婚約者を替えてから、あの侯爵家がおかしくなった件について
《教会にて エマ》
エマは、こちらへ向かって歩いてくる女性を見て、こっそりため息をついた。
また、この方か。
慰問に訪れたというには、ずいぶん華やかな装いだった。淡い桃色のドレスには幾重にもフリルが重なり、胸元にも袖にも小さなリボンが飾られている。陽を受けるたび、髪に挿した宝石まできらきらと光った。
今日はベルフォード侯爵家の方が来ると聞いていたから、今度こそと楽しみにしていたのに。
クラリス様は、どうされたのだろう。
王都では、教会や救護院への慰問が貴族の務めの1つとされているため、この教会にも定期的に多くの夫人や令嬢がやってくる。
エマは赤子の頃、この教会の前に捨てられ、以来ここで育った。今はパン屋に住み込みで働いているが、休みの日にはこうして教会の手伝いに訪れている。
幼い頃は嬉しかった。見たこともないような綺麗な服を着た人が、ときどきお菓子や果物を持って遊びに来てくれる。それだけで特別な日になった。
けれど、少し大きくなればわかってしまう。
ここへ来ることを楽しみにしている人は、そう多くない。差し出した手をさりげなく避ける人もいれば、笑顔も見せず、ただ時間が過ぎるのを待っているような人もいた。それでも、慣れないなりに一生懸命こちらへ寄り添おうとしてくれる人は大勢いた。
ただ、このブリジットという女性は、だいぶ様子が違う。
前回が初めてだったと思う。そのときもブリジットは、今日に負けないほど華やかなドレスを着ていた。色とりどりのリボンに細かな刺繍。袖には小さな真珠まで縫い込まれていた。
女の子が1人、目を輝かせて近づき、その綺麗な袖飾りにほんの少し触れた。
次の瞬間、小さな手がぱしんとはたかれた。びっくりした女の子はブリジットを見上げ、それから火がついたように泣き出した。エマも慌てて駆け寄った。
けれど、ブリジットが見ていたのは女の子ではなく、自分の袖だった。
「汚れちゃったじゃないの。何するの?」
どこが汚れたのか、エマにはわからなかった。ブリジットは何度も袖を確かめ、それから泣いている女の子を睨みつけた。その恐ろしさに、女の子はますます激しく泣いた。エマはその子を抱き上げ、背中をさすりながら思ったものだ。
どうして慰問に、こんな服を着てくるのだろう。
だからだろう。
今日の子どもたちは、誰もブリジットのそばへ行こうとしなかった。前回のことを知らないはずの小さな子まで、年上の子たちの様子を見て足を止めている。ブリジットはしばらく子どもたちを眺めていたが、やがて近くにいた修道女を呼び止めた。
「ねえ。この前もそうだったけど、ここの子たちって、いきなり人の服に触ったりするでしょう。ちゃんと躾はしているの?」
修道女は一瞬黙った。
「まだ幼い子もおりますので。申し訳ございません」
「私だからよかったけど、ほかの方にも同じことをしたら大変よ。きちんと教えておいた方がいいと思うわ」
そう言ってから、ブリジットは従者を振り返った。
「持ってきたものを出して」
従者たちが、菓子の入った籠をいくつも運んできた。色鮮やかな砂糖菓子に、焼き菓子。見たことのない形のものもある。それを見て、何人かの子どもがそろそろと近づいていった。
「これ、王都でも人気のお店のものなのよ」
ブリジットは指を立てて得意げだ。
「とても高いお菓子なんだから、ちゃんと味わって食べてね」
恐る恐る近づいた男の子は菓子を1つ取ると、すぐにその場を離れた。ほかの子どもたちも続いた。籠の周りで歓声が上がることはなかった。ブリジットは気にした様子もなく、菓子を受け取る子どもたちを眺めていた。
エマは少し離れたところから、その様子を見ていた。
クラリス様は違った。
初めてここへ来た日、子どもたちの前で膝を折り、名前を尋ねて話を聞いてくれた。それだけなら、ほかにもしてくださる方はいる。けれど、次に来てくれたとき、クラリスはその名前を覚えていた。
木から落ちて怪我をしたと話したエマには、
「怪我はもう治ったの?」
と尋ねてくれた。教会を出て、パン屋へ住み込みで働くことが決まったときには、自分のことのように喜んでくれた。そして次に会ったときには、仕事には慣れたかと聞いてくれた。
貴族の令嬢が、そんな小さなことまで覚えていてくれるとは思わなかった。
だからエマはクラリスが大好きだった。今日もベルフォード侯爵家の方が来ると聞いて、もしかしたらと期待していたのだ。
けれど、やってきたのはまたブリジットだった。
エマは、菓子を手にした子どもたちを見た。少し離れたところに集まって、ようやくいつもの声で話し始めている。ブリジットのそばに残っている子は、もういなかった。
「クラリス様は、もういらっしゃらないんですか?」
菓子を配り終えたブリジットが神父と話している間に、エマはそばを通りかかった修道女に尋ねた。
「あら、エマは知らなかったの?」
修道女は少し驚いた顔をした。
「なんでも、ベルフォード侯爵家のオスカー様は、クラリス様との婚約を解消されたそうよ」
「え?」
つい大きな声が出た。
「それで今は、クラリス様の義妹のブリジット様とご婚約されているんですって」
婚約が解消されたのか。
だから最近、クラリスではなくブリジットがここへ来るようになったのだ。ベルフォード侯爵家からの慰問なのだから、次期侯爵夫人となる人が顔を出している。ただ、それだけのことだったらしい。
では、もうクラリス様と会える機会はないのか。残念だ。
それにしても。
エマは、少し離れたところにいるブリジットを見た。
あの方が、クラリスの妹なのか。
全然似ていないな、と思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《仕立屋にて コレット》
王都の大通りから1本入った通りに、小さな仕立屋がある。
名を言えば誰もが知るような大店ではない。それでも腕のいい職人を抱え、長く贔屓にしてくれる客も多い店だった。店先には仕立て上がったドレスや外套が並び、そのまま買い求めることもできる。希望があれば丈や袖を直し、さらに懐に余裕のある客なら、採寸から始めてその人のためだけの1着を仕立てることもできた。
店の奥では今日も数人の職人と縫い子が、それぞれの仕事に追われている。
その1人、コレットは目の前の縫い目をほどきながら、今日何度目かわからないため息を飲み込んだ。
昨日、自分で縫ったところだった。
縫い目が曲がっていたわけではない。寸法を間違えたわけでもない。
気が変わったのだ。ブリジット様の。
最初は袖口を絞ってほしいという注文だった。それが仮縫いになると、やはり広げたいと言い出した。広げてみれば今度は飾りが足りないという。レースを足し、リボンをつけたところで、今朝になって「子どもっぽいわ」と言われた。
そして今、昨日つけたばかりのリボンを外している。
切らないよう、布を傷めないよう、細い糸を1本ずつ拾っていく。
なんだかドレスまで可哀そうに思えてくる。
ブリジットが初めて店を訪れた日のことを、コレットはよく覚えている。
ベルフォード侯爵家のオスカー様と婚約したばかりの頃だった。
「お姉様も、こちらのお店を使っていたのでしょう?」
そう尋ねられて、コレットは頷いた。
「はい。クラリス様にも何度かお越しいただきました」
「どんなものを仕立てていたの?」
「仕立ては、ほとんどなさいませんでした。いつも店頭のものからお選びになっておられました」
「既製品?」
ブリジットは意外そうに店内を見回した。クラリスは、正直なところ服にはあまり興味がなさそうに見えた。夜会に着ていくものが必要だと言って訪れ、店の者がいくつか勧めると、その中から気に入ったものを選ぶ。丈や袖を直し、必要なら少し飾りを足す。それで満足して帰っていった。
「でも、クラリス様はお直しが少し大変だったんです」
妹なのだから姉のことを褒めれば喜ぶだろうと、コレットは何の気なしに続けた。
「とても腰がお細かったので。既製品ですと、腰回りはかなり詰めなければならなくて」
「……そんなに?」
「はい。とてもお姿の綺麗な方でしたから」
なぜだろう。
ブリジットの機嫌が、みるみる悪くなった。何か失礼なことを言っただろうかと考えたが、思い当たらない。ブリジットはしばらく鏡に映る自分の姿を眺めていた。
「私は仕立ててもらうわ」
「はい」
「最初から全部、私に合わせて作ってちょうだい」
それからだった。
ブリジットは頻繁に店を訪れるようになった。作るのも1着、2着ではない。しかも既製品ではなく、ほとんどが仕立てから頼まれる。それ自体はありがたい。
そして仮縫いのたびに、ブリジットは鏡の前で長い時間をかけて自分の姿を確かめた。
「もう少し、ここを細くできない?」
あるとき、ブリジットは腰のあたりを押さえて言った。
採寸を担当していた先輩職人が、鏡越しに確認する。
「これ以上詰めますと、座ったときに窮屈になるかと思います」
「でも、できるのでしょう?」
「できますが」
「なら、お願い」
結局、言われたとおりに詰めることになった。
だが次の仮縫いでは、今度は裾を広げたいと言われた。その次には胸元が寂しいと言われ、刺繍を増やした。そうして出来上がったものを見て、やはり派手すぎると言われることもあった。
女主人は上機嫌だった。
「何度も作り直してくださるなんて、仕立屋にはありがたいお客様だわ」
確かにそうなのだろう。変更するたび、糸が、布が、レースが必要になる。職人の手間も増える。その分はきちんと代金に加えられる。店としては儲かる。
実際クラリスは、店にとってそれほど金払いのいい客ではなかった。必要なものを必要なだけ買い、直すところだけ直して帰る。対してブリジットは、1着のドレスに何度も手を入れ、新しいものも次々と注文する。商売だけを考えれば、どちらがありがたい客なのかは明らかだった。
けれど、その手間を担うのはコレットたちだ。
しかもブリジットは、注文は変えても納期を変えてくれるわけではない。夜会の日は待ってくれないのだそうだ。
それなら早く決めればいいのに。
コレットはまた1本、糸を抜いた。
様子が変わったのは、いつからだろう。
ブリジットは相変わらず店へやってくる。
ただ、新しく仕立てを頼むことがなくなった。以前なら店に入るなり奥の応接室へ通され、持ってこさせた生地を次々と広げさせていた。レースを選び、刺繍の図案を選び、あれが嫌だ、これでは地味だと注文をつける。
それが今では、店頭に並んだ仕立て上がりのドレスから選ぶようになった。不機嫌を隠しもせずに。
その日もそうだった。
ブリジットは吊るされたドレスを1着ずつ眺めていたが、気に入ったものを探しているというより、欠点を探しているようにしか見えなかった。1枚見ては乱暴に奥へ押しやり、それを繰り返す。静かな店内に、衣擦れの音がやけに大きく響いた。
「うわ、地味」
コレットの手が止まりそうになるが、聞こえないふりをして手元の針を動かした。
「これも。センス悪っ」
隣にいた先輩の眉がぴくりと動いた。そのドレスを作ったのは、その先輩だった。店にはほかの客もいる。鏡の前で外套を合わせていた女性が、気まずそうにこちらを振り返った。ブリジットと一緒に来ていた侍女も、先ほどからずっと俯いている。あの人も大変だな、とコレットは思った。付き合わされて気の毒になってくる。
クラリスも、同じようにこの店頭からドレスを選んでいた。気に入らないものなら選ばなかったし、勧められたものを断ることもあった。けれど、こんなふうに商品そのものを貶すことはなかった。
「これなんて最悪。こんなの――」
「ブリジット様」
いつの間に店の奥から出てきたのか、女主人が声を掛けた。接客用の笑顔はなかった。
ドレスを守るように体を入れ、ブリジットの前に立つ。
「恐れ入りますが、今後、当店へのご来店はお断りいたします」
店の中が静まり返った。
コレットも針を持ったまま動けなくなった。
ブリジットも、しばらく意味がわからなかったらしい。
「……何ですって?」
「当店の商品ではお気に召すものがないようですので、ぜひほかのお店をご利用ください」
ブリジットの顔がみるみる赤くなった。
そこからは、ひどいものだった。
自分が誰だかわかっているのか。侯爵家を侮辱するつもりなのか。こんな店など二度と使ってやらない。皆にも伝えてやる。ただで済むと思うな。
言葉を挟む隙もなく怒鳴り続け、そのまま店を出ていった。
扉が大きな音を立てて閉まる。
勢いについていけず店内に取り残された侍女が、何度もこちらへ頭を下げ、慌ててそのあとを追っていった。
静まり返った店内で、女主人が居合わせた客たちへ向き直った。
「皆様、お騒がせして申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げる。
職人や縫い子たちも手を止めた。慌ててコレットも立ち上がり、女主人とともに頭を下げた。
