第154話 記憶からの帰還
雪の上に。
黒剣だけが残っていた。
レオンの姿は。
もうない。
白い光も。
少しずつ。
空へ溶けていく。
アルヴェインは。
しばらく。
動かなかった。
右手の中。
名前のない騎士団章。
少し離れた場所には。
石像となったグラム。
そして。
雪の上に横たわる黒剣。
三つの輪。
緑。
赤。
青。
白だけが。
消えている。
「……レオン」
その名を。
もう一度呼ぶ。
返事はない。
黒剣も。
応えない。
だが。
アルヴェインは。
ゆっくりと立ち上がった。
ふらつく。
片腕。
傷。
失われた精霊力。
身体は。
とうに限界だった。
それでも。
黒剣の前まで歩く。
手を伸ばす。
触れる寸前。
止まる。
「私ではない」
小さく呟いた。
「これは」
「次の者へ」
黒剣の中。
微かな声。
『……アルヴェイン』
ノア。
アルヴェインの瞳が。
僅かに揺れる。
「聞こえる」
『レオンが』
声が。
途切れる。
『いない』
「……ああ」
『本当に』
「……ああ」
それ以上。
言葉は続かなかった。
二人とも。
何を言えばいいのか。
分からなかった。
しばらくして。
ノアが。
掠れた声で言う。
『約束』
アルヴェインは。
黒剣を見る。
「覚えている」
『次の持ち主を』
「一人にしない」
『僕も』
「お前もだ」
『……何が』
「お前も一人になるな」
沈黙。
そして。
剣の奥から。
小さな笑い声。
『君も』
アルヴェインは。
少しだけ。
目を閉じた。
「そうだな」
---
記憶の景色が。
揺れ始めた。
雪。
竜骸谷。
グラム。
アルヴェイン。
黒剣。
すべてが。
白い光へ溶けていく。
現在。
ガルドは。
それを見つめていた。
セリナ。
ロック。
リゼ。
全員。
何も言えない。
レオンの最後。
黒剣が。
なぜ現代へ残ったのか。
なぜ。
レオンの名が。
公式の記録から消えていたのか。
すべて。
繋がった。
ガルドは。
自分の背中へ手を伸ばす。
黒剣。
今。
自分が背負っているもの。
そこには。
レオンの名はない。
だが。
確かに。
いた。
「……レオン」
ガルドが。
初めて。
その名を口にした。
黒剣が。
僅かに震えた。
返事ではない。
だが。
否定でもなかった。
その瞬間。
記憶の世界が。
砕けた。
---
目を開ける。
冷たい空気。
石の匂い。
記憶の祭壇。
ガルドは。
片膝をついていた。
目の前。
古い石壇。
周囲には。
セリナ。
ロック。
リゼ。
全員。
同じように。
現実へ戻ってきている。
「……戻った?」
ロックが。
辺りを見る。
「たぶん」
リゼが。
胸へ手を当てる。
「身体の感覚が」
「戻ってます」
セリナは。
すぐにガルドを見る。
「ガルド」
「平気?」
「……ああ」
短い返事。
だが。
セリナは。
それだけでは納得しない。
視線を。
黒剣へ向ける。
「剣は?」
ガルドも見る。
鞘の中。
静かだ。
だが。
以前とは違う。
重い。
物理的な重さではない。
中に。
何人もの時間が。
積み重なったような。
そんな感覚。
「……変わった」
「何が?」
「分からない」
ロックが。
困ったように笑う。
「そこは相変わらずだな」
ガルドは。
返さない。
代わりに。
祭壇の奥を見る。
そこに。
一人。
立っていた。
長い銀髪。
深い皺。
片腕。
老いたエルフ。
アルヴェイン。
長老。
彼は。
ずっと。
何も言わず。
ガルドたちを見ていた。
セリナが。
小さく息を呑む。
「長老……」
アルヴェインは。
ガルドへ視線を向ける。
次に。
黒剣。
その瞳が。
ゆっくりと細くなる。
「見たか」
ガルドが頷く。
「……最後まで」
アルヴェインは。
目を閉じた。
長い沈黙。
「そうか」
それだけ。
だが。
声は。
僅かに震えていた。
ロックが。
慎重に尋ねる。
「長老は」
「全部知ってたのか?」
アルヴェインは。
すぐには答えない。
やがて。
祭壇の端へ歩き。
腰を下ろした。
「全部ではない」
「だが」
「忘れてはいない」
セリナが。
長老を見る。
「レオンを?」
アルヴェインの右手が。
胸元へ触れる。
服の下。
何かを取り出す。
小さな。
古い騎士団章。
名前は。
刻まれていない。
ガルドの瞳が。
僅かに動く。
記憶の中。
レオンの最後に。
残ったもの。
同じ。
アルヴェインは。
それを見つめる。
「私は」
「約束した」
「歴史が忘れても」
「私だけは」
「覚えていると」
セリナは。
何も言えない。
長老は。
ずっと。
一人で。
その名を抱えていた。
三百年。
誰にも。
語らず。
忘れず。
「なぜ」
ガルドが問う。
「記録に残さなかった」
アルヴェインは。
騎士団章を握る。
「レオンが」
「望まなかった」
「英雄にするなと」
