前編
足を滑らせたのは、ほんの一瞬だった。
学園から戻ったばかりのセレスティナは、玄関へ続く石段の最後の1段を踏み外した。身体が傾くより早く、すぐ後ろを歩いていたカイルの腕が腰を支え、転倒は免れた。
それだけなら、何も珍しいことではなかった。
幼い頃から、セレスティナは何度もカイルに助けられている。木から落ちかけたときも、馬が突然駆け出したときも、夜会で長い裾を踏んだときも。彼はいつも間に合った。
何が違ったのか。
腰を支えていたカイルの腕がセレスティナの背へ回った。頬がカイルの胸元に触れ、互いの身体の間にあったはずのわずかな隙間が消えた。セレスティナの腕がカイルの背に回った。
次の瞬間、勢いのある動きで腕が離れた。
カイルは一歩後ろへ下がり、いつもの護衛の位置へ戻った。
「申し訳ありません」
「……いいえ」
それだけだった。
使用人が玄関の扉を開く。セレスティナが先に屋敷へ入り、カイルがその後に続いた。
いつもと同じように。
◇◇◇◇◇◇
セレスティナがカイルと出会ったのは、まだ自分の世界が侯爵家の屋敷と庭だけでできていた頃だった。
庭の低木の奥に、子供1人がどうにか入り込める隙間があった。大人には狭く、庭師に見つかれば服が汚れると叱られる。だからこそ、幼いセレスティナには格好の隠れ場所だった。
その日もいつもと同じように枝をかき分けて入り込むと、先客がいた。
同じ年くらいの少年だった。泥で汚れた服。伸びた髪。腕には擦り傷があり、靴もひどく傷んでいた。少年の方も、まさか茂みの奥から着飾った小さな令嬢が現れるとは思わなかったらしい。
2人はしばらく向かい合った。
「あなた、誰?」
「カイル」
知らない子供が庭にいるなら、大人を呼ぶべきなのだろう。けれど呼べば、この少年は連れていかれてしまうような気がした。とりあえずその日のお菓子は全部あげた。
翌日、厨房から本人には多すぎる量のパンを持っていくところを使用人に見つかり、屋敷中を巻き込む騒ぎになった。
素性のわからない子供を侯爵家に置いておくわけにはいかない。救護院へ送るという話を聞いたセレスティナは、生まれて初めてと言っていいほど激しく泣いた。
側に誰もいなくなってしまうという喪失感は、今も何となく覚えている。母は病がちで、長く寝台を離れられない日が増えていた。父は屋敷にいても、食卓に姿を見せることすら少ない。広い屋敷には大勢の人間がいたけれど、セレスティナはいつも1人だった。
そこへ突然現れた少年を、失いたくなかった。
結局、父はあっさり許可した。娘の癇癪に付き合うより、子供を1人使用人に任せる方が面倒が少ないと考えたのかもしれない。
カイルが屋敷に残るようになると、低木の奥は2人の場所になった。
その日に叱られたことや嫌いな授業。カイルが覚えた剣の構え。母の具合が悪かったことや、父がまた食事に来なかったこと。セレスティナは何でも話した。
カイルは聞いているのかいないのかわからない顔をしながら、それでも翌日には覚えていた。
セレスティナの母は美しい人だった。大きくなるにつれて、母の床に就く時間は長くなり、同じ屋敷にいながらも会える時間は減っていった。それでも会えば、母はいつも寝台のそばに座るセレスティナの髪を撫でた。
『あなたはきっと、素敵な王子様のお嫁さんになるわ』
幼い娘を喜ばせるための、ありふれた言葉だったのかもしれない。
『幸せになってね、私の分も。私の大事な大事な娘』
母から残された言葉があまりに少なかったから、セレスティナはそれを大切に抱えた。
いつか王子の妃になり、母の分も幸せになる。
それはいつしか、セレスティナにとって目標であり、進むべき方向を示す羅針盤になった。
◇
母を亡くしてしばらくしてから、新しい母としてマルグリッドと、その娘コーデリアが屋敷へやってきた。
新しい母と、1つ違いの妹ができる。最初に抱いたのは、戸惑いよりも期待だった。
これでもう、広い食卓で1人きりになることはないのかもしれない。どんな話をして、どう遊び、どう過ごせるのだろう。セレスティナは楽しみで仕方がなかった。
けれど、どうも様子がおかしい。
マルグリッドは必要以上にセレスティナへ近づこうとせず、コーデリアは露骨に警戒し、毛を逆立てた猫のように威嚇する。
無理もなかったのだと、今ならわかる。マルグリッドは父が母の生前から関係を持っていた女性で、コーデリアはその娘だった。母を亡くしたばかりのセレスティナが、そんな2人を笑顔で「お義母様」「コーデリア」と呼び、何かにつけて親切にする。善意より先に、裏を疑われても仕方がない。
だが、当時のセレスティナは何も知らなかったのだ。だから諦めなかった。
コーデリアが好きだと言った菓子を覚え、外出から戻れば小さな土産を渡した。