胸はすっとしたが、営業を終える頃になっても、コレットの心は晴れなかった。
店内にいたほかの職人たちも同じだったらしい。
皆の視線が女主人へ集まる。
相手は侯爵家の次期当主夫人になる人だ。さすがにまずかったのではないだろうか。
ところが女主人は、何事もなかったように息を吐いた。
「大丈夫よ」
むしろ、少しほっとしたようにも見えた。
「ちょうどいい機会だったの」
話を聞けば、少し前からベルフォード侯爵家の注文の仕方が変わっていたらしい。
これまではブリジットが望むままに仕立てを引き受けていたが、今後、新しい注文については侯爵家へ事前に確認するよう連絡があったという。使える金額にも上限が設けられた。だからブリジットが店頭のドレスから選ぶようになったのも、おそらくそのためだろうと女主人は言った。
なるほど。
それなら、あの不機嫌さにも納得がいく。
納得はできるが、だからといって店の商品を罵っていい理由にはならない。
「商売をしているとね、切らなきゃいけないお客様もいるのよ」
女主人はそう言って、先ほどブリジットがセンスが悪いと言ったドレスの裾を整えた。
「お金を払ってくださるなら、何を言われても我慢しなきゃいけないわけじゃないでしょう」
コレットは目を瞬いた。
そういうものなのか。いつか自分で客のための1着を仕立てられるようになったら、覚えておいた方がいいのかもしれない。
帰り道、コレットの足取りは少し軽かった。
少なくとも、もうブリジットのために、昨日縫った糸を今日ほどくことはなさそうだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《料理店にて ニック》
王都の中心部、官庁街と貴族街の境に、夜だけ扉を開く料理店がある。
看板は小さい。通りから覗いても、磨かれた扉と店名を刻んだ真鍮の板が見えるだけだ。けれど王都で商いをする者なら、その名を知る者は多かった。貴族や高位の官僚が会食に使い、大きな商会同士の取引がまとまった夜には祝宴が開かれる。席数は多くない。料理にも酒にも手を抜かないため、基本的には予約が必要だった。
ただし、例外はある。長く店を利用している家や、頻繁に会食を開く商会のためには、急な来店にも対応できるよう席を確保している。
ニックがこの店で働き始めた頃、最初に覚えさせられたことの1つが、その家名だった。給仕長を補佐しながら、今では酒の管理も任されている。地下の貯蔵庫にある葡萄酒の銘柄と年代はほぼ頭に入っているし、常連客の好みもかなり覚えた。
だから、その夜、入口の方が騒がしくなったときにも、最初は大して気にしなかった。
客が酒を飲みすぎることもある。予約の日を間違えて訪れる者もいる。珍しいことではない。
けれど、聞こえてくる声はどうも様子が違った。
「予約など必要ない。いつ来ても席を用意するよう言ってあるはずだ」
ニックは手元の瓶を置いた。やがて入口を担当していた給仕が、困った顔で奥へやってきた。
訪れたのは若い男女だった。どちらも身なりだけを見れば、上流階級に違いない。
ベルフォード侯爵家の嫡男オスカーと、その婚約者ブリジットだという。その名を聞いて、ニックは首を傾げた。覚えがある。
ベルフォード侯爵家は、以前は特別に席を確保する家の一覧に入っていた。だが最近は見た記憶がない。確認すると、やはり名前は既に外されていた。
理由も残っている。予約を入れながら、連絡もなく来店しなかったことが1度。その後の来店でも、同家の一行が給仕に対して度を越した言動を繰り返した。そのため、ベルフォード侯爵家には、今後は通常の客と同じく予約を願いたい旨を文書で知らせてある。
しばらく前のことではあるが、知らなかったのだろうか。
支配人が対応に出た。店先で騒がれては、ほかの客に迷惑がかかる。ひとまず別室へ案内したものの、そこからも声が漏れてきた。
「以前はいつ来ても入れたじゃない!」
「だから確認してくれと言っている。ベルフォード侯爵家だぞ」
しばらくして支配人が戻ってきた。
今夜は幸い、一般の客用に1卓だけ空きがある。そこへ案内するか、今日は帰ってもらう。選択肢はその2つだけだと伝えたらしい。
2人は残ることを選んだ。
席へ案内されると、オスカーは椅子に座る前に周囲を見回した。
「ここか?」
「はい」
「人が通って落ち着かないな。もっといい席はないのか」
「本日、ご用意できるお席はこちらのみとなっております」
給仕が答える。オスカーは何か言いたそうだったが、結局椅子を引いた。
「仕方ない。座ろう、ブリジット」
「ええ」
予約なしで入った客が、用意された席に文句を言っている。ニックは何も言わず、葡萄酒を用意した。
料理が始まってからも、2人の注文は多かった。料理が遅い。皿を下げるのが早い。水が少ない。呼ばれるたびに給仕が応じた。そのうち、ニックが選んだ葡萄酒が運ばれた。オスカーは一口飲み、グラスを軽く揺らした。
「これは古くていいな。熟成を感じる」
「まあ。そうなんですか?」
ブリジットが感心したようにオスカーを見る。
「ああ。こういう酒は、若いものとは味の深みが違うんだ」
「さすがオスカー様。私、何もわからずに飲むところでしたわ」
昨年収穫された葡萄で造られた酒だった。長く寝かせる種類でもない。
ニックは何も言わなかった。酒に罪はない。
次に運ばれた肉料理でも、似たようなことがあった。給仕が皿を置くと、オスカーは肉を一口食べた。
「こういう上等な肉は、余計なものをつけずに食べるのが一番なんだ」
「そうなんですか?」
「素材がよければ、それだけで十分だからな」
「オスカー様と一緒にいると、いろいろ教えていただけて嬉しいですわ」
そこへ別の給仕がやってきた。
「お待たせいたしました。こちらがお肉のソースでございます」
一瞬、オスカーの手が止まった。
「……そこへ置いてくれ」
「かしこまりました」
給仕はソースを置いて離れていった。
しばらくして、オスカーが機嫌を直したように言った。
「君は素直でいいな」
「まあ」
「クラリスは何かというと俺に小言ばかりだった。あれでは息が詰まる」
ニックは少し離れたところで、別の客のグラスへ酒を注いでいた。
聞こうとしなくても声は届く。
「私は、オスカー様に教えていただくことばかりですもの」
ブリジットはそう言って微笑んだ。
「お姉様は昔から、何でも自分で決めてしまう方でしたから」
