第124話 森へ入る者
魔狼の群れが去ったあとも、森には張り詰めた空気が残っていた。
折れた枝。
踏み荒らされた草。
地面に散る灰色の毛。
さっきまでの戦いが、確かにここで起きていたことを示している。
商人は荷馬車の陰で腰を抜かしていた。
「た、助かりました……」
震える声。
レオンは剣についた血を払い、静かに鞘へ納めた。
「怪我はありませんか」
「は、はい」
商人は何度も頷く。
アルヴェインは少し離れた場所で、森の奥を見つめていた。
弓は下ろしている。
だが警戒は解いていない。
レオンが声をかける。
「まだ何かいますか」
「分からない」
アルヴェインは短く答えた。
「ただ、妙だ」
その視線は、魔狼たちが現れた方角へ向いている。
「グレイファングは慎重な魔獣だ」
「人の往来がある街道まで、あれほどの群れで出てくることは少ない」
レオンも地面へ目を落とす。
足跡は深い。
逃げる獲物を追って偶然ここまで来た、という荒れ方ではない。
何かに追われていたようにも見えた。
「牙猪も同じですか」
アルヴェインの眉が動く。
「……気づいたか」
「さっきの牙猪は、人を襲うより先に森から逃げようとしていました」
商人が息を呑む。
自分へ向かって突進してきた魔獣。
だが、あれは襲うためではなく、逃げ道を失った結果だったのかもしれない。
アルヴェインはレオンを見た。
ほんの少しだけ。
先ほどまでとは違う目だった。
「剣だけの人間ではないらしいな」
レオンは穏やかに笑う。
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてはいない」
即答だった。
ロックが吹き出す。
「本当に昔から変わらねぇな」
セリナも小さく笑う。
今の長老アルヴェインも、認めた相手へ素直に言葉を渡すことは少ない。
若い頃は、さらに不器用だったらしい。
ガルドは黙ったまま二人を見ていた。
言葉では拒みながら。
すでにアルヴェインの立ち位置は、レオンの隣へ少し近づいていた。
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荷馬車の車輪は完全に折れていた。
すぐに動かすことはできない。
レオンは車軸の状態を確認し、商人へ告げる。
「近くの町まで戻りましょう」
「荷物は後で騎士団へ連絡して回収します」
商人は慌てて首を振った。
「ですが、大事な商品が……」
「命より大事ですか」
声は優しい。
だが、反論を許さない響きがあった。
商人は口を閉ざす。
「……分かりました」
レオンが馬へ商人を乗せようとした時。
アルヴェインが低く言った。
「町へ戻るなら、街道は使うな」
レオンが振り返る。
「なぜです」
「森の西側で獣が動いている」
「街道へ流れてくる可能性がある」
アルヴェインは森の奥を指した。
「こちらに古い巡察路がある」
「人間には見つけにくい道だ」
レオンは少しだけ考える。
「案内してくれますか」
「断る」
即答。
ロックが笑う。
「そこは断るのかよ」
当然、過去の二人には聞こえない。
アルヴェインは続けた。
「私は異変の原因を調べる」
「人間を町まで送っている暇はない」
レオンは怒らなかった。
「では、私も行きます」
今度はアルヴェインが黙る番だった。
「何を言っている」
「異変が魔獣だけの問題でないなら、街道沿いの村にも被害が出ます」
「騎士として放置できません」
「森の問題だ」
「森の外へ出ようとしているなら、人の問題でもあります」
視線がぶつかる。
先ほどと同じ。
だが今度は敵意だけではなかった。
互いに譲れないものを持つ者同士の対話だった。
アルヴェインが問う。
「商人はどうする」
レオンは少し離れた場所へ目を向ける。
街道の向こう。
遠くから複数の馬の音が近づいてきていた。
王都騎士団の巡回隊だった。
レオンが上げた信号弾を見て来たのだろう。
数名の騎士が馬を止める。
「レオン殿!」
隊長らしき男が駆け寄る。
「ご無事でしたか」
「ああ」
レオンは商人と荷馬車を任せる。
魔獣の死骸。
街道周辺の警戒。
近隣の村への連絡。
必要な指示を短く伝えていく。
若いが迷いはない。
騎士たちも疑問を挟まず動き始めた。
アルヴェインはその様子を黙って見ていた。
人間の騎士。
命令する側。
ならば、もっと傲慢だと思っていた。
部下を使い捨て。
森の危険を軽んじる。
そういう人間を何度も見てきた。
だがレオンは違う。
危険な場所へ他人を向かわせず、自分が残ろうとしている。
「これで問題ありません」
レオンが戻ってくる。
「案内をお願いします」
アルヴェインはしばらく黙っていた。
やがて深いため息をつく。
「勝手にしろ」
「ただし」
鋭い目がレオンを射抜く。
「森では私の指示に従え」
「分かりました」
「勝手に木へ触れるな」
「はい」
「精霊を刺激するな」
「気をつけます」
「勝手に剣を抜くな」
そこでレオンが少しだけ困った顔をする。
「必要な時は抜きます」