関係が変わったのは、何か大きなきっかけがあったからではない。ただただ毎日を積み重ねた。
挨拶をして、互いの出来事を喜び、心配して、悩み、相談して、頼って、寄り添った。腹を立て、傷つけ、ときには謝り、それでも次の日にはまた同じ食卓についた。
向き合うことをやめなかっただけだ。
それでも、カイルがいなければ途中で挫けていたかもしれない。うまくいかなかった日も、腹を立てた日も、あの茂みへ行けばカイルが話を聞いてくれた。
後になって、セレスティナはコーデリアも父の実子であり、父とマルグリッドの関係が母の存命中から続いていたことを知った。
もちろん傷ついた。母を思えば、何も感じないはずがなかった。それでも、もうマルグリッドもコーデリアも遠ざけるつもりはなかった。その事実とは別に、3人で積み重ねてきた日々が確かにあったからだ。
むしろ、セレスティナが理解できなかったのは父の方だった。
病床の母にも、その後この家に入ったマルグリッドにも、コーデリアにも、父が誠実に向き合っている姿をセレスティナは見たことがない。もちろん自分にも。
問題が起きれば金で処理し、必要な許可を出し、生活に困らないだけのものを与える。それで自分の役割は果たしたとでもいうように、相手の想いを知ろうともせず、自分の想いも伝えない。
誰かと生きることを選びながら、その誰とも向き合わない。
それが嫌だった。
だから自分は、誰かと人生を共にするなら誠実でありたいと思った。
◇
16歳になる年、セレスティナは学園へ入った。
鍛錬を積み、腕をあげていたカイルはセレスティナの護衛として同じ学園へ通うことになった。年齢は3歳ほど上――おそらくは、だが――高位貴族の子女が護衛を伴うこと自体は珍しくなく、彼は当然のようにセレスティナのそばにいた。
そこで王太子エドワルドと出会った。
王太子という立場を鼻にかけることもなく、人の話をよく聞く青年だった。誰かが困っていても大げさに助けようとはしない。必要なものがいつの間にか届き、困りごとが大きくなる前に手が打たれている。
セレスティナは、そういう彼の在り方を好ましく思った。
卒業を控え、王太子妃候補の選定が始まると聞いたとき、自ら候補に加えてほしいと申し出た。
母の願いを叶えられるということも、もちろんあった。
けれど、それだけではない。エドワルドなら誠実に向き合える相手だと思ったからだ。自分も彼に誠実であろう。選ばれたなら、その責任を果たそう。
そう決めていたはずだったから。
だから、あの日の自分が許せなかった。
石段で足を滑らせたところをカイルが支えてくれた。そこまではいつものことだったのに、そのあとの感触だけが、何度忘れようとしても身体に残った。
胸元に触れた頬。背に回った腕。近すぎる体温。そして、自分の腕をカイルの身体に回してしまった。支えてくれただけの人に、自分から抱きついたのだ。
カイルはすぐに離れてくれた。彼は正しい。
護衛として越えてはいけない距離を、きちんと元へ戻してくれた。
なのにセレスティナは、その夜、何度も同じ場面を思い出した。
恥ずかしいからでも、嫌だったからでもない。
嬉しいと思ってしまった。
その事実に気づいた瞬間、長い間、見ないふりをしていたものまで一緒に形を持った。
カイルがほかの令嬢と話していると、なぜか気になったこと。学園で別行動になる日は、いつもより落ち着かなかったこと。エドワルドと話している最中でも、部屋の隅に立つ彼の位置だけは無意識にわかっていたこと。
いつからだったのかはわからない。けれど、もう誤魔化すことはできなかった。
自分は、カイルが好きなのだ。
気づいた途端、今まで正しいと思っていた未来が音を立てて崩れた。
王太子妃候補に自ら名乗りを上げておきながら、別の男を想っている。それを隠したまま選定を受け、もし選ばれたならエドワルドの妻になる。そんなことが誠実であるはずがない。
父のようにはなりたくなかった。誰かと生きると決めながら、心の大切な部分だけを別のところへ置いておくような人間には。
ならば、答えは1つしかなかった。
王太子妃候補を辞退する。
母が望んでくれた未来を、自分から手放すことになる。それを思えば胸は痛んだ。それでも、エドワルドに嘘をつきながら候補であり続けることの方が、セレスティナには耐えられなかった。
母の言葉を忘れるわけではない。
ただ、その言葉だけを頼りに歩いてきた道から、自分の足で別の道へ進む時が来たのだと思った。
問題はカイルだった。好きだと気づいたからといって、彼が自分をどう思っているのかはわからない。
あの日だって、抱きついてしまった自分から、カイルはすぐに離れた。そのことを思い出すと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど、それと王太子妃候補を辞退することは別の話だった。カイルが自分をどう思っていようと、エドワルドに不誠実なままでいていい理由にはならない。