「そうなんだよ。俺が何を言っても、まず問題がどうだ、確認が必要だって話になる」
「正直、お姉様は少し冷たくて、人の気持ちに疎いところがありましたもの」
そこでブリジットは困ったように眉を下げた。
「でも、きっとお寂しかったのだと思います」
オスカーの顔が緩んだ。
「ブリジットは優しいな」
「そんなことありませんわ」
ニックは空になったグラスを下げた。
それからも2人の食事は続いた。
食事が終わった頃には、担当した給仕だけでなく、店中の者が少なからず疲れていた。
そして最後に、支払い書が運ばれた。
少しして、また声が上がった。
「なんだ、この金額は」
今度はニックもそちらを見た。オスカーが支払い書を手にしている。
「この程度の食事で、こんなに取るのか?」
「料金につきましては、お品書きに記載しております」
「そういうことを言ってるんじゃない。俺に恥をかかせるつもりか?」
給仕が答えに困り、支配人が呼ばれた。
支配人は支払い書を確認した。
「記載に誤りはございません」
「ベルフォード侯爵家が何年この店を使っていると思ってる」
「承知しております」
「なら、いつもどおり家に回せばいいだろう」
支配人はわずかに間を置いた。
「現在ベルフォード侯爵家につきましては、ご来店時にお支払いいただいております」
「そんな話は聞いてない」
「以前、文書にてお知らせしております」
「俺は知らない!」
オスカーが支払い書を卓へ置いた。
「いつもツケだっただろう。それができないとわかっていたなら、こんな店には来なかった」
店内が静かになっていた。
ほかの客たちは露骨にこちらを見ることこそしないが、会話の声は明らかに減っている。
支配人はしばらく黙っていた。
「かしこまりました」
オスカーが顔を上げる。
「今回のお代につきましては、ベルフォード侯爵家へ請求させていただきます」
「最初からそうすればいいんだ」
オスカーは吐き捨てるように言った。
「ただし」
支配人が続けた。
「今後、オスカー様ならびにブリジット様につきましては、ご予約の有無にかかわらず、当店ではお席をご用意いたしかねます」
「は?」
ブリジットも顔を上げた。
「何よ、それ」
「本日のご利用状況を踏まえまして、当店として判断いたしました」
オスカーの顔が赤くなった。
「ふざけるな。こんな店、二度と来るか!」
「承知いたしました」
支配人は給仕に目を向けた。ほどなく、紙とペンが運ばれてきた。
「では、その旨をご確認いただき、こちらへご署名をお願いいたします」
オスカーが黙った。
「今回のお代を侯爵家へ請求するにあたり、当店といたしましても、今後について双方の認識を明確にしておきたいと考えております」
「俺の言葉が信用できないのか」
「書面に残していただければ十分でございます」
しばらく睨みつけたあと、オスカーはペンを取った。乱暴に名前を書く。
「これでいいだろう」
「ありがとうございます」
支配人は書面を受け取り、今度はブリジットの前へ置いた。
「ブリジット様もお願いいたします」
「私も?」
「はい」
ブリジットは不満そうに唇を尖らせたが、オスカーが署名した紙を見て、結局ペンを取った。
2人が店を出ていく。
扉が閉まると、店内には少しずついつもの話し声が戻ってきた。
ニックは2人が使った卓へ向かった。
皿を重ね、グラスを下げる。
途中まで飲まれた葡萄酒が残っていた。
昨年の葡萄で造られた、若い酒だった。
ニックは瓶に栓をして、片づけるために持ち上げた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《市場にて チャーリー》
王都の朝は早い。中でも青果市場は、まだ空が白み始める前から動き出す。近隣の農村から届いた野菜や果物が荷車から次々と降ろされ、料理店や食料品店、貴族の屋敷に品を納める商人たちが、それぞれ目当ての品を見て回る。
チャーリーはそこで青果の卸を営んでいる。
父親の代から続く商売で、王都の料理店だけでなく、いくつかの貴族家にも野菜や果物を納めていた。ありがたいことに取引先も順調に増え、つい先日、新たに従業員を雇ったところだ。
その新入りが、なかなか使える。
以前は貴族の屋敷で庶務補佐をしていたらしい。荷の受け入れから各部署への連絡、足りないものがあれば仕入れ先とのやり取りまで、屋敷の中をあちこち動き回っていたという。そのせいなのか、いちいち言わなくても次に必要なことを見つけるのが早い。
今もチャーリーが馴染みの料理店の男と話している間に、届いたばかりの青菜を確かめ、傷んだ葉を除き、納品先ごとの木箱へ分け始めていた。
話を終えて戻ったチャーリーは、その手元を眺めた。
「お前、そういやベルフォード侯爵家に勤めてたって言ってなかったか?」
「そうですよ」
新入りは顔も上げずに答えた。青菜を束ね、隣の木箱へ移していく。
「なんか最近、おかしな噂が多いんだが。ってまあ、あまり話せねえかもだがな」
「いや、別に。かまわないっすよ」
今度はあっさり顔を上げた。
「僕ももう、正直危ないかなと思って出てきたんで」
「危ない?」
チャーリーは眉を上げた。
新入りが辞めたのは、まだベルフォード侯爵家について妙な話を聞くようになる前だ。
長年続いた取引先である。少なくともその頃、チャーリーのところへの支払いが滞ったことはなかった。注文も多少の増減こそあれ、特におかしいとは思わなかった。
「そんな前から何かあったのか?」
「何かっていうか」
新入りは少し考え、手にしていた青菜を置いた。
「まあ侯爵家といっても、ちゃんと働く人と、そうじゃない人がいるんですよ」
「そりゃまあ、どこだってそうだろうな」
「クラリス様は、働く人の筆頭でしたね」
チャーリーにも覚えのある名前だった。
ベルフォード侯爵家の嫡男と婚約していた令嬢だ。少し前に婚約が解消され、代わりにその妹が新しい婚約者になったと聞いている。
「執事長まで、よくクラリス様に指示を仰いでましたよ。あれどうします、これどうしますって」
新入りは次の木箱へ手を伸ばした。
庶務補佐だった彼は、屋敷の中でクラリスの姿をよく見かけた。執事長と並んで書類を覗き込んでいることもあれば、帳簿を抱えた使用人に呼び止められていることもあった。厨房から上がってきた仕入れの話を聞き、商人から届いた知らせを読んでいる姿も見た。
「侯爵家の人間でもないのにな」
「婚約者でしたからね。いずれ入る家だからって、ずいぶん頑張ってたんじゃないですか」
新入りはそこで肩をすくめた。
「なのに婚約解消して追い出しちゃったでしょう。そりゃ大変になるだろうなとは思いましたよ」
「でも、すぐには何もなかったぞ」
「そりゃそうですよ」
答えは早かった。
「クラリス様がいなくなったからって、次の日から何もできなくなるわけじゃないですから。決まってる仕事はみんなできますよ」
新入りは積み上げた木箱の数を確認し、1つを荷車の方へ運んだ。
問題は、決まっていないことだった。いつもの仕入れ先から品が入らない。予定していた使用人が病気で休む。急な客が増える。備品が足りない。去年と同じようにしていたのに、今年は同じ値段で収まらない。
そんな小さなことは、大きな屋敷では毎日のように起こる。以前なら誰かに話を上げれば、その先で判断する者がいた。ところが、その判断がなかなか下りなくなった。
待っていて困るのは現場だった。だから気づいた者が代わりを探し、別の部署に話を通し、必要なら自分で商人に掛け合った。最初は、それで済んだが、一度やれば次も回ってきた。
「指示待ってるだけの奴には見えてないことが、こっちには見えちゃうんですよ」
戻ってきた新入りが言った。
「いちいち誰かに説明して指示出すより、自分でやった方が早いし」
「それで疲れたのか」
「まあ、そんな感じです」
軽く答えて、今度は果物の箱を開ける。
チャーリーはその横顔を見た。
「じゃあ、お前が辞めた頃にはもう、使用人もどんどん辞めてたのか?」
「いや、まだそこまでじゃなかったですよ。給金も普通に出てましたし」
だからこそ、辞めるなら今だと思ったのだという。
「まあ、こう言っちゃなんですけど。まずは、できる人から辞めてくでしょうね」
「お前、随分図々しいな」
「何がです?」
「それ、自分もできる方だって言ってんのか」
「そうですよ」
迷いもなく返されて、チャーリーは思わず新入りを見た。
「自分で言うか、普通」
「雇ってみて、どうです?」
少なくとも今のところ、文句はない。
朝も早い。仕事も早い。教えたことは1度で覚えるし、手が空けば勝手に次を探す。
「……まあ、使えねえとは言わねえけどな」
「でしょう?」
「図々しいなあ、お前」
新入りは気にした様子もなく、果物を1つ手に取った。傷を見つけたらしく、別の籠へ避ける。
しばらくして、チャーリーはふと思い出した。
「でもあれだろ? 新しい婚約者がいるって話じゃねえか」
新入りの手が止まり、明らかにイヤな顔をした。
「なんでしょうね。いやすごい人ですよ。いろんな意味で」
オスカーの前でだけ、ブリジットの声は少し高くなった。
困ったように眉を下げて頼みごとをし、彼が何か言えば嬉しそうに笑う。褒められれば頬を染め、さすがです、と何度も口にした。
だが、オスカーがいなくなれば、その声は変わった。
わがまま放題にふるまい、気分で意見をコロコロ変える。そのたび周りが振り回された。
「そうだなあ。働く人の筆頭がクラリス様なら、働かない人の筆頭がブリジット様です」
真顔で言うからつい笑ってしまう。
「お前、その人のこと嫌いだろ」
「大っ嫌いですよ」
即答だった。
「クラリス様のままだったら、僕、ずっと勤めてましたよ」
その言葉だけは、少しも冗談めいていなかった。
チャーリーは手にしていた伝票を折り、腰のポケットへ押し込んだ。
「そのクラリス様は出てっちまったんだな」
「まあ、追い出されたに近い気もしますけど」
「揉めたのか?」
「いや全然」
婚約が解消された日のことは覚えている。
小さなカバンひとつのクラリスは屋敷を出る前、居合わせた使用人たちに礼を言った。
今までありがとう、と妙にさっぱりした顔をして。
「僕らひとりひとりの名前呼んで、ありがとうって言ってくれました」
「へえ」
「どこ行ったかは、よくわからないんですよね」
「実家じゃないのか?」
「違う気がしますけどね」
新入りは次の木箱を持ち上げた。
「だって、あっちは働かない妹の方の完全な味方らしいですから」
「お前、ほんっとに嫌いなんだな」
「大っ嫌いですってば」
荷車の向こうから、チャーリーを呼ぶ声がした。
振り向けば、馴染みの食料品店の主人が手を上げている。注文していた品を取りに来たらしい。
「はいはい、今行く!」
チャーリーは声を返した。
その間にも、新入りはもう次の荷を運び始めている。
空はすっかり明るくなっていた。
市場には新しい荷車が入り、あちこちから威勢のいい声が飛ぶ。
今日もまた、いつもの朝が始まっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《宿泊館にて ラウル》
王都には、貴族や裕福な商人が利用する宿泊館がいくつかある。その中でも中央広場に近いこの館は、地方から王都を訪れる貴族や、外国から来た商人がよく利用していた。
その男女が訪れたのは、日が暮れてしばらくしてからだった。
予約は入っていた。受付を担当したラウルは、宿帳と予約票を照らし合わせてから、目の前の2人を見た。
男の方は若く、整った顔立ちをしている。身なりも悪くない。ただ、どこか軽薄そうな印象があった。
何がそう思わせるのかと聞かれれば困る。髪型か、立ち方か、それとも口元に浮かべた笑みのせいか。
連れの女は地味な旅人用のケープを羽織り、フードを深くかぶっていて、ほとんど顔を見せようとしない。淡い桃色の髪がフードからこぼれている姿が印象的だった。
男に話しかける声は妙に甘いのに、聞き入れられないと苛立ちの混じった低い声になる。
その切り替わりも印象に残った。
数日滞在するのだろうかと思うほどの荷物だったが、予約は1泊だけだった。それも珍しいことではない。受付を済ませ、鍵を渡すと、2人はそのまま階段を上がっていった。
それだけだった。
翌朝、偶然にもチェックアウトを担当したのもラウルだった。若い男の方は、昨夜となんら変わらなかった。落ち着いた様子で会計を済ませ、忘れ物がないかを確認している。一方、女は何度も入口を振り返り、会計の途中にも男を急かした。
「早くしてよ」
明らかに苛立っているようだったが、男が何か短く返すと、今度は口を尖らせて黙り込んだ。
妙な2人だとは思ったが、変な客などいくらでもいる。2人が出ていったあと、次から次へと新しい客の対応に追われる。
だからその日のうちにほとんど忘れていた。
数日後。
制服を着た王都警備隊の男が2人、宿泊館を訪れた。責任者が呼ばれ、やがてあの男女の受付を担当した者として、ラウルも同席を求められた。
あの若い男女についてだった。
最初に確認されたのは宿帳だった。予約をした者の名前。人数。到着時刻。出発時刻。支払い方法。
2人はどういう関係に見えたか。荷物はどれほどあったか。どこから来たのか、どこへ行くと言っていたのか。
ほぼ忘れていたが、なんとか覚えていることを順番に答えると、1枚の紙が卓の上に置かれた。
若い女の顔が描かれていた。
「正直、分かりません。お顔を見ておりませんので。髪の色は似ているようです、としか」
警備隊の男が長く息をつく。
何があったのか尋ねると、少し間を置いてから教えられた。
王都の外で、若い女性の遺体が発見されたのだという。損傷が激しく、死亡した状況については現在調べているところらしい。
そして、身元を確認した結果、ベルフォード侯爵家の嫡男オスカーの婚約者、ブリジット嬢である可能性が極めて高いという。
思わず、卓の上の絵を見直した。ベルフォード侯爵家といえば最近、王都で何かと噂になっている家だ。
「一緒にいた男性について、覚えていることをできるだけ詳しくお願いします」
思い出せる限りを答えたものの、短い時間のことでもあり、細かなところまでは覚えていなかった。
2人の様子についても聞かれたが、仲が悪かったようには見えない、としか答えられない。警備隊の2人は宿帳の内容を書き写し、必要があればまた話を聞きに来ると告げて帰っていった。
見送ってから、受付へ戻った。卓の向こうには、さっきまでと同じ玄関が見える。
ふと物思いにふけりそうになるが、ちょうど扉が開いて、大きな鞄を持った男が入ってきた。
「予約しているんですが」
ラウルは台帳を取り出した。
「お名前をお願いいたします」
いつもと同じ仕事が、また始まった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《取調室にて ヨウヒム》
取調室の机の上には、いくつもの宝飾品が並べられていた。
首飾りに指輪、腕輪、耳飾り。小さな髪飾りもある。ヨウヒムは手元の書類から顔を上げ、向かいに座る男を見た。
「だから俺が盗んだんじゃない。あの女が持ってきたんだ」
「ブリジット嬢が?」
「そうだよ」
男は机の上の宝飾品を顎で示した。
「最初から持ってたんだ。もっとあったよ。売ったのもある」
男が捕まったのは今朝のことだった。
王都から少し離れた町で、宝飾品を売ろうとしていたところを見つかった。すでにブリジットと、彼女と行動をともにしていた男の特徴は周辺の町にも知らせが回っていた。
宝飾品のいくつかは、ベルフォード侯爵家が所有するものだと確認されている。
そして、ブリジットと思われる女性はすでに遺体で発見されている。
疑われるのも当然だった。
「ブリジット嬢とは、いつ知り合ったんです?」
「ひと月くらい前だよ」
男は面倒そうに答えた。
知り合ったのは王都の宝飾店だったという。男はその店に品物を届けに来ていた。そこへブリジットが、ベルフォード侯爵家の使用人を連れてやってきた。最初に声をかけたのは男の方だった。何度か顔を合わせるうちに、話をするようになった。
「ベルフォード侯爵家の婚約者だと知っていましたか」
「もちろん。自慢げだったしな」
悪びれた様子はない。ブリジットはよくオスカーの話をした。以前は何でも買ってくれたのに、最近は金のことばかり言う。うんざりする。こんなはずではなかった。
そんな話を、男は何度も聞かされたという。
「それで、あなたはなんと?」
「俺ならそんな思いさせないのに、なぁんて言ったかもな。まあ、礼儀だろ?」
ヨウヒムは何も言わず、ペンを動かした。
やがてブリジットの方から、王都を出たいと言い出した。
こんな家にはいたくない。あなたと一緒にやり直したい。お姉さまが何とかしてくれる。自分には財産だってある。
「財産というのは、これですか?」
ヨウヒムが机の上を示す。
「俺はそう思ったよ」
決めた日のブリジットは、大きな荷物をいくつも持って現れた。気分が悪いと言って部屋にこもり、その隙に屋敷を抜け出してきたらしい。そして男に、首飾りや指輪、腕輪を見せた。
これだけあれば当分困らないでしょ。そう機嫌よく笑っていたという。自分がもらったものなのだから好きにしていい。そう言われて、男も深くは聞かなかった。
「ベルフォード侯爵家の所有物が含まれているとは知らなかった?」
「知らないよ。あいつは全部自分のものだって言ったんだ」
2人はあらかじめ予約していた中央広場近くの宿泊館に1泊し、翌朝早く王都を出た。
最初はよかった。だが、宝飾品を売ったあたりから雲行きが怪しくなった。
「安物ばっかりだったんだよ」
ブリジットは、そんなはずはないと言った。
オスカーから贈られたものだ。侯爵家の人間から贈られたものが、そんな値段のはずがない。
そう言って他の店も回ったが、結果は同じだった。
「それで揉めた?」
「それだけじゃない」
男は吐き捨てるように言った。
泊まる宿が気に入らない。食事が気に入らない。馬車に乗りたい。男が金がないと言えば、どうにかしろと言われた。
「もう面倒くさくて。だから置いてった」
「どこに?」
「町だよ。宿もあるし、食堂もある。人だっていた。何もない街道の真ん中に捨てたわけじゃない」
「宝飾品は?」
男は黙った。机の上に並んだ品々を見た。
「迷惑料としてもらったんだよ。人の金、当たり前に使いやがって」
「だから持っていった?」
「……そうだよ」
「ブリジット嬢の了承を得て?」
返事はなかった。ヨウヒムはペンを置いた。
「ブリジット嬢を置いていったという日時を、もう一度お願いします」
男は答えた。
遺体が発見された時刻と照らし合わせるため、すでに何度も確認している時刻だった。
「そのとき、彼女は?」
「怒鳴ってた。すげえ顔してた。なんであんなの、一瞬でもかわいいと思ったかな。俺のこと追いかけてきて、返せって。人も見てた。調べれば分かるだろ」
「調べています」
「じゃあ分かるだろ。俺はやってない」
「それを確認するために話を聞いています」
男は舌打ちして、また椅子の背にもたれた。
ヨウヒムは机の上の宝飾品に目を落とした。
「では、最初に宝飾品を売った店について、もう一度確認します」
「またかよ」
「店の場所からお願いします」
男は大きく息を吐いた。
取調べは、まだしばらく終わりそうになかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《金融商会にて ハロルド》
ハロルドは、机の上に広げられた書類をもう一度確認した。
ベルフォード侯爵家が王都と領地で手がけている事業の一覧。それぞれの収支。借入金。所有する土地や建物。今後3年の見込み。そのほかにも、ここ数週間で整理されたらしい資料が積まれている。
向かいに座るベルフォード侯爵は、黙ってそれを待っていた。
「確認させていただきます。北部の製材事業については、売却でお話を進めていると」
「ああ。すでに買い手とは話を始めている」
「こちらの染色工房は?」
「閉じる。設備と建物は売却する。職人には別の工房を紹介しているところだ」
ハロルドは書類に目を戻した。
ベルフォード侯爵家との付き合いは長い。
ハロルドがこの金融商会に入るよりも、ずっと前からの顧客だ。
かつてなら、ベルフォード侯爵家から融資の申し入れがあれば、ここまで細かな資料を求めることはなかった。侯爵家の名と所有する土地。それだけでも十分な信用があった。
だが、今回は違う。
「残される事業についても拝見しました。こちらは、いずれも現状では利益が出ています」
「ならば手放す理由はない」
「私どもも同意見です」
侯爵は頷いた。
ここしばらく、ベルフォード侯爵家についてはよくない噂が続いている。取引の縮小。使用人の退職。嫡男とその婚約者の派手な浪費。そして、その婚約者は数日前に屋敷から姿を消した。
今朝になって、王都の外で発見された遺体が彼女ではないかという話まで入ってきている。
噂だけなら、ハロルドも聞き流しただろう。
金融商会が見るのは噂ではなく数字だ。その数字が、ベルフォード侯爵家がこれまでと同じではいられないことを示していた。
「今回ご希望の融資額ですが、この計画どおりに整理が進めば、返済に問題はないと判断しています」
「そうか」
「ただし」
ハロルドは一度言葉を切った。
「これまでと同じ条件では、お受けできません」
「承知している」
返事は早かった。ハロルドはわずかに顔を上げた。
「担保についても、こちらからお願いした範囲でご用意いただくことになります」
「ああ」
「今後、事業ごとの収支についても定期的にご報告をお願いすることになるかと」
「構わない」
侯爵は表情を変えなかった。
「信用を落としたのはこちらだ。当然だろう」
ハロルドは一礼して、次の書類を手に取った。今回の融資は、ベルフォード侯爵家のこれまでの損失を埋めるためだけのものではない。事業を整理するにも金がいる。従業員への支払いもあれば、契約を終えるための費用もある。売却が決まっていても、代金が入るまでには時間がかかる。
その間をつなぐための資金だった。
しばらく書類を確認してから、別の紙を取り出す。
「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「以前いただいた資料と比較しますと、1年ほど前から収支が改善している事業がいくつかあります。ところが、数か月前を境に再び数字が悪化している」
侯爵の目が、ハロルドの手元へ向いた。
「何か理由が?」
しばらく返事はなかった。
「クラリス嬢だ」
やがて侯爵が言った。
「息子の婚約者だった令嬢が、ずいぶん手を入れてくれていた」
「ご令嬢が?」
「ああ」
侯爵は短く息を吐いた。
「領地から上がってくる報告に目を通し、無駄な支出を見つけ、商人との契約も調べていた。私も報告は受けていたが、あれほど多くのことを彼女が支えていたとは知らなかった」
婚約が解消され、クラリスが屋敷を去った。彼女が整えたやり方は残っていたため、すぐに何かが起きたわけではなかった。だが少しずつ、数字に綻びが現れ始めた。
「私の責任でもある」
侯爵が言った。
「いずれ息子の妻になるのだからと、任せていた。うまく回っているのを見て、それでよしとしていた」
ハロルドは黙って聞いた。
「息子が婚約を解消したときも、女同士の問題だと思った」
侯爵はそこで苦い顔をした。
「愚かだったな。失ったものが何だったのか、数字を見てようやく分かった」
机の上には、その数字が並んでいる。ハロルドは次の書類へ目を移した。
「では、今後についてですが」
「ああ」
話は続いた。売却する事業。残す事業。返済期間。担保。王都邸と領地の維持に必要な費用。
ひとつずつ確認していく。
やがて、ハロルドは最後の資料を閉じた。
「こちらの内容であれば、正式な審査に回せます」
「頼む」
侯爵が立ち上がりかけたところで、ハロルドは迷った。
聞くべきかどうか。だが、今後の信用に関わる以上、確認しないわけにもいかない。
「もう1点だけ」
侯爵が座り直した。
「ご嫡男については、今後もベルフォード侯爵家の事業に関わられるのでしょうか」
「いや」
今までで一番短い返事だった。
「オスカーは廃嫡する」
ハロルドは思わず侯爵を見た。
「すでに手続きを進めている。後継についても別に考えている」
「そうですか」
「王都にも置かない」
侯爵は淡々と続けた。
「しばらく領地を離れた場所で療養させる」
療養。
ハロルドはその言葉について何も尋ねなかった。
「承知いたしました」
侯爵は今度こそ席を立った。扉の前で、一度だけ振り返る。
「ハロルド」
「はい」
「以前と同じ信用を寄越せとは言わん」
侯爵は言った。
「だが、いずれ取り戻す」
それだけ言って、部屋を出ていった。
ハロルドは閉じた扉をしばらく見ていた。
やがて机へ戻り、ベルフォード侯爵家と書かれた書類をまとめる。以前なら、その名だけで十分だった。今はもう違う。だからこそ、これからは中身を見る。
ハロルドは融資審査に必要な書類を揃え、次の部署へ回すため席を立った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《王都大通りにて》
昼を少し過ぎたころ、王都の大通りで1台の馬車が止まった。
通りを歩いていた者が何人か振り返った。
中から何か言い争うような声が聞こえ、続いて大きな音がした。
扉が開き、男が転がるように降りてくる。
身なりは悪くなかった。少なくとも、少し前までは上等だったのだろう。
けれど髪は乱れ、上着もひどく皺になっていた。
「ふざけるな!」
男は叫んだ。
「俺が何をしたんだよ!」
大通りの向こうまで届きそうな声に、通行人の足が止まる。
「俺はベルフォード侯爵家の嫡男だぞ!」
その名に、今度ははっきりと何人かが反応した。
少し離れたところで荷車を確認していたチャーリーも顔を上げた。
「なんで俺がそんな田舎に行かなきゃいけないんだよ! 父上に言えよ! 俺は納得してないって!」
御者が宥めるように近づき、何か言った。
それがオスカーをさらに興奮させたらしい。
「知るかよ! 俺は病気じゃない!」
通りの端に、少しずつ人が集まり始めた。
その中にコレットもいた。
卸問屋へ納期の確認に行った帰りだった。
ベルフォード侯爵家と聞いて足を止めたものの、騒いでいる男に見覚えはない。
ブリジットの婚約者だった男だろうか。
そう思って顔を見たが、それ以上の感慨は湧かなかった。
店に戻らなければならない。
コレットは人垣を離れた。
野菜を積んだ荷車のそばでは、チャーリーが眉をひそめていた。
新入りが勤めていたベルフォード侯爵家の嫡男というのは、あれだろうか。
うるせえな。
そう思いながら、荷車へ視線を戻す。
集まり始めた人々に気づいたのか、オスカーが周囲を見回した。
馬車へ戻そうとする御者の手には逆らっていたが、先ほどまでの勢いが少しずつ失われていく。
「なあ、クラリスを呼んでくれよ」
今度は、さっきよりも小さな声だった。
「頼むよ。クラリスなら分かってくれるから。また婚約すればいいだろ」
近くにいた者たちが顔を見合わせた。
その視線が気に障ったのか、オスカーが突然声を荒らげる。
「見るなよ! 見てんなよ、平民が!」
人垣の向こうでは、ニックが店へ向かって歩いていた。
聞き覚えのある声だった。
一度だけそちらを見たが、足を止めるほどのことでもない。
仕事の時間が近い。
ニックはそのまま通り過ぎた。
馬車から、従者らしい男がもう1人降りてきた。
道端に座り込んだオスカーのそばへ行き、何かを告げる。
オスカーはゆっくりと首を横に振った。
何度も、何度も。
「嫌だ。俺は行かない」
もう怒鳴ってはいなかった。
「なんで俺が行かなきゃいけないんだよ」
従者は何かを答えた。
「クラリスを呼んでくれよ」
誰に言っているのかも分からなかった。
「頼むから。クラリスを呼んでくれ。俺、ちゃんとするから」
声が震えた。
「今度はちゃんとするから」
オスカーは泣いていた。
先ほどまで騒がしかった通りが、妙に静かに感じられた。
オスカーは泣きながら顔を上げた。大勢の人間に見られているのが恥ずかしかった。それでも、これだけの人がいるのなら、もしかしたら誰かが助けてくれるかもしれない。
だが、いつの間にか人垣は崩れ、立ち止まって見ている者は、もうまばらだった。
従者に腕を取られ、オスカーは立ち上がった。抵抗する力もなくなったのか、よろめくように馬車へ向かう。
「俺は悪くない」
小さな声が聞こえた。
「俺は悪くないのに」
何度も繰り返しながら、馬車へ戻っていく。やがて扉が閉まった。
馬車が動き出す。
入れ替わるように通りへやってきた誰かが、何の騒ぎだったのかと尋ねた。
けれど、その場に残っていた者で事情を知る者はいなかった。
商人の呼び声が戻り、荷車が行き交い始める。
大通りは少しずつ、いつもの騒がしさを取り戻していった。
ベルフォード侯爵家の馬車は、もう見えなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《教会にて エマ》
教会の庭には、朝から長いテーブルが出されていた。洗ったばかりの白い布をかけ、その上に皿を並べる。
慰問の日の今日、エマは朝から手伝いに来ていた。
門の方がにぎやかになった。到着されたらしい。耳の早い子どもたちが何人か走っていく。エマは残った菓子を皿に並べてから、そちらを見た。
1人の女性が歩いてきた。
派手ではない淡い色の服に、小さな帽子。
最初は誰なのかわからなかった。
けれど、子どもに呼び止められて足を止め、しゃがみ込んだ横顔を見て、エマは目を見開いた。
クラリスだった。
以前より少しだけ日に焼け、髪型も変わっている。それでも、子どもと目の高さを合わせて話す姿は変わらなかった。子供たちに何か言われたのか、クラリスが笑った。それだけで、なんだか嬉しくなった。
やがてクラリスもこちらに気づき、まっすぐ近寄ってきた。
「エマ」
名前を呼ばれた。
「お久しぶりです、クラリス様」
「本当ね。パン屋さんのお仕事はどう?」
エマは思わず笑ってしまった。
「続いてます。最近は少しだけ、焼く方もやらせてもらえるようになったんです」
「まあ」
クラリスが嬉しそうに笑った。
そのとき、1人の男性がこちらへ歩いてきた。背が高く、日に焼けている。がっしりとした体つきに飾り気のない服装で、王都ではあまり見かけない雰囲気の男性だった。子どもにぶつかられそうになると、持っていた包みをひょいと持ち上げて避け、それから笑って道を譲った。
男性は抱えていた包みをクラリスに見せ、どこへ置けばいいのか尋ねた。クラリスが庭の奥を指すと
男性は頷き、それからエマにも軽く頭を下げた。
「夫です」
そう紹介したクラリスの頬が、ほんの少し赤くなった。
エマは慌てて頭を下げた。男性が笑った。どうやら、堅苦しい挨拶をするような人ではないらしい。
2人で焼き菓子を皿に並べ始めると、すぐに子どもたちが集まってきた。
クラリス様。
クラリス様。
あちらこちらから呼ばれる。クラリスはそのたびに顔を上げ、名前を呼び返した。
覚えている子もいた。
知らない子には名前を尋ねている。
エマは隣で菓子を並べながら、その様子を見ていた。クラリスが来なくなってから、ずいぶん経った。
いろいろあったのだろう。何があったのか、エマは知らない。聞こうとも思わなかった。
ただ、ふと思った。
クラリス様は、こんなに綺麗な方だっただろうか。
もちろん、以前から綺麗な方だった。顔立ちが変わったわけでもない。髪型のせいだろうか。少し日に焼けたからだろうか。それとも、久しぶりに会ったから、そう見えるだけなのかもしれない。
エマにはよくわからなかった。
ただ、お元気そうでよかった。
エマは空になった籠を持ち上げた。庭の向こうでは、クラリスの夫が子どもたちに囲まれて、なにやら困っている。それを見つけたクラリスが、笑いながら歩いていく。
エマも次の仕事へ向かった。
今日は、いい日になりそうだった。
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