後編
朝、カイルはいつもより少し早く身支度を整えた。
今日で最後とはいえ、昨日までと何も変わらない。セレスティナが学園へ向かうなら馬車に付き添い、外出の予定があれば先に経路を確認する。屋敷へ戻るまで護衛を務め、それで終わる。
そう思っていたのに、その日は朝から予定が狂った。
セレスティナは学園へ行かないという。代わりにマルグリッドから、護衛を辞める前に引き継いでほしいことがあると告げられた。使用人と警備の配置を確認し、後任に渡す記録をまとめる。途中で馬具の確認まで頼まれ、気づけば時間ばかりが過ぎていた。
おかしいと思い始めたのは、昼を過ぎてからだった。
朝から一度もセレスティナの姿を見ていない。学園へ行かないと聞いていたからこそ、屋敷の中で一度も顔を合わせないのはあまりにも不自然だった。
作業を中断して確認しようとしたところへ、使いの者がやってきた。
「カイル様。奥様がお呼びです」
居間へ入ると、マルグリッドは窓際の長椅子に腰掛けていた。向かいにはセレスティナの義妹、コーデリアが座っている。膝の上には読みかけらしい本が伏せてあったが、カイルが入ってきても手に取ろうとはしなかった。
「お呼びと伺いました」
座るよう勧められたが、カイルはその場に立ったまま室内を見回した。
「お嬢様はどちらに?」
マルグリッドが答えるより先に、コーデリアが膝の上の本を脇へ置いた。
「あなた、今日で辞めるんでしょう? それならもう、お姉様がどこにいるかなんて関係ないんじゃない?」
こちらへ目を向けないまま、棘のある声だけが飛んでくる。
「コーデリア」
「だってそうでしょう。結局、何も言わないで辞めるつもりのくせに」
苛立った声を向けられることには慣れていた。それなのに、明日からはセレスティナがどこへ行こうと自分には関与する理由がなくなるのだと、改めて突きつけられた気がした。
「セレスティナなら、もうここにはいないわ」
「……外出ですか?」
「今朝早く、領地へ発ったの」
意味を理解するまでに一瞬かかった。
「領地? どこですか?」
今日までは自分が護衛のはずだった。なぜ何も知らされず、声すらかけられないまま出発しているのか、訳がわからない。
苛立つまま尋ねても、マルグリッドは口元にうっすらと笑みを浮かべている。からかわれているように感じ、カイルは大きく息を吐いた。
「なぜですか」
「セレスティナは学園を休学するからよ。そのまま辞めるかもしれないけれど」
「はあっ?」
「王太子妃候補も辞退したわ。本人の希望でね」
今度こそ声が出なかった。マルグリッドとコーデリアの顔をかわるがわる見るが、言った本人も、それを聞いているコーデリアも平然としている。それどころか、コーデリアに至ってはどこか得意げですらあった。
「……なぜですか」
「殿下に不誠実だからですって」
「何がですか」
「自分がよ」
マルグリッドは静かに答えた。
するとコーデリアがおもむろに足を組み、ソファの背もたれへ身体を預けた。立ったままのカイルを見上げ、今度は隠しもせずに笑う。
「ねえ、さっきからなんでなんでって、情けなくない? どんな気分よ。自分だけ何にも知らないまま置いていかれるって」
その視線を受け止めて睨み返したが、コーデリアは意にも介さない。マルグリッドが苦笑した。
「ごめんなさいね。この子、機嫌が悪いのよ。セレスティナが行ってしまったから」
「違う。そんなんじゃないわよ。いいこと?お姉様はね、アンタが自分の口で『護衛を辞めます』って伝えてくるの、待ってたのよ」
「――奥様、お嬢様方に私の辞職について、お伝えになったのですか?」
まさか自分の知らないところで、辞める話がセレスティナにまで勝手に伝わっているとは思わなかった。
「言わないでくれなんて言われてないし? まあ、どのみち伝えるわ。だって護衛よ? 後任はどうするの。相性だってあるでしょうし、本当ならあなたが本人に伝えるべきだったでしょう?」
返す言葉がないところへ、コーデリアの声が追いかけてきた。
「アンタが今、なんでなんでって言ってるのは、お姉様が味わうはずだったし、実際に味わった思いなのよ。そういう思いをさせたかったんでしょう? 自分がいなくなることで悲しめばいいって。ハッ」
「違いますっ」
「違わないわ。悲劇の主人公にでもなったつもり?」
さすがに棘どころか刃になり始めた言葉を止めるように、マルグリッドがコーデリアへ片手を上げた。
表情を少し和らげ、カイルに向き直る。
「あなたが辞めたいと言ってきたのと同じ頃に、セレスティナからも話があったのよ。泣き出しちゃってね。どうしよう、ごめんなさい、お母さまって」
思い出したのか、マルグリッドは頬を緩ませながら口元へ手をやった。困った話をしているはずなのに、嬉しくてたまらないように見える。
「王太子妃になることが目標だったでしょう? あの子の母親の望みだと思っているところもあったみたいね。あなたも知ってるでしょう? それを自分から辞めるって決めて、ごめんなさいって。侯爵家の立場を悪くするかもしれないって。そんなの関係ないのにね」
マルグリッドは長椅子から立ち上がると、立ち尽くしているカイルの肩を軽く押した。
「でも、ほかの人が好きだって気づいちゃったのに、王太子妃になろうとするなんて殿下に不誠実でしょうって、わんわん泣くの……かわいい子でしょう?」
その声には、隠しようのない愛情があった。
いや、ちょっと待ってくれ。
好きな人?