まずは、自分が決めたことをしよう。
その先のことは、それから考えればいい。
そう決めると、不思議なくらい迷いはなかった。
◇◇◇◇◇◇
きっと最初から惹かれていたのだと思う。
もちろん、最初は恋ではなかった。庭の茂みから突然現れた小さな女の子は、カイルにとって理解しがたい生き物だった。得体が知れないであろう自分に嬉しそうに菓子をよこし、自分の方がずっと小さいくせに何かと世話を焼こうとする。救護院へ送られると知れば、自分のことでもないのに泣きわめいた。
姉のようでもあり、母親の真似事をしているようでもあり、目を離せば何をするかわからない幼子でもあった。
そして、ときどき英雄になった。
自分より大きな犬を怖がりながら、その犬に追われた使用人の子の前へ飛び出したことがある。木の上で降りられなくなった猫を助けようとして、自分まで降りられなくなったこともある。
剣を習おうと思ったのは、そんなセレスティナを見ていたからだった。このままでは、いつか本当に大怪我をする。彼女がどこかへ飛び込んでいくなら、せめて引き戻すか、ひと足先に飛び込んで守れるだけの力が欲しかった。
屋敷に置いてもらった恩を返すためだと、当時は思っていた。
それが少しずつ変わった。
貴族の世界を知るにつれ、自分がセレスティナの隣にいることの意味も知った。どこの馬の骨ともわからない、素性の知れない子供。そう陰で笑われたとき、相手を殴ってやろうと思った。けれど、拳を振るえば困るのはセレスティナだった。
だから拳を下ろした。言葉遣いを直し、礼儀を覚え、勉強し、鍛錬に励んだ。
彼女のそばにいるために。
それなのに、成長するほど距離は広がるばかりだった。
令嬢と護衛。もう昔のように名前を呼び捨てにすらできない。
学園へ入り、王太子エドワルドと知り合った。
嫌いだった。何の努力もなくセレスティナの隣に立てる身分を持ち、名を自然に呼び、その隣で笑えることが羨ましく、妬ましかった。吐き気がするほど大嫌いだった。
セレスティナを表面でしか見ない男なら、心の中でいくらでも軽蔑できたのに、エドワルドは腹立たしいほど彼女の在りようをよく見ていた。
長い式典のあとには、セレスティナが疲れていることに誰より先に気づく。人に頼まれれば断れない彼女が仕事を抱えすぎれば、王太子の権限を振りかざすことなく自然に分担を変える。
セレスティナが気づかないところで助け、恩に着せることもない。
認めたくはなかったが、認めざるを得なかった。
王太子妃候補の話を聞いたとき、とうとうその時が来たのだと思った。
幼い頃、低木の奥でセレスティナは、いつか王子様のお嫁さんになるのだと照れもせず話していた。
その願いが叶うのだ。
相手がエドワルドなら任せられる。
自分は護衛として、最後まで彼女の望む未来を守ればいい。
そう本気で思っていた。
石段で身体を受け止めるまでは。
転ばないよう咄嗟に腰を支えた。そこまでは護衛としての行動だった。そのあと、自分から抱き寄せた。
ほんの一瞬だったが、十分だった。我に返って腕を解くと、セレスティナも自分から離れた。
当然だった。
あれほど長く自分を律してきたのに、一瞬で壊れた。
その夜、カイルは剣の手入れをしながら、何度も手を止めた。もう一度あの距離に立ったとき、自分は護衛でいられるのだろうか。彼女が転べば支える。危険があれば抱えてでも逃がす。それが仕事だ。
けれど今日、自分は仕事を理由に触れたのではなかった。
ただ、抱きしめたかった。
それを認めてしまえば、もう以前と同じではいられない。
セレスティナは王太子妃候補になる。
自分の感情が知られれば、彼女の名誉を傷つけるかもしれない。エドワルドとの間に疑念を生むかもしれない。侯爵家にも迷惑をかける。
何より、次も自分を止められるという確信がなかった。
守るべき相手にとって、自分自身が危険になる。そんな護衛がそばにいていいはずがない。
決意を胸に、カイルはマルグリッドを訪ねた。
用件を伝えると、彼女は手にしていた書類を机へ置いた。
「理由を聞いても?」
「お嬢様の身の危険を考慮してのことです」
マルグリッドの片眉がわずかに上がった。
「あなたがいて?」
「私がいるからです」
それ以上を説明するつもりはなかった。
マルグリッドも追及せず、代わりに卓上の予定表を開いた。何日か先の日付を指先で確かめる。
「急にいなくなられても困るわ。今月の末までは務めてちょうだい」
「承知いたしました」
残された日数は、そう長くなかった。
それまでは何も変えない。
最後まで護衛として務め、セレスティナが望んだ場所へ進むのを見届ける。
それでいい。
そう決めた。