「……やはり連れて行くべきではないな」
アルヴェインが額を押さえる。
レオンは笑っていた。
その笑顔がさらに気に障るらしい。
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アルヴェインが先導し、レオンが後に続く。
二人は街道を離れた。
森へ一歩入った瞬間。
空気が変わる。
枝葉が陽光を遮り、地面へ落ちる光は細い。
風の音も遠くなった。
森全体が、侵入者を見定めているようだった。
レオンは周囲を見回す。
「静かですね」
「余計なことを言うな」
「声で獣が逃げる」
「失礼しました」
すぐに黙る。
その素直さに、アルヴェインは逆に調子を崩されたようだった。
やがて細い獣道へ入る。
人間の目には道に見えない。
だがアルヴェインは迷わず進む。
根を跨ぎ。
低い枝を避け。
微かな足跡を追う。
レオンも遅れずついていった。
しばらく進んだところで、アルヴェインが振り返る。
「よくついてくるな」
「騎士なので」
「騎士は森を歩く訓練もするのか」
「必要なら」
「便利な言葉だな」
「ええ」
また穏やかに笑う。
アルヴェインは前へ向き直った。
だが先ほどより、歩調はほんの少しだけ遅くなっていた。
レオンがついてきやすい速さへ。
本人は気づいていないのかもしれない。
セリナはその変化を見ていた。
「もう気にかけ始めてる」
ロックが頷く。
「本人だけは認めなさそうだけどな」
ガルドは静かに二人の背を追う。
今のアルヴェインが、自分たちへ向けた態度を思い出していた。
最初は拒絶。
だが最後には道を開いた。
数百年前も。
同じだった。
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森の深部へ近づくにつれ、空気が重くなった。
鳥の声が減る。
虫の羽音も消える。
アルヴェインが足を止めた。
しゃがみ込み、地面へ触れる。
「……これは」
レオンも隣へ立つ。
土が黒く変色していた。
植物の根は腐り。
苔は灰色に萎れている。
自然な枯れ方ではない。
アルヴェインの表情が険しくなる。
「三日前にはなかった」
「魔法ですか」
「違う」
土を指で擦る。
嫌悪を滲ませるように、すぐに手を離した。
「森そのものが弱っている」
その時。
奥の茂みから、かすかな呻き声が聞こえた。
二人が同時に顔を上げる。
アルヴェインは弓を構えた。
レオンも剣の柄へ手を置く。
ゆっくりと近づく。
木の陰。
そこに倒れていたのは魔獣ではなかった。
一人のエルフだった。
深緑の衣。
巡察隊の装備。
脇腹に深い傷を負い、息も弱い。
「ヴァレス!」
アルヴェインが駆け寄る。
初めて声を荒らげた。
弓を捨てるように置き、仲間の身体を抱き起こす。
「何があった!」
負傷したエルフは薄く目を開けた。
「……逃げろ」
掠れた声。
「森の、奥に……」
「何がいる」
アルヴェインが問う。
だが男は答えられない。
口元から血が流れる。
レオンがすぐに膝をつき、傷を確認した。
「まだ助けられます」
「触るな!」
アルヴェインが反射的に叫ぶ。
レオンの手が止まる。
一瞬の沈黙。
アルヴェインは苦しそうに顔を歪めていた。
人間へ任せたくない。
だが、自分には治療の知識がない。
仲間の命は消えかけている。
迷っている時間はない。
レオンは静かに言った。
「死なせたくありません」
それだけだった。
アルヴェインの指が震える。
やがて。
負傷者を支える腕へ力を込めたまま、低く答えた。
「……助けろ」
「はい」
レオンは迷わず治療を始めた。
傷口を圧迫し。
携帯していた薬草を噛み潰し。
清潔な布を巻いていく。
アルヴェインは、その手元を一度も見逃さなかった。
森を荒らす人間。
信じる価値のない種族。
そう思っていた。
だが今。
その人間の手が、仲間の命を繋ごうとしている。
負傷者が再び薄く目を開けた。
「……黒い、角」
途切れた声。
「竜……では、ない」
レオンとアルヴェインの動きが止まる。
「何を見た」
レオンが静かに尋ねる。
男は震える指を森の深部へ向けた。
「空が……黒く」
「森を……喰っている」
それだけ言うと、意識を失った。
だが呼吸は残っている。
レオンが安堵する。
「まだ生きています」
アルヴェインは答えなかった。
仲間を見つめる。
次に。
黒く枯れた土を見る。
そして森の奥へ視線を向ける。
鋭い瞳には怒りが宿っていた。
「里へ運ぶ」
「その後、原因を探る」
レオンが頷く。
「手伝います」
今度は。
アルヴェインは断らなかった。
ただ短く告げる。
「……勝手に死ぬな」
レオンは少し驚き。
それから穏やかに笑った。
「あなたも」
若き騎士と、若き森の守り手。
二人はまだ友ではない。
互いを完全に信じてもいない。
それでも。
守るべき命を前にして。
初めて同じ方向を見ていた。
そして森のさらに奥。
陽光の届かぬ場所で。
黒く変色した巨大な爪痕が、古木の幹に深く刻まれていた。




