祭壇の文字だけが。
静かに。
消えていく。
一文字。
また一文字。
まるで。
最初から。
そこには何もなかったように。
「待って」
リゼが。
石壁へ駆け寄る。
指で。
消えていく文字をなぞる。
「ここ」
「さっきまで」
「名前があった」
アルヴェインが。
険しい顔で問う。
「誰の名だ」
リゼは。
口を開く。
「……」
言葉が。
出ない。
「リゼ?」
セリナが近づく。
「覚えてるんじゃなかったの?」
「覚えてる」
リゼは。
額を押さえる。
「覚えてるのに」
「名前だけ」
「言えない」
ガルドが。
石壁を見る。
何もない。
文字を削った跡すら。
残っていない。
「顔は」
「分かる?」
リゼは。
目を閉じる。
「男の人」
「若い」
「黒い髪」
「鎧を着てる」
「黒剣を……」
そこで。
息を止めた。
「持ってる」
ロックが。
眉を寄せる。
「レオンじゃないのか?」
「違う」
即答だった。
「もっと後」
「レオンの次」
アルヴェインの顔が。
僅かに変わる。
「……そうか」
全員が。
長老を見る。
セリナが問う。
「知っているの?」
アルヴェインは。
消えた壁へ視線を向けた。
「名までは知らない」
「だが」
「黒剣を」
「最初に受け取った者はいた」
「誰から?」
「私からだ」
静寂。
ロックが。
小さく息を吐いた。
「長老が」
「渡したのか」
「ああ」
アルヴェインは。
遠い昔を見るように。
目を細める。
「レオンが死んだあと」
「黒剣を」
「誰にも渡さず」
「隠し続けるつもりだった」
「だが」
「できなかった」
ガルドが問う。
「なぜ」
「ノアだ」
アルヴェインの声が。
少し低くなる。
「剣の中で」
「ノアが」
「弱り始めた」
セリナが。
黒剣を見る。
「弱る?」
「レオンとの契約が」
「完全に切れたことで」
「黒剣の中の均衡が崩れた」
「邪竜の力」
「黄金竜の翼」
「喰われた記録」
「ノア」
「全てが」
「剣の中で」
「互いを押し潰し始めた」
リゼが。
呟く。
「だから」
「次の持ち主が必要だった」
アルヴェインは。
静かに頷いた。
「剣を」
「支える者が」
「必要だった」
---
祭壇の結晶が。
また。
小さく鳴った。
ピシ。
三本目の亀裂。
その瞬間。
リゼが。
胸を押さえた。
「っ……!」
「リゼ!」
セリナが支える。
リゼの瞳が。
一瞬。
青白く光った。
石壁から。
消えた文字。
その輪郭が。
リゼの瞳の中だけに。
浮かび上がる。
「見える」
「何が」
ガルドが問う。
「名前」
全員が息を呑む。
リゼは。
ゆっくり。
読もうとする。
「……ア」
頭痛。
表情が歪む。
「無理するな」
ガルドが言う。
「でも」
「消える」
「もう」
「消え始めてる」
リゼは。
拳を握る。
「せっかく」
「覚えてるのに」
「このままだと」
「私も忘れる」
アルヴェインが。
リゼへ近づく。
「記憶を」
「無理に留めるな」
「なぜ」
「記録の消失に」
「人の記憶で抗えば」
「記憶そのものが」
「削られる」
リゼの顔が。
強張った。
「そんな」
「事例があるの?」
アルヴェインは。
答えない。
その沈黙が。
答えだった。
ロックが。
リゼを見る。
「じゃあ」
「忘れろ」
リゼが睨む。
「簡単に言わないで」
「簡単じゃない」
ロックは。
いつになく。
真剣だった。
「名前一個守るために」
「お前が消えたら」
「意味ないだろ」
リゼは。
唇を噛む。
「でも」
「また同じ」
「何が」
「私は」
声が。
震える。
「結社にいた時も」
「何もできなかった」
「覚えてるのに」
「止められなかった」
セリナが。
静かに。
リゼの手を握った。
「今は違う」
「一人じゃない」
リゼが。
顔を上げる。
セリナは。
微かに笑う。
「全部」
「自分だけで覚えなくていい」
ガルドも。
隣へ立つ。
ロックも。
「そういうこと」
