第9話 想いの在り処
王都での騒動が一段落した夜。
クロエは宿の窓辺に立ち、街の灯りを眺めていた。
以前は、王都こそ世界のすべてだと思っていた。
王宮。
神殿。
社交界。
そこで評価されなければ、自分には価値がないと思い込んでいた。
今は違う。
明日には北へ帰る。
財務室の机。
市場のパン屋。
オズワルドの小言。
役人たちの山積みの書類。
雪の積もる中庭。
そして――。
名前を思い浮かべただけで、胸の奥が静かに温かくなる人がいる。
仕事の相談をすれば必要以上に真剣に聞き、食事を忘れれば怒り、笑えば一瞬だけ目を細める。守ったつもりはないと言いながら、何度も隣に立ってくれた人。
王都を離れるのが嬉しい理由の中に、その人の存在があまりにも自然に混ざっていることに、クロエはもう気づいていた。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのはジークハルトだった。
「眠れないのか」
「少しだけ」
「またか」
「王都に来る前とは理由が違います」
「何だ」
「肩の荷が下りすぎて、落ち着かないのです」
ジークハルトが小さく息を吐く。
「変な女だな」
「閣下にだけは言われたくありません」
自然に返せた。
半年ほど前なら、公爵にそんな口を利くなど考えられなかった。
二人は窓辺の小さなテーブルを挟んで座る。
しばらく沈黙が続いた。
気まずくはない。
クロエは、この人となら沈黙していても平気だった。
何かを言わなければならないと焦らなくていい。
「……ありがとうございます」
「何度目だ、それ」
「今日は、全部まとめてです」
「いらない」
「受け取ってください」
「断る」
「では勝手に申し上げます」
クロエは笑った。
「婚約破棄の夜、名刺をくださったこと。仕事をくださったこと。わたくしの能力を見つけてくださったこと。噂から守ってくださったこと。王都まで同行してくださったこと」
「守ったつもりはない」
「また、それですか」
ジークハルトが黙る。
クロエは少し真面目な顔になった。
「閣下がいなければ、わたくしはたぶん修道院へ行っていました」
「それでも、お前なら何か見つけただろう」
「どうでしょう」
「見つける」
断定だった。
「なぜ、そう思われるのです?」
ジークハルトは答えない。
珍しく視線を逸らす。
「閣下?」
「クロエ」
その夜、彼は何の用件も添えず、ただ名前だけを呼んだ。
いつもなら命令か注意が続くはずなのに、今は違う。その響きだけで、心臓が跳ねた。
「はい」
「最初にお前を公爵領へ呼んだとき、打算があった」
「打算?」
「有能な人材が欲しかった」
あまりに彼らしい。
クロエは思わず笑いそうになった。
「やはり、慈善ではなかったのですね」
「言っただろう」
「はい」
「だが、今はそれだけではない」
「今はそれだけではない」。その短い言葉だけで、これまで「合理的だから」と片づけられてきたものが、急に別の意味を帯びた。夜更けの茶も、食事を忘れたときの小言も、市場でふと向けられた視線も。
クロエは膝の上で指を組んだ。公聴会よりも緊張している自分に気づき、少し可笑しくなる。相手は一人しかいないのに、大勢の貴族の前に立ったときより逃げたくなる。
けれど逃げたくないとも思った。この人が何を言おうとしているのか、最後まで聞きたい。
空気が変わった。
ジークハルトがまっすぐクロエを見る。
逃げ場がなくなるほど真剣な目だった。
「お前が聖女という仮面を脱いで、自分の力で立ち上がっていくのを見ていた」
クロエは息を止める。
「失敗すれば悔しがり、数字が合えば笑う。市場の菓子を食べているときは妙に嬉しそうで、仕事を始めると食事を忘れる」
「最後は褒めていませんよね」
「黙って聞け」
「はい」
「そういうお前を見ているうちに、いつからか……」
ジークハルトが言葉を探す。
氷の公爵が、言葉に詰まっている。
それだけで胸がいっぱいになった。
「惹かれていた」
言葉が落ちたあと、部屋の静けさが急に深くなった。外ではまだ王都の馬車の音がしているのに、そのすべてが遠い。
彼が挙げたのは、肩書きではなく、誰にも褒められないような自分の癖や、暮らしの中の小さな表情ばかりだった。
その一つ一つを覚えていること自体が、ずっと自分を見ていた証なのだと分かる。
「聖女だからではない。元王太子妃候補だからでもない。財務の能力だけでもない」
ジークハルトは、逃げずに言葉を重ねた。
「クロエ、お前自身が好きだ」
視界が滲んだ。
クロエは慌てて目元を押さえる。
「……ずるいです」
「何がだ」
「わたくし、今日もう十分泣いたのに」
「泣かせるつもりはなかった」
「では、どういう反応を期待していたのです?」
「……分からない」
それが可笑しくて、クロエは泣きながら笑った。
「わたくしも」
声が震える。
「わたくしも、閣下のお傍にいる時間が、いつしか何より大切になっていました」
ジークハルトの目がわずかに見開かれる。
「最初は怖い方だと思っていました」
「そうか」
「今も少し怖いです」
「……そうか」
「でも、それ以上に」
クロエは笑う。
「不器用で、優しくて、誰より人をよく見ている方だと知りました。それに――わたくしが『自分の好きなものを見つけたい』と言ったとき、笑わずに『そうしろ』と仰ってくださいましたね」
「あのとき初めて、自分の望みを持ってもいいのだと、心から思えたのです」
「だから、わたくしも……ジークハルト様が好きです」
言い切ったあと、クロエの方が恥ずかしくなって視線を落とした。
すると、テーブルの上に置いていた手へ、ジークハルトの指先がそっと触れた。戦場で剣を握る人の手は大きく、少し硬い。けれど触れ方は驚くほど慎重だった。
クロエが手を引かなかったことを確認してから、彼はゆっくりその手を包んだ。
クロエは一瞬だけ迷い、それから自分の方から指を絡めた。ジークハルトの指が、答えるようにわずかに強く返ってくる。
言葉はなかった。それでも、重なった手の温度だけで十分だった。
ジークハルトが片手で顔を覆った。
「閣下?」
「……そういうことを平然と言うな」
「告白してきたのは閣下ですよ」
「俺は必要なことしか言っていない」
「では、わたくしも必要なことを申し上げただけです」
クロエは微笑んだ。
二人の間に、これまでとは違う静けさが流れる。
恋人になったという実感は、まだ輪郭のないものだった。
ただ、明日からも同じ場所へ帰り、同じ日々の続きをこの人と歩ける。そのことが、とても嬉しかった。
「クロエ」
「はい」
「帰るぞ」
「どこへ?」
ジークハルトは当然のように答えた。
「アルディアへ」
その言葉を聞いた瞬間、クロエは気づいた。
自分にとって、あの北の公爵領はもう「滞在先」ではない。
帰る場所になっていた。
そして今、その帰る場所には、自分を待つ仕事だけでなく、隣を歩きたいと思える人がいる。
王都へ来るとき、クロエは過去に決着をつけるために馬車へ乗った。帰りは、これから始まるもののために北へ戻る。
同じ街道なのに、窓の外は来たときより少し明るく見えた。




