第10話 選ばれる者
王都での公聴会から数か月。
その間に、クロエは財務補佐から正式な財務官へ昇任していた。推薦したのはジークハルトだが、任命を後押ししたのは彼一人ではない。財務局の役人たちが連名で、「実務上、すでにその役目を果たしている」と署名したのだ。
肩書きだけで価値を決められてきたクロエにとって、その昇任が嬉しかったのは肩書きが増えたからではない。毎日の仕事を見てきた人々が、仕事そのものを認めてくれたからだった。
恋人になったからといって、二人の毎日が劇的に変わったわけではなかった。朝になれば書類が積まれ、会議では意見がぶつかる。クロエが無理をすればジークハルトが止め、ジークハルトが一人で抱え込めばクロエが資料を奪う。
変わったことがあるとすれば、仕事の終わりに同じ茶を飲む時間が増えたことと、誰もいない廊下ですれ違うとき、ほんの一瞬だけ手が触れるようになったことくらいだ。その不器用な変化を、クロエは気に入っていた。
春を迎えたアルディア公爵領は、雪解け水の音に満ちていた。
街道沿いには新しい商店が増え、市場には南方からの商人も目立つようになった。
クロエが提案した共同倉庫制度は近隣領地からも問い合わせが相次ぎ、財務室では連日、他領への説明資料作成に追われている。
「クロエ様、こちらの書類に署名を」
「はい」
「こちらも」
「はい」
「それと商業組合から面会依頼が」
「午後三時なら」
「鉱山局からも」
「明日にしてください」
仕事は増えた。
けれど、嫌ではなかった。
王都ではいつも「聖女候補クロエ」と呼ばれていた。
今では、公爵領で「財務官クロエ」と呼ばれることも増えた。
最近は王都の新聞が勝手に「北方の才媛」と書き立て始めた。
クロエ自身は、そのどの呼び名にも少し距離を置くようにしている。
肩書きは便利だ。
けれど、肩書きが自分の全部になってはいけない。
それを身をもって知ったからだ。
イレーネの件も決着した。
正式調査の結果、彼女自身は奇跡の偽装計画を知らなかったことが認められ、聖女認定は取り消されたものの処罰は受けなかった。
彼女は王都を離れ、神殿の治癒院で働き始めたと聞く。
少し前、イレーネから短い手紙が届いた。
『奇跡は起こせません。でも、包帯を替えることや薬を運ぶことならできます。最初はそれが惨めでした。でも今は、目の前の人が少し楽になるなら、それでもいいと思えるようになりました』
最後には、もう一度だけ謝罪の言葉があった。
クロエは返事を書いた。許したとも、忘れたとも書かなかった。ただ、「あなたが自分で選んだ仕事なら、大切にしてください」とだけ書いた。
それでよいと思った。二人とも、もう誰かの作った聖女である必要はない。
アルフォンスは王太子としての権限を大幅に制限され、国王直属の監督下で政務教育をやり直すことになった。
廃嫡まではされなかった。
だが、以前のように自分の言葉一つで周囲が動く立場ではなくなった。
クロエは、その知らせを聞いても、もう胸を大きく揺らされることはなかった。
復讐がしたかったわけではない。
アルフォンスがどうなるかで、自分の人生の価値が決まることはもうない。
それで十分だった。
ある晴れた午後。
ジークハルトから珍しく呼び出された。
「庭園へ来い」
それだけの伝言だった。
クロエは首を傾げながら庭へ向かう。
雪が消えたばかりの庭には、早咲きの白い花が咲いていた。
中央の東屋に、ジークハルトが立っている。
「お待たせいたしました」
「いや」
「何かご用でしょうか」
「ある」
妙に緊張しているように見えた。
「閣下?」
「……まだ、その呼び方をするのか」
「仕事中はそう呼ぶと決めたではありませんか」
「今は仕事ではない」
「では、ジークハルト様」
わずかに彼の肩から力が抜けた。
「それで、ご用は?」
ジークハルトは懐から小さな箱を取り出した。
クロエは固まった。
何の箱か、分からないほど鈍くはない。
「これは……」
「クロエ」
ジークハルトが箱を開く。
中には、銀白色の指輪。
大きすぎる宝石ではない。
細かな彫刻の中央に、北方の氷を思わせる淡い青の石が一つだけ収められていた。
「俺は、求婚が上手くない」
「存じております」
「まだ何も言っていない」
「失礼いたしました」
クロエは笑いそうになるのを堪える。