ガルドは黙る。
「黒剣が」
アルヴェインは続ける。
「英雄の剣として残れば」
「必ず」
「力を求める者が現れる」
「だから」
「名前を消した」
リゼが。
息を呑む。
「観測者が」
「消したんじゃない?」
「違う」
長老は。
首を横へ振る。
「少なくとも」
「最初は」
「私たちが消した」
その言葉に。
全員の表情が変わる。
これまで。
レオンの記録が消されたことは。
観測者によるものだと。
そう考えていた。
だが。
違った。
最初の空白は。
レオン自身が。
望んだ。
アルヴェインが。
守った。
その後。
観測者たちが。
別の理由で。
その空白を利用した。
「だから」
ガルドが。
ゆっくり言う。
「記録が不自然だった」
アルヴェインが頷く。
「何も残さなかったのではない」
「残したものを」
「隠した」
「黒剣も?」
「そうだ」
「ノアも?」
長老の瞳が。
ほんの僅かに揺れる。
「……ああ」
セリナが。
息を呑む。
「ノアは」
「今も剣の中に?」
アルヴェインは。
黒剣を見る。
「いる」
その瞬間。
黒剣が。
カタリ。
僅かに鳴った。
ロックが。
目を丸くする。
「今」
「動いたよな?」
ガルドは。
柄へ手を置く。
声は。
聞こえない。
だが。
何かが。
奥で。
こちらを見ている。
そんな気配。
「ノア」
ガルドが呼ぶ。
反応はない。
アルヴェインは。
静かに言う。
「まだ」
「呼ぶな」
ガルドが見る。
「なぜ」
「黒剣は」
「レオンを失ったあと」
「変わった」
長老の声が。
低くなる。
「ノアだけでは」
「支えきれなかった」
「剣は」
「次の持ち主を求めた」
ガルドの手が。
柄の上で止まる。
「そして」
「何代も」
「持ち主を変えた」
「そのたび」
「少しずつ」
アルヴェインは。
ガルドを見る。
「何かを」
「喰った」
セリナの顔が。
強張る。
「記憶?」
「それだけではない」
長老は。
首を横へ振る。
「意思」
「感情」
「時には」
「持ち主そのもの」
祭壇の空気が。
重くなる。
「レオンは」
「最後に」
「自分を黒剣から切り離した」
「だが」
「それによって」
「黒剣は」
「持ち主という支えを失った」
リゼが。
小さく呟く。
「だから」
「次の人を探し続けた……」
「そうだ」
ガルドは。
黒剣を見る。
レオン。
ノア。
幼い黒竜。
失われた名。
何代もの持ち主。
そのすべてが。
この一本へ。
積み重なっている。
「ガルド」
アルヴェインが。
強い声で呼ぶ。
ガルドは顔を上げる。
「今から」
「よく聞け」
長老の表情は。
記憶の中。
若かった頃と。
同じだった。
「レオンと」
「お前は違う」
「同じ道を」
「歩く必要はない」
ガルドは。
何も言わない。
アルヴェインは。
続ける。
「だが」
「一つだけ」
「同じものがある」
「何だ」
「一人で」
「背負おうとする」
ガルドの瞳が。
僅かに揺れた。
背後。
セリナ。
ロック。
リゼ。
三人がいる。
アルヴェインは。
その全員を見る。
「レオンは」
「最後に」
「次の持ち主を」
「一人にするなと言った」
静寂。
「その約束を」
「私は」
「三百年」
「守れなかった」
初めて。
長老の顔に。
深い後悔が浮かんだ。
「だが」
ガルドを見る。
「今は違う」
セリナが。
一歩。
ガルドの隣へ立つ。
ロックも。
「まあ」
「勝手に一人で行ったら」
「殴るけどな」
リゼも。
反対側へ並ぶ。
「私も」
「止めます」
ガルドは。
三人を見る。
そして。
黒剣。
「……分かった」
ロックが。
眉を上げる。
「素直だな」
「努力する」
「そこは言い切れよ」
セリナが。
小さく笑った。
その時だった。
祭壇の床。
古い文字が。
突然。
赤く光った。
アルヴェインの表情が変わる。
「離れろ!」
全員が。
後方へ跳ぶ。
次の瞬間。
祭壇中央。
レオンの記憶を映していた結晶に。
一本の黒い亀裂が走った。
パキン。
小さな音。
そして。
石壁に刻まれていた文字が。
一行だけ。
消えた。
リゼが。
息を呑む。
「今」
「何が」
アルヴェインは。
消えた場所を見る。
そこには。
確かに。
何かが書かれていた。
だが。
誰も。
思い出せない。
誰も。
何が消えたのか。
分からない。
ただ一人。
リゼだけが。
震える声で。
呟いた。
「……覚えてる」
三人が。
彼女を見る。
リゼは。
自分の頭を押さえる。
「消える前」
「そこに」
「書いてあった」
「何が」
ガルドが問う。
リゼの顔から。
血の気が引く。
「レオンの」
「最後の記録じゃない」
「その次」
「黒剣を」
「最初に」
「受け継いだ人の名前」
祭壇の結晶が。
もう一度。
黒く脈打った。
そして。
二本目の亀裂が。
走った。




