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氷の公爵と、棄てられた聖女もどき  作者: 芦名 雅


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9/10

第9話 想いの在り処

王都での騒動が一段落した夜。

クロエは宿の窓辺に立ち、街の灯りを眺めていた。

以前は、王都こそ世界のすべてだと思っていた。

王宮。

神殿。

社交界。

そこで評価されなければ、自分には価値がないと思い込んでいた。

今は違う。

明日には北へ帰る。

財務室の机。

市場のパン屋。

オズワルドの小言。

役人たちの山積みの書類。

雪の積もる中庭。

そして――。

名前を思い浮かべただけで、胸の奥が静かに温かくなる人がいる。

仕事の相談をすれば必要以上に真剣に聞き、食事を忘れれば怒り、笑えば一瞬だけ目を細める。守ったつもりはないと言いながら、何度も隣に立ってくれた人。

王都を離れるのが嬉しい理由の中に、その人の存在があまりにも自然に混ざっていることに、クロエはもう気づいていた。

扉が叩かれた。

「どうぞ」

入ってきたのはジークハルトだった。

「眠れないのか」

「少しだけ」

「またか」

「王都に来る前とは理由が違います」

「何だ」

「肩の荷が下りすぎて、落ち着かないのです」

ジークハルトが小さく息を吐く。

「変な女だな」

「閣下にだけは言われたくありません」

自然に返せた。

半年ほど前なら、公爵にそんな口を利くなど考えられなかった。

二人は窓辺の小さなテーブルを挟んで座る。

しばらく沈黙が続いた。

気まずくはない。

クロエは、この人となら沈黙していても平気だった。

何かを言わなければならないと焦らなくていい。

「……ありがとうございます」

「何度目だ、それ」

「今日は、全部まとめてです」

「いらない」

「受け取ってください」

「断る」

「では勝手に申し上げます」

クロエは笑った。

「婚約破棄の夜、名刺をくださったこと。仕事をくださったこと。わたくしの能力を見つけてくださったこと。噂から守ってくださったこと。王都まで同行してくださったこと」

「守ったつもりはない」

「また、それですか」

ジークハルトが黙る。

クロエは少し真面目な顔になった。

「閣下がいなければ、わたくしはたぶん修道院へ行っていました」

「それでも、お前なら何か見つけただろう」

「どうでしょう」

「見つける」

断定だった。

「なぜ、そう思われるのです?」

ジークハルトは答えない。

珍しく視線を逸らす。

「閣下?」

「クロエ」

その夜、彼は何の用件も添えず、ただ名前だけを呼んだ。

いつもなら命令か注意が続くはずなのに、今は違う。その響きだけで、心臓が跳ねた。

「はい」

「最初にお前を公爵領へ呼んだとき、打算があった」

「打算?」

「有能な人材が欲しかった」

あまりに彼らしい。

クロエは思わず笑いそうになった。

「やはり、慈善ではなかったのですね」

「言っただろう」

「はい」

「だが、今はそれだけではない」

「今はそれだけではない」。その短い言葉だけで、これまで「合理的だから」と片づけられてきたものが、急に別の意味を帯びた。夜更けの茶も、食事を忘れたときの小言も、市場でふと向けられた視線も。

クロエは膝の上で指を組んだ。公聴会よりも緊張している自分に気づき、少し可笑しくなる。相手は一人しかいないのに、大勢の貴族の前に立ったときより逃げたくなる。

けれど逃げたくないとも思った。この人が何を言おうとしているのか、最後まで聞きたい。

空気が変わった。

ジークハルトがまっすぐクロエを見る。

逃げ場がなくなるほど真剣な目だった。

「お前が聖女という仮面を脱いで、自分の力で立ち上がっていくのを見ていた」

クロエは息を止める。

「失敗すれば悔しがり、数字が合えば笑う。市場の菓子を食べているときは妙に嬉しそうで、仕事を始めると食事を忘れる」

「最後は褒めていませんよね」

「黙って聞け」

「はい」

「そういうお前を見ているうちに、いつからか……」

ジークハルトが言葉を探す。

氷の公爵が、言葉に詰まっている。

それだけで胸がいっぱいになった。

「惹かれていた」

言葉が落ちたあと、部屋の静けさが急に深くなった。外ではまだ王都の馬車の音がしているのに、そのすべてが遠い。

彼が挙げたのは、肩書きではなく、誰にも褒められないような自分の癖や、暮らしの中の小さな表情ばかりだった。

その一つ一つを覚えていること自体が、ずっと自分を見ていた証なのだと分かる。

「聖女だからではない。元王太子妃候補だからでもない。財務の能力だけでもない」

ジークハルトは、逃げずに言葉を重ねた。

「クロエ、お前自身が好きだ」

視界が滲んだ。

クロエは慌てて目元を押さえる。

「……ずるいです」

「何がだ」

「わたくし、今日もう十分泣いたのに」

「泣かせるつもりはなかった」

「では、どういう反応を期待していたのです?」

「……分からない」

それが可笑しくて、クロエは泣きながら笑った。

「わたくしも」

声が震える。

「わたくしも、閣下のお傍にいる時間が、いつしか何より大切になっていました」

ジークハルトの目がわずかに見開かれる。

「最初は怖い方だと思っていました」

「そうか」

「今も少し怖いです」

「……そうか」

「でも、それ以上に」

クロエは笑う。

「不器用で、優しくて、誰より人をよく見ている方だと知りました。それに――わたくしが『自分の好きなものを見つけたい』と言ったとき、笑わずに『そうしろ』と仰ってくださいましたね」

「あのとき初めて、自分の望みを持ってもいいのだと、心から思えたのです」

「だから、わたくしも……ジークハルト様が好きです」

言い切ったあと、クロエの方が恥ずかしくなって視線を落とした。

すると、テーブルの上に置いていた手へ、ジークハルトの指先がそっと触れた。戦場で剣を握る人の手は大きく、少し硬い。けれど触れ方は驚くほど慎重だった。

クロエが手を引かなかったことを確認してから、彼はゆっくりその手を包んだ。

クロエは一瞬だけ迷い、それから自分の方から指を絡めた。ジークハルトの指が、答えるようにわずかに強く返ってくる。

言葉はなかった。それでも、重なった手の温度だけで十分だった。

ジークハルトが片手で顔を覆った。

「閣下?」

「……そういうことを平然と言うな」

「告白してきたのは閣下ですよ」

「俺は必要なことしか言っていない」

「では、わたくしも必要なことを申し上げただけです」

クロエは微笑んだ。

二人の間に、これまでとは違う静けさが流れる。

恋人になったという実感は、まだ輪郭のないものだった。

ただ、明日からも同じ場所へ帰り、同じ日々の続きをこの人と歩ける。そのことが、とても嬉しかった。

「クロエ」

「はい」

「帰るぞ」

「どこへ?」

ジークハルトは当然のように答えた。

「アルディアへ」

その言葉を聞いた瞬間、クロエは気づいた。

自分にとって、あの北の公爵領はもう「滞在先」ではない。

帰る場所になっていた。

そして今、その帰る場所には、自分を待つ仕事だけでなく、隣を歩きたいと思える人がいる。

王都へ来るとき、クロエは過去に決着をつけるために馬車へ乗った。帰りは、これから始まるもののために北へ戻る。

同じ街道なのに、窓の外は来たときより少し明るく見えた。


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