ジークハルトは真剣だった。
「かつての婚約では、お前に先に役目が与えられていた」
「はい」
「俺は、同じことをするつもりはない」
ジークハルトはクロエを見る。
「別の役を着せるために結婚したいんじゃない。仕事の話も、くだらない話もして、同じ家に帰る。それを、この先も続けたい」
飾り気のない言葉だった。けれど、ジークハルトが言うと、それが何よりまっすぐに胸へ届いた。
「この先も、俺の隣にいてほしい」
一瞬だけ、婚約破棄の夜の光景が蘇った。止まった音楽。大勢の視線。自分の意思とは無関係に、未来を取り上げられた夜。
けれど今、目の前にあるのはまるで違う。
ジークハルトは未来を押しつけず、ただ自分の望みを伝えている。
そのうえで、答えをクロエに委ねようとしている。
「俺と結婚してくれ」
「返事は急がなくていい。決めるのは、お前だ」
クロエは一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「先に申し上げておきます」
「何だ」
「わたくし、たぶん『公爵夫人らしい公爵夫人』にはなれません」
ジークハルトは一瞬だけ目を見開いた。
「なる必要はない」
「仕事も続けたいです」
「続けろ」
「領地経営にも、たぶん今まで以上に口を出します」
「今さらだな」
「意見が違えば、反対もします」
「それも今さらだ」
あまりにも彼らしい返事に、クロエの口元がほどけた。
「では、遠慮なく、わたくしのままでいます」
「最初から、そのつもりだ」
涙が一筋、頬を伝った。
婚約破棄された夜にも泣かなかった。
家を追い出された日にも泣かなかった。
なのに今は、止められない。
「……喜んで」
ジークハルトの瞳がわずかに揺れる。
「本当に?」
「そこを聞き返すのですか?」
「重要だからな」
クロエは泣きながら笑った。
「はい。喜んで、ジークハルト様」
その「はい」は、これまで口にしたどんな誓いよりも、確かにクロエ自身のものだった。
指輪が左手の指にはめられる。
冷たい金属が肌に触れ、すぐに体温になじんでいく。
クロエは、その感覚を確かめるように指を少し曲げた。王太子との婚約指輪を初めてつけた日は、「なくしてはいけない」「傷をつけてはいけない」と、そればかり考えていた。
今は、ただ大切にしたいと思う。指輪ではなく、これを差し出した人と、自分で選んだ答えを。
ぴたりと合った。
「いつ測ったのです?」
「知らない」
「また嘘が下手ですね」
「オズワルドが勝手に調べた」
少し離れた植え込みの向こうから、家令の咳払いが聞こえた。
クロエはとうとう声を上げて笑った。
数か月後。
二人の婚約は正式に発表された。
王都では当然のように騒ぎになった。
『偽聖女、氷の公爵夫人へ』
そんな見出しの記事もあった。
クロエは読んで、笑った。
「まだ偽聖女と書かれるのですね」
「新聞社を潰すか」
「やめてください」
「冗談だ」
「閣下の冗談は冗談に聞こえません」
「ジークハルト」
「仕事中です」
「今は朝食中だ」
「……ジークハルト様」
満足そうに頷く彼を見て、クロエはまた笑った。
朝食を終えると、クロエは財務室へ戻り、机の引き出しから古い革表紙の帳簿を取り出した。公爵領へ来た日に、たった二つの鞄と一緒に持ってきたものだ。
最初の頁には、幼い字で『小麦 十二袋。パンを焼くと何人分?』とある。クロエは少し笑い、その先の空いた頁を開いた。
今日の日付を書き、共同倉庫の増設予定を三行。その下に、ふと思いついてもう一行だけ書き足す。
『蜂蜜菓子 二つ』
背後から、低い声がした。
「なぜ二つだ」
「一つはわたくしの分。もう一つは、甘いものを好まない方の分です」
「いらん」
「では、二つともいただきます」
短い沈黙のあと、ジークハルトが言った。
「……一つ寄越せ」
クロエは声を上げて笑い、帳簿を閉じた。
かつては、好きなものを好きだと言うことさえ難しかった。今は、数字も、仕事も、この不器用な人も、自分で選び、自分の言葉で大切だと言える。
奇跡は起こせない。完璧な聖女でもない。
それでも――「聖女」でなくても、私は私として生きていい。
その答えはもう、誰かに認めてもらうためのものではなかった。
窓の外では、北の長い冬を越えた白い花が、春の風に揺れていた。
――完――