好きな人がいるから、王太子妃候補を辞退した?
「好きな人って誰、って聞かないの? まあ、聞いたら張り倒してやるけど」
目を見開いたままコーデリアへ視線を向けると、盛大なため息を返された。
その顔を見ているうちに、じわじわと熱が頬へ集まってくる。
いや。まさか。
「あの子はずっと父親を見てきたからでしょうね。誠実に人と向き合わないことには耐えられないんですって」
マルグリッドの声を聞きながら、カイルの脳裏には幼いセレスティナの姿が浮かんだ。
低木の奥で、父がまた食事に来なかったと唇を尖らせていた少女。母の寝台のそばで聞いた話を、嬉しそうに何度も聞かせてくれた少女。いつか王子様のお嫁さんになるのだと、疑いもせず笑っていた。
その未来を、自分から手放したのだ。
「……だからって、なぜ領地へ?」
「王太子妃を目指さないなら、これから何をしたいのか改めて考えたいんですって。ちょうど人手が欲しい領地があったから、しばらく任せてみることにしたの」
「1人でですか」
マルグリッドが思わずというように笑った。
「使用人も護衛もつけてるわよ。そこは心配しなくて大丈夫」
それまでソファにいたコーデリアが勢いよく立ち上がり、カイルを睨みながら数歩近づいてきた。
「私、昔からアンタのこと気に入らなかったわ」
「……存じています」
「お姉様を取っちゃうんだもの」
罵られることを覚悟したが、コーデリアはそこで一度大きく息をついた。次に出てきた声は、思っていたよりずっと落ち着いていた。
「もちろん、お姉様は私にも優しかった。誰にだって丁寧で、ちゃんと向き合ってくれた。でも、アンタにだけは違う顔を見せてた。甘えたり、拗ねたり、やんちゃだったり。私の知らないお姉様をアンタだけが知ってるのが、ずっと悔しかった」
そこまで言うと、コーデリアの視線がわずかに下がった。
「でも、だからこそ、アンタならずっとそばでお姉様を守ってくれるって思ってたのに」
カイルは目を伏せた。
「それなのに黙って辞めようとするって何なのよ。ただ逃げただけじゃない」
その言葉は、思っていた以上に深く刺さった。
守るためだと思っていた。自分が離れることこそ、セレスティナのためなのだと。
「まあ、あなたの立場では難しいと判断したのよね。それはわからなくもないわ」
マルグリッドが柔らかく言い添える。
「でも、あの子がどういう子か、あなたが一番理解していたでしょうに」
何かあれば話す。嬉しいことも、腹が立ったことも、うまくいかなかったことも。子供の頃からそうだったし、自分はそれをずっと聞いてきた。
なのに、自分のことになると何も話さなかった。
「……申し訳ありません」
「私に謝っても仕方ないでしょう」
くすくすと笑われたが、その通りだった。
「全部話して、一緒に行けばいいのにとは言ったのよ」
マルグリッドの言葉に、カイルは顔を上げた。
「あなたも一緒に連れていけばって。でも、それは嫌なんですって」
「……なぜ」
思っていた以上にショックを受けた。
胸の奥がひやりと冷える。自分は黙って彼女の前からいなくなろうとしていたというのに、勝手なものだ。
「罰だそうよ」
「罰?」
「『自分には何も言わずに辞めると決めた人を、どうしてこっちから誘わないといけないの?』ですって」
思わず息を吐いた。安堵した自分に気づいて、今度は別の意味で情けなくなる。
コーデリアが意地悪そうに口元を押さえる。
「お姉様、結構怒ってたわよ」
「もしあなたが来るとしても、自分だけ先に行く。それくらいいいでしょ?って」
マルグリッドも笑っていたが、やがてその笑みを収めた。
「そうは言っていたけれど、きっとあなた自身に決めてほしかったのよ。だって、あなたが来ないなら、それはそれで仕方がないとも言っていたから」
先ほどまでわずかに浮いていた気持ちが、また沈んだ。
「あなたが本当に護衛を辞めて、自分から離れたいと思っているかもしれないのに、来てほしいとは言えないって」
