第112話 消えた一冊
翌朝。
聖教会本部。
石造りの廊下には、朝の光が静かに差し込んでいた。
ガルドたちは老神官に呼ばれ、地下記録庫へ向かっていた。
「昨夜、書庫を整理していたところ、気になることがありまして。」
老人の表情は穏やかだったが、その声には僅かな緊張が混じっていた。
重い扉が開く。
地下記録庫。
昨日までと変わらぬ静寂。
だが。
老神官は真っ直ぐ一つの石棚へ向かった。
そして足を止める。
「……やはり。」
ロックが覗き込む。
「どうした?」
老人は石棚の一角を指差した。
そこだけ、本が一冊分だけ抜け落ちている。
「昨日までは、ここにありました。」
ライルの表情が変わる。
「盗まれた?」
「恐らく。」
老人は静かに頷いた。
「鍵は壊されていません。」
「無理に持ち出した形跡もありません。」
セリナが周囲を見回す。
争った跡もない。
棚にも埃が積もったまま。
まるで。
最初からそこに何も無かったかのようだった。
***
ライルはすぐに騎士団へ連絡を飛ばした。
ほどなく数名の騎士が記録庫へ到着する。
現場を確認するが、収穫はない。
「侵入経路は不明です。」
若い騎士が報告する。
「扉も窓も異常ありません。」
ライルは眉をひそめる。
「内部の者の可能性は?」
「現在調査中です。」
老人は静かに首を横へ振った。
「違うでしょう。」
全員が老人を見る。
「この記録庫へ入れる者は限られています。」
「そして。」
「盗まれたのは、この一冊だけです。」
偶然ではない。
狙われていた。
ロックが腕を組む。
「中身は分かるのか?」
老人は目録を取り出した。
古びた台帳。
丁寧に頁をめくる。
そして。
指が止まる。
「……『竜騎士巡察録』。」
セリナが聞き返す。
「巡察録?」
「はい。」
老人は頷く。
「内容までは残っていません。」
「題名だけです。」
ライルの表情が険しくなる。
「また竜……。」
レオン。
黒剣。
北方遠征。
全てに竜が関わっている。
***
その時だった。
リゼが小さく呟く。
「黒い……。」
セリナが振り向く。
「何?」
リゼは石棚を見つめていた。
「昨日。」
「黒い服の人。」
静寂。
ライルが身を乗り出す。
「見たの?」
リゼはゆっくり頷く。
「遠くで。」
「本……持ってた。」
記憶ではない。
昨日の出来事だった。
セリナが優しく尋ねる。
「顔は?」
リゼは首を横に振る。
「見えなかった。」
「でも。」
「急いでた。」
ロックが息を吐く。
「昨日のうちに持ってかれたってことか。」
老人も静かに頷いた。
「恐らく。」
***
ガルドは何も言わず、空になった棚を見つめていた。
その視線が、棚の奥へ向く。
ほんの僅かに違和感があった。
棚板の奥。
薄く何かが刻まれている。
ガルドは手を伸ばき、埃を払った。
そこには小さな文字があった。
ライルが近付く。
「これは……。」
古代文字。
セリナも覗き込む。
「読める?」
老人が静かに目を細める。
「少しだけ。」
ゆっくりと読み上げる。
「『記録は移される』。」
「『真実は奪えない』。」
短い文章だった。
ライルが驚く。
「誰がこんな……。」
老人は静かに息を吐く。
「恐らく。」
「レオン本人でしょう。」
部屋が静まり返る。
盗まれることまで予測していた。
だから。
記録を分散させた。
そして。
誰かへ伝えようとした。
***
同じ頃。
王都の裏路地。
一人の黒衣の人物が静かに歩いていた。
腕には古びた革袋。
中には一冊の本。
表紙には薄く文字が浮かんでいる。
『竜騎士巡察録』
人物は周囲を確認すると、小さな扉を開いた。
地下へ続く階段。
その先には白い石壁。
観測室ではない。
資料保管庫だった。
待っていた男が口を開く。
「ありましたか。」
黒衣の人物は無言で本を差し出す。
男は表紙を確認する。
そして。
小さく首を横に振った。
「違います。」
「これも断片です。」
黒衣の人物が驚く。
「違う?」
「ええ。」
男は本を閉じた。
「レオンは、一冊に全てを残していません。」
「まだあります。」
静かな声。
焦りはない。
まるで最初から分かっていたようだった。
「観測は続けます。」
「対象は必ず次の記録へ辿り着く。」
黒衣の人物は黙って頷く。
結社もまた。
まだ真実には届いていなかった。
そして。
そのことを誰よりも理解しているのが。
カイナだった。




