番外編 侯爵にはわからない
いつもの他愛もない会話だった。
「まったく、娘というものは際限がない。この前も新しいドレスが欲しいと言い出してな」
そう言った伯爵は、困ったように眉を下げていた。
王宮で開かれた会合を終え、顔見知りの貴族たちと茶を飲んでいたときのことだった。
「買ってやったのか?」
「仕方がないだろう。あれこれ理由を並べていたが、最後には『お父さま、お願い』だ。あれをやられると敵わん」
隣にいた男が笑う。
「甘いな。うちは妻に叱られるぞ」
「もう叱られた。息子と2人がかりでな」
そう言いながら、伯爵も笑っていた。
侯爵は黙って茶を飲んだ。
昔から、こういう話がよくわからなかった。欲しいものがあるなら必要性を説明すればいい。必要なものなら買えばいいし、そうでないなら買わなければいい。妻に叱られるようなことをしたなら改めればいい。なにが面白いのだ。
「そういえば、そちらのご令嬢はどうしている?」
突然話を振られ、侯爵は顔を上げた。
「上の娘なら領地にいる」
「領地? セレスティナ嬢が?王太子妃候補だっただろう」
「辞退した」
周囲から驚きの声が上がった。
「それはまた、どうして」
尋ねた男が苦笑したが、それ以上の追及はされず助かった。それ以上、聞かれたところで何を答えればいいのかわからなかったから。
上の娘が王太子妃候補を辞退するのも領地に行くこともいつの間にか決まっていた。
確か護衛が辞めると言い出したのは同じ時期だったか?それも後になって聞いた。
すべて報告は受けている。
だが、なぜそうなったのかと問われれば、説明できることはない。
「まあ、子供も大きくなったということだ」
誰かがそう言って笑った。
「相談するくせに言う事は聞かない。どんどん話が変わるしな」
「それで?」
「妻と息子と3人で夜中まで大喧嘩だ。翌朝、全員寝不足だよ」
また笑いが起きた。
侯爵も口元だけで笑った。自分の家でそんなことは起きたことがない。
◇
屋敷へ戻ったのは、夕食の少し前だった。
食堂へ入ると、すでにマルグリッドとコーデリアが席についていた。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
いつも通りの挨拶だった。
食事が始まって間もなく、コーデリアが口を開いた。
「お母さま、お姉様からまた手紙が来たの」
「あら、今度は何ですって?」
「屋敷の倉庫を整理したら、昔の農具が山ほど出てきたんですって。捨てていいのかわからないから、昔から住んでいる方たちに聞いて回ったらしいわ」
「まあ。あの子ったら」
「それでね、捨てるどころか、昔使っていた道具を見ながら話が盛り上がっちゃって、そのままお茶までご馳走になったって」
マルグリッドが笑った。
「目に浮かぶわね」
侯爵は食事を続けながら聞いていた。
セレスティナらしい、と2人は笑うが、自分にはよくわからなかった。
「元気なのか」
そう尋ねると、コーデリアがこちらを見た。
「ええ。忙しいみたいですけど」
「そうか」
会話はそこで終わった。マルグリッドもコーデリアも、侯爵が尋ねれば答えるし、必要な話があれば伝える。
それだけだった。
食事を終えると、コーデリアが席を立った。
「お母さま、あとで少しいい?」
「もちろん。部屋へ行きましょうか」
何の相談なのかとは聞かなかった。自分に関係があることなら、いずれ話があるだろう。
そう考えてから、ふと昼間の会話を思い出した。
娘にドレスをねだられた男。妻に叱られた男。家族と夜中まで喧嘩した男。
皆、面倒そうな顔をしていたのに、楽し気に笑っていた。
◇
セレスティナの母である前妻に言われたことを時折思い出す。病が重くなり、寝台を離れる時間がほとんどなくなった頃だった。
「あなたは誰も愛せない人なのね」
寝台からこちらを見ていた妻は、温度の感じない声で唐突に言った。言葉の不穏さに 侯爵は書類から顔を上げた。
「……いいえ、きっと愛なんてあなたにはわからないのよね。まあ、私もわかっているとは言えないけれど」
「何を言っている?」
妻はひどく疲れた顔で笑った。
「私の言葉がわからないわよね。きっと、誰の言葉も」
病人のいうことだ。それをいちいち咎めたり腹を立てても仕方ないから何も言わなかった。そもそも何が言いたいのかそれこそわからなかった。
治療には十分な金を使っている。評判のいい医師も呼んだ。薬も、療養に必要だと言われたものも、手に入るものはすべて用意した。
娘の教育にも不足はない。
「私に隠れて付き合っている人にも、きっと同じ」
侯爵は眉を寄せた。そう、妻は知っていた。セレスティナのひとつ下に自分の娘がいるのだと言ったあの日から多分拒絶されて憎まれているのもわかっていた。だがいつか分かるなら早いうちに告げた方がいいと思ったのだ。その後病が発症したところから考えると、もしかして言わなかったらよかったのかと思ったこともある。わからない。だから仕方ないし、正直これ以上考えることも煩わしい。
「その人すら、私は気の毒に思うわ。まだわかっていないでしょうから」
「何をだ」
「私も、わかっていなかったの。あなたから愛情を受けていると錯覚していた」
責める口調ではなかった。
怒っているようにも聞こえなかった。
だから余計に、侯爵には何を言えばいいのかわからなかった。きっと酷いことを言われているのはわかっていた。だが否定要素もなく正直腹も立っていなかった。
「あなたはただ、心地いい場所が欲しいだけ。面倒がなくて、静かで、穏やかで。誰にも自分を侵害されない場所」
妻は再び目を開けた。
「そこにいるのが私でも、あの人でも、本当は大して違わないのでしょうね」
侯爵は返事をせず、妻も返事を求めていなかったようで、そのまま話はそこで終わった。
◇
セレスティナが素性も知れない少年を屋敷に置きたいと泣いたとき許可してやった。
妻が亡くなった後、マルグリッドとコーデリアを屋敷へ迎え、暮らしに不自由がないようにした。マルグリッドが屋敷の中を変えたいと言えば任せ、コーデリアにも、セレスティナと同じだけの教育を受けさせた。
皆の望みはできる限り叶えたはずだ。
妻にも娘たちにも好きなようにさせてきた。自分なりに、家族のためにやってきたつもりだった。だから、いつからこうなったのかがわからない。
マルグリッドとコーデリアが自分を嫌っているとは思わない。セレスティナもそうだ。
誰も侯爵を責めないし、何かを求めてくることもない。
問題の起こらない静かな家だった。
かつて妻に言われた通りの、面倒がなく、穏やかで、誰にも侵害されない場所。
望んでいたはずのものが、そこにはあった。
それなのに。
侯爵は1人になった食堂を見渡した。
何かが足りなかったのだろうか。
『私の言葉がわからないわよね。きっと、誰の言葉も』
なぜかときどき前妻の声が耳によみがえった。
今でもその意味はわからないままだ。