胸の奥を掴まれたような気がした。
幼い頃のセレスティナなら、自分がいなくなると知れば泣いて引き止めただろう。実際、あのときはそうして、この屋敷に残してくれた。
けれど今の彼女は、来てほしいと思っていたとしても、自分の意思で選ぶ余地を残している。
それなのに自分は、セレスティナのためだと言いながら、彼女が何を望むのかさえ聞こうとしなかった。
「……お嬢様は」
そこまで口にして、カイルは言葉を止めた。
自分に来てほしいと思っているのか。それをマルグリッドに尋ねること自体が、もう違うのだろう。
来るか来ないかは、自分で決める。セレスティナがそうしたように。
「こうだ、と決めると早いのよね、あの子は。昔から。迷いがないというか」
マルグリッドが懐かしむように笑った。
「だから、ずいぶん手を焼いたわ。わかるでしょう?」
「……はい」
それだけは迷わず答えられた。こんな状況だというのに、口元には自然と笑みが浮かんだ。
「でも、すっきりしたんでしょうね。今朝ここを出ていくときは、きらきらしてたわ」
その姿が、目に浮かぶようだった。
「万が一にも、あの子に気を遣わないでね。もしそうなら、かえって気の毒だから。あなたはあなたの思う道を行きなさい」
そう言ってから、マルグリッドは少しだけ口元を緩めた。
「まあ、護衛対象のあの子が自分のせいで危険だから、なんて理由で仕事を辞める人が、これを聞いて行かないとは思っていないけれど」
卓上から、折り畳まれた紙を取り上げた。
「領地の場所と、屋敷までの道順よ。馬車なら半日ほどかかるわ。馬ならどれくらいかしらね」
カイルは差し出された紙を受け取り、書かれた道順へ食い入るように目を落とした。
「もし行くなら、あなたがいつも使っていた馬を使いなさいな」
マルグリッドは厩の方角へ視線をやった。
「向こうでちゃんと世話してあげて?」
「……はい」
紙を懐へ入れ、カイルは深く頭を下げた。
「長い間、お世話になりました」
「そうね。思えば、あなたとも長い付き合いなのよね」
顔を上げると、マルグリッドは笑っていた。
「カイル」
今度はコーデリアに呼ばれた。
振り返ると、先ほどまで散々こちらを責め立てていた彼女が、妙に居心地が悪そうな顔をしている。
「私、この家に来た頃、お姉様のことが全然わからなかったの。どうしてあんなに笑って話しかけてくるのかも、何度邪険にしても、どうして諦めないのかも。私自身、お姉様とどうしたらいいのかわからなかった」
言いながら、コーデリアは少しずつ視線を逸らしていった。
「でも、お姉様がずっとあのままでいてくれたのって、たぶんアンタがいたからでもあるんでしょうね。嫌なことがあっても、アンタのところに行けば好きなだけ文句を言えたんでしょうし?」
「いえ、お2人の文句を聞いたことはありません。自分のやり方が悪かった、とばかり言っていました」
低木の奥でさえ、セレスティナが2人を悪く言うことはなかった。それだけは伝えておきたかった。
「え……あ、そうなんだ。お姉さまらしいわね」
意外なほど柔らかな表情を見せたが、すぐに我に返ったようにバツの悪そうな顔をした。
「うん……まあ、ちょっとはアンタにも感謝してあげる」
最後だけ声が小さくなった。
「コーデリア様」
「でも今回のことは許してないから」
「……はい」
カイルは2人にもう一度深く頭を下げると、踵を返した。
◇◇◇◇◇◇
セレスティナが領地の屋敷へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
王都の侯爵邸と比べればずっと小さな屋敷だったが、窓が多く、どの部屋にも明るい光が差し込んでいた。出迎えた使用人たちへの挨拶を済ませ、屋敷の中を案内してもらい、これから任される仕事について簡単な説明を受けた。