アルヴェインは。
四人を見る。
そして。
僅かに。
目を細めた。
記憶の中。
レオンたちと。
同じだった。
---
「方法があります」
リゼが言った。
「何?」
セリナが問う。
「記録を」
「分ける」
アルヴェインの表情が変わる。
「何をするつもりだ」
「私は」
「全部を覚えようとしてた」
「だから」
「消される力と」
「真正面からぶつかった」
「でも」
リゼは。
ガルドたちを見る。
「一人一つなら」
「残せるかもしれない」
ロックが眉を上げる。
「名前を分割すんの?」
「名前じゃない」
「記憶」
リゼは。
石壁へ手を置く。
「私が見えているものを」
「それぞれに渡す」
「ガルドは顔」
「セリナは声」
「ロックは装備」
「私は名前」
ガルドが。
すぐに答える。
「危険だ」
「分かってる」
「なら」
「でも」
リゼは。
ガルドを見た。
「忘れたくない」
その言葉に。
ガルドは。
何も返せなかった。
レオン。
アルヴェイン。
グラム。
ノア。
彼らも。
同じだった。
忘れたくない。
だから。
名を刻んだ。
だから。
覚えていた。
「……分かった」
ガルドが言う。
「やる」
リゼが。
小さく頷く。
---
四人が。
石壁へ手を触れる。
リゼが。
目を閉じる。
「流します」
青白い光が。
指先から広がった。
最初に。
ガルド。
男の顔。
黒髪。
若い。
左頬に。
細い傷。
次に。
セリナ。
声。
低い。
穏やか。
『この剣は』
『誰かを救うために』
『持つものではない』
『誰かと背負うために』
『持つものだ』
セリナが。
息を呑む。
次。
ロック。
鎧。
古い騎士団章。
腰。
小さな金属板。
ドワーフ文字。
『継ぐ者へ』
「グラムの……?」
最後。
リゼ。
名前。
消えかけている。
一文字目。
二文字目。
三文字目。
「……カ」
頭へ。
激痛。
「ぐっ……!」
セリナが。
リゼを支える。
「もういい!」
「まだ!」
リゼは。
歯を食いしばる。
名前が。
消える。
あと少し。
「カ……ル……」
祭壇が。
激しく揺れた。
黒い亀裂が。
結晶全体へ広がる。
アルヴェインが叫ぶ。
「離れろ!」
リゼは。
最後まで。
文字を見る。
「カ……ル……ヴァ……」
結晶が。
砕けた。
光。
衝撃。
四人の身体が。
後方へ吹き飛ばされる。
ガルドは。
床を転がり。
すぐ起き上がる。
「リゼ!」
セリナが。
リゼを抱えている。
意識はある。
だが。
顔が。
真っ青だった。
「大丈夫」
「名前は?」
ロックが問う。
リゼは。
口を開く。
「……」
言えない。
表情が。
凍る。
「思い出せない」
祭壇。
石壁。
文字。
完全に。
消えている。
最初の継承者。
その名前は。
再び失われた。
「でも」
リゼが。
震える声で言う。
「何か」
「残ってる」
胸へ手を置く。
そこ。
淡い青い光。
小さな文字が。
一瞬だけ浮かぶ。
誰にも。
読めない文字。
アルヴェインが。
息を呑んだ。
「それは……」
リゼを見る。
信じられないという顔。
「記録印」
「何ですか」
セリナが問う。
アルヴェインは。
しばらく答えなかった。
やがて。
低い声で言う。
「かつて」
「世界に」
「数人しかいなかった」
「消えゆく記録を」
「自分の存在へ」
「刻める者」
リゼが。
自分の胸を見る。
「私が?」
「まだ」
アルヴェインは。
首を横へ振る。
「完全ではない」
「だが」
その目に。
警戒が浮かぶ。
「もし」
「記録魔法が」
「目覚めたのなら」
祭壇の奥。
砕けた結晶の下から。
黒い影が。
ゆっくりと這い出す。
それは。
一行の文字だった。
文字だけが。
生き物のように。
床を這っている。
アルヴェインが。
顔色を変える。
「逃げろ!」
「記録を喰うものが」
「こちらへ気付いた!」
黒い文字が。
一斉に。
リゼへ向きを変えた。




