表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の公爵と、棄てられた聖女もどき  作者: 芦名 雅


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/10

第8話 崩れる化けの皮

半年ぶりに見る王都は、何も変わっていなかった。

同じ白い城壁。

同じ大通り。

同じ王宮の尖塔。

変わったのは、自分だけなのだとクロエは思った。

馬車が王宮へ近づくにつれ、手のひらに汗が滲む。

向かいに座るジークハルトが言った。

「帰るか」

「え?」

「今なら引き返せる」

「……行かせないと仰ったり、帰るかと仰ったり、どちらなのです?」

「決めるのはお前だ」

クロエは一瞬黙り、それから笑った。

「では、行きます」

「分かった」

公聴会は、王宮の小議事堂で開かれた。

議長を務めるのは国王直属の法務卿で、左右には神殿と王立魔術院から一名ずつ監査役が座っていた。誰か一派の裁量だけで結論を出せないよう、ジークハルトが請求時に条件として求めた形だった。記録官の羽根ペンが紙を擦る音まで、やけに大きく聞こえた。

王族、神殿関係者、上級貴族。

アルフォンスもいる。

その隣には、イレーネ。

半年ぶりに見る元婚約者は、以前より苛立って見えた。

「クロエ」

名を呼ばれ、胸が一瞬だけ縮む。

それでもクロエは礼を執った。

「王太子殿下。お久しぶりでございます」

「……随分、元気そうだな」

「おかげさまで」

皮肉に皮肉で返す必要はない。

それだけで、アルフォンスの顔がわずかに歪んだ。

公聴が始まる。

クロエは壇上へ進んだ。

大勢の視線。

婚約破棄の夜が蘇る。

足が少し震えた。

視線を横へ動かす。

ジークハルトがいる。

無表情で、何も言わない。

ただ、そこにいる。

それだけで息ができた。

「わたくし、クロエ・ヴァンディミオンは、本日、自らの聖女認定に関する経緯をお話しいたします」

声は震えなかった。

五歳で水晶が光ったこと。

神殿から聖女候補と呼ばれたこと。

奇跡を起こせないまま、それでも聖女として教育されたこと。

自分自身、一度も聖女だと確信したことはなかったこと。

それでも期待に応えなければならないと思い、否定できなかったこと。

「もっと早く『違う』と言うべきだった――そう思います。成長してからも、期待を失うことが怖くて、はっきり否定できませんでした。その弱さまで、なかったことにするつもりはございません」

「わたくしには、大いなる治癒の力も、神託を受ける力もございません。少なくとも、聖女と呼ばれる根拠になるほどの力はございません」

議事堂が静まり返る。

「ですから、わたくしは聖女ではありません。それが事実です」

誰かが息を呑んだ。

「ですが」

クロエは顔を上げた。

「わたくしという人間そのものまで、偽物だったとは思いません」

胸の奥に、確かなものがあった。

「聖女でなくても、できることがありました。帳簿を読み、領地の不正を見つけ、制度を整えることができました。わたくしを必要としてくださる方々もいました」

ジークハルトと目が合う。彼は何も言わなかった。言わなくていい。ここから先は、自分の言葉で言える。

「だから、今日ここで申し上げます。わたくしは聖女ではありません。そして、それを恥じるつもりもございません」

最後の言葉が議事堂の高い天井へ吸い込まれていった。

誰かが反論するかと思った。偽物が開き直ったと笑われるかもしれないとