第133話 救うための代償
黒い剣が。
レオンの目の前に浮かんでいた。
現実には存在しない。
だが。
その刃は確かに、夜の森の闇を裂いている。
赤黒い脈動。
生き物のようにうねる刀身。
柄へ伸びる影。
手を伸ばせば届く。
グラムを救う力が。
そこにある。
『選べ』
声が囁く。
『取れば救える』
レオンの手が上がる。
指先が。
黒い柄へ近づいていく。
その横で。
アルヴェインは必死に精霊術を続けていた。
「止まれ……!」
緑の光。
黒い痣。
二つの力が。
グラムの胸元でせめぎ合う。
だが。
侵食は止まらない。
黒い筋は心臓へ絡みつき。
鼓動のたび。
さらに深く。
身体の内側へ入り込んでいく。
「レオン!」
アルヴェインが叫ぶ。
「何をしている!」
その声で。
レオンの指が止まった。
アルヴェインには。
黒い剣は見えていない。
ただ。
虚空へ手を伸ばすレオンだけが見えている。
「手を貸せ!」
焦り。
怒り。
恐れ。
いつも冷静だった若きエルフの声が。
今は大きく揺れていた。
レオンは。
黒い剣を見つめる。
『取れ』
『時間はない』
グラムの身体が痙攣した。
口から。
さらに濃い黒い靄が漏れる。
黒く濁った片目が。
ゆっくりと開く。
「……やめろ」
掠れた声。
レオンが振り返る。
「グラム」
「そんな顔で……何か選ぶな」
「何を」
「知らねぇが」
グラムは苦しそうに息を吐く。
「ろくでもねぇもんに」
「手ぇ伸ばしてんだろ」
レオンの表情が固まる。
見えていない。
聞こえていない。
それでも。
グラムは察していた。
「勘ですか」
「鍛冶師を……舐めんな」
グラムの唇が歪む。
「鉄はな」
「叩かれる前から」
「誰に触られてるか分かる」
「お前の顔は」
「悪い鉄を掴む顔だ」
『聞くな』
黒い剣が囁く。
『死ぬぞ』
『お前が拒めば』
『その者は死ぬ』
レオンの拳が震える。
救える。
この力なら。
本当に。
救えるかもしれない。
だが。
その代わりに。
何を差し出すことになる。
自分か。
記憶か。
命か。
それとも。
もっと大切なものか。
『代価など』
『後で決めればよい』
その言葉で。
レオンの目が細くなる。
「後で?」
声に出す。
アルヴェインがレオンを見る。
「誰と話している」
レオンは答えない。
黒い剣だけを見る。
「今は決めないのですか」
『救うことが先だ』
「代価を隠して?」
声が。
一瞬だけ黙る。
その沈黙で。
レオンは理解した。
これは。
取引ではない。
選択ですらない。
弱った心へ。
ただ。
入り込もうとしている。
『時間がない』
「だから急がせる」
『死ぬぞ』
「だから考えさせない」
『取れ』
「断る」
レオンは。
上げていた手を下ろした。
黒い剣が震える。
怒り。
驚き。
そして。
強い失望。
『救えぬ』
「まだ決まっていない」
『お前には力がない』
「なら」
レオンは欠けた制式剣を抜く。
「今あるもので救います」
黒い剣が歪む。
『愚か者』
「よく言われます」
その答えと共に。
幻の剣が消えた。
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「何が起きている」
アルヴェインが問う。
レオンはグラムのそばへ膝をつく。
「後で話します」
「今は時間がありません」
アルヴェインは問い詰めたい表情をした。
だが。
グラムの状態を見る。
感情を切り替える。
「侵食は心臓へ達している」
「浄化では止められない」
レオンが黒い痣を観察する。
脈打つたび。
筋が広がる。
だが。
完全に均一ではない。
心臓へ向かう一本。
腕へ戻る数本。
それらは。
胸元の一点で繋がっていた。
「ここが中心ですか」
レオンが指す。
アルヴェインが見る。
「おそらく」
「だが切れば」
「死ぬ可能性がある」
グラムが笑う。
「切らなくても……死ぬんだろ」
アルヴェインは答えない。
グラムがレオンを見る。
「やれ」
レオンの眉が僅かに動く。
「何をです」
「その中心を」
「斬れ」
「傷つければ」
「分かってる」
「心臓に近すぎます」
「だから何だ」
グラムは苦しみながらも。
はっきりと言った。
「俺の身体だ」
「俺が決める」
レオンは剣を握る。
だが。
すぐには動けない。
グラムの命を。
自分の手で。
賭けることになる。
「躊躇うな」
グラムが言う。
「さっきの化け物の力を借りるより」
「お前の剣で死ぬ方がましだ」
レオンの目が揺れる。
「死なせません」
「なら斬れ」
短い言葉。
アルヴェインがグラムの胸元へ手を添える。
「私が心臓を守る」
レオンを見る。
「お前は侵食の核だけを断て」
「できますか」
アルヴェインの顔が険しくなる。
「できるかではない」
「やるしかない」
先ほど。
レオンが言った言葉と。
同じだった。
二人は。
一瞬だけ目を合わせる。
そして。
頷いた。
---
アルヴェインが両手をグラムの胸へ当てる。
緑の光が広がる。
心臓を包む。
血管を。
神経を。
僅かな範囲だけ。
精霊の膜で保護していく。
だが。
黒い侵食が抵抗する。
光へ噛みつくように。
黒い筋が暴れる。
アルヴェインの腕へ。
逆流しようと伸びてくる。
「ぐっ……!」
「大丈夫ですか」
「構うな!」
アルヴェインが叫ぶ。
「核を見ろ!」
レオンは剣を構える。
欠けた刃。
何度も。
誰かを守るために振るった剣。
今度は。
仲間の身体へ向ける。
呼吸を整える。
一度。
二度。
目を閉じる。
黒い痣の動き。
心臓の鼓動。
精霊光の揺らぎ。
全てを感じ取る。
「グラム」
「何だ」
「痛みます」
「知ってる」
「かなり」
「うるせぇ」
「死ぬほど」
「早くやれ!」
グラムの怒声。
レオンは目を開く。
一閃。
刃が。
黒い痣の中心へ入った。
血が飛ぶ。
グラムの身体が跳ねる。
「ぐあああああっ!」
黒い靄が。
傷口から一気に噴き出した。
まるで。
内部へ閉じ込められていた獣が。
外へ逃げようとするように。
アルヴェインが精霊光を強める。
「まだだ!」
黒い核。
石のような欠片が。
傷口の奥に見える。
小さい。
指先ほど。
だが。
心臓へ根を張っている。
レオンが剣を引く。
刃を返す。
「もう一度だ!」
アルヴェインが叫ぶ。
レオンは。
二撃目を振るう。
今度は。
斬るのではない。
刃先を。
核の下へ滑り込ませる。
持ち上げる。
黒い欠片が。
肉と血管へ絡みつき。
抵抗する。
『やめろ』
声が。
レオンの頭へ響く。
『それは我がものだ』
レオンの目が鋭くなる。
「違う」
刃へ力を込める。
「こいつは」
グラムを見る。
「誰のものでもない」
一気に。
剣を跳ね上げる。
黒い核が。
傷口から飛び出した。
宙へ舞う。
赤黒い光。
アルヴェインが即座に矢を取る。
弓を引く暇はない。
素手で矢を握り。
精霊力を込めて。
核へ突き刺した。
緑の光が爆ぜる。
黒い欠片が。
甲高い悲鳴を上げた。
人の声でも。
獣の声でもない。
山全体を引っ掻くような音。
レオンが剣を振るう。
核を。
真っ二つに断つ。
黒い光が弾けた。
---
静寂。
風が止まる。
黒い痣の脈動が。
弱くなる。
一本。
また一本。
皮膚の下の黒い筋が薄れていく。
だが。
グラムは動かない。
目を閉じたまま。
息も。
聞こえない。
「グラム」
レオンが呼ぶ。
反応はない。
アルヴェインは胸へ手を当てる。
表情が変わる。
「心臓が止まっている」
レオンが息を呑む。
「戻せますか」
「やる」
アルヴェインは両手へ光を集める。
胸へ流す。
一度。
反応なし。
二度。
身体が僅かに跳ねる。
だが。
鼓動は戻らない。
「戻れ!」
アルヴェインが叫ぶ。
額から汗が流れる。
指先が震える。
それでも。
何度も。
精霊の力を送り込む。
「お前が言ったのだろう!」
「エルフの酒は水だと!」
「なら起きて」
「文句を言え!」
レオンは。
グラムの手を握る。
冷たい。
つい先ほどまで。
戦槌を振るっていた手。
岩を砕き。
仲間を守った手。
「グラム」
低く呼ぶ。
「約束が残っています」
返事はない。
「剣を」
欠けた制式剣を見る。
「直してくださるのでしょう」
アルヴェインの精霊光が。
もう一度。
強く脈打つ。
「戻れ!」
ドクン。
小さな音。
二人が止まる。
もう一度。
ドクン。
弱い。
だが。
確かな鼓動。
グラムの胸が。
僅かに上下する。
息を吸う。
苦しそうに。
ゆっくりと。
片目を開く。
「……うるせぇ」
掠れた声。
アルヴェインの肩から力が抜ける。
レオンも。
深く息を吐いた。
グラムは二人を見る。
「死人の横で」
「騒ぐな」
アルヴェインが怒鳴る。
「死んでいたのはお前だ!」
「今は生きてる」
「だから腹が立つ!」
「意味が分からん」
グラムは口元を歪めた。
笑おうとして。
傷の痛みに顔をしかめる。
「酒」
「里へ着いたらだ」
「強いやつ」
「水で十分だ」
「エルフ……覚えてろ」
その言葉を最後に。
今度は。
穏やかに目を閉じた。
呼吸は続いている。
---
森の奥から。
複数の足音が近づいてくる。
エルフの巡察隊。
警戒鐘を聞き。
捜索へ出た者たちだった。
先頭の女巡察兵が。
血まみれの三人を見て目を見開く。
「アルヴェイン!」
「何があった!」
アルヴェインが立ち上がる。
「担架を」
「急げ」
巡察兵たちがグラムを囲む。
その中の一人が。
レオンを見る。
血に濡れた剣。
倒れているドワーフ。
胸の傷。
警戒するように。
弓へ手を伸ばす。
「人間」
「お前が斬ったのか」
レオンは否定しなかった。
「ああ」
周囲の空気が張り詰める。
だが。
アルヴェインが間へ入る。
「その剣がなければ」
「グラムは死んでいた」
巡察兵たちが黙る。
アルヴェインは。
はっきりと言った。
「レオンは」
「仲間を救った」
仲間。
その言葉に。
レオンが僅かに目を見開く。
アルヴェイン自身も。
口にしてから気づいた。
だが。
言い直さない。
レオンは。
何も言わなかった。
ただ。
静かに頷いた。
---
現在のガルドたちは。
その光景を見ていた。
黒い剣を拒み。
欠けた剣で。
仲間を救ったレオン。
セリナが小さく息を吐く。
「まだ」
「この時は契約しなかった」
ロックも頷く。
「ああ」
「しかも」
「力がなくても救った」
リゼがガルドを見る。
「じゃあ」
「どうして後で」
ガルドは答えない。
レオンは。
一度目も。
二度目も。
黒い剣を拒んだ。
それでも。
最終的には。
黒剣を取った。
ならば。
ここから先で。
今回よりも。
さらに大きな何かを失う。
拒めないほどの。
守れないほどの。
選択が。
待っている。
記憶の景色が揺れる。
夜が明ける。
木々の間から。
朝日が差し込む。
担架で運ばれるグラム。
そのそばを歩くレオン。
少し先を進むアルヴェイン。
三人の距離は。
出会った時よりも。
確かに近かった。
だが。
遠く。
山の奥。
砕かれたはずの黒い核の欠片が。
土の中へ沈んでいく。
細い根を伸ばし。
別の何かへ繋がっていく。
そして。
見えない場所で。
声が囁いた。
『一つ目の炎は』
『まだ消えぬ』
『ならば』
『燃やすものを増やそう』
朝日の届かない山の底で。
幾つもの赤い瞳が。
ゆっくりと開いた。