のどかな生活が送れるのかと思いきや、覚えることも取り組むことも多く、思っていた以上に忙しくなりそうだった。だが今は、それがなんだかありがたかった。忙しくしていれば、余計なことを考えずに済む。
ひと通りの説明が終わった頃には、傾き始めた陽が庭を照らしていた。
部屋で休むよう勧められたが、セレスティナは少しだけ庭を歩くことにした。
初めて来る場所だった。
王都の屋敷ほど整えられてはいない。花壇から伸びた草が石畳へ少しはみ出し、庭木もどこか自由に枝を伸ばしている。
その奥で、セレスティナは足を止めた。
大きな低木の茂みがあった。
昔、カイルと2人で入り込んでいたものによく似ている。ただし、こちらの方がずっと大きい。
近づいて枝を持ち上げてみると、その奥には思った以上の空間があった。
セレスティナは周囲を見回した。誰もいない。
少し迷ってから、枝の下へ身体を滑り込ませた。
大人になったというのに何をしているのだろう。
そう思いながらも、妙に懐かしくて落ち着いた。
膝を抱えるようにして座ると、葉の隙間から差し込む夕方の光まで、昔とよく似ている気がした。
だからこそ、ため息が出た。久しぶりに1人になった気がする。お母さまもコーデリアも、カイルもいない。
「……あーあ」
今頃、カイルはマルグリッドから話を聞いただろうか。
予定通り辞職して、もう侯爵家を出ただろうか。
一緒に来てくれないかと、自分から声を掛ければよかっただろうか。
けれど。
「私には何も言わなかったくせに」
結局、辞めることは教えてくれなかった。
でも自分だって、王太子妃候補を辞退するとカイルには言わなかったのだから同じだろうか。
いや、同じではない気もする。
考えれば考えるほどわからなくなり、セレスティナは膝へ額をつけた。
そのとき、頭上で葉が揺れた。
「へえ」
聞き慣れた声がした。
「ここの茂みは大きいんですね」
セレスティナの身体が固まった。
ゆっくりと顔を上げる。
枝の向こうに、カイルがいた。
なぜ。
いつ来た。
王都を出たのはいつだ。いくらなんでも早すぎないか。
聞きたいことが一度に押し寄せ、口を開いては閉じる。それなのに、何1つ言葉にならない。
そんなセレスティナをよそに、カイルは枝をかき分けた。
「ちょ、ちょっと」
止める間もなく、茂みの中へ入ってくる。
子供の頃の隠れ場所とは違い、大人が2人座ってもまだ余裕があった。
カイルは当然のようにセレスティナの隣へ腰を下ろした。
近い。
つい先日まで毎日のようにそばにいた人なのに、今はどうしていいのかわからない。
セレスティナはわずかに身体をずらし、カイルとは反対の方を向いた。
「ティナ」
その呼び方に、今度こそ息が止まった。
幼い頃、セレスティナという名前は長いと文句を言ったカイルが、2人きりのときだけ使っていた呼び名。いつから呼ばれなくなったのだろう。カイルが護衛になり、自分を「お嬢様」と呼ぶようになってからは、1度も聞いていない。
嬉しい。
けれど、それを知られるのはなんだか悔しい。
先ほどから驚かされてばかりで、このままでは負けたような気がする。
「……なによ」
どうにか平静を装って返した。
「急いで飛ばしてきて、何も食べてないんだ。何か持ってる?」
何を言われるのかと身構えていたセレスティナは、思わずカイルを見た。
昔と同じ顔をしている。
「仕方ないわね」
なんだろう。このタイミングは。別にいつも何か持ち歩いているわけではない。
ただ先ほど厨房を覗いたとき、料理人がくれたものを持っているだけなのだが。
誰にともなく心の中で言い訳をしながら、セレスティナはそれらをカイルへ差し出した。
自分で言ったくせに、本当に何かが出てきたことに驚いたのだろう。
しかも、思いのほかたくさん。
――カイルが大笑いした。
本作の紹介動画をYouTubeで公開しています。
よろしければ、下のリンクからご覧ください。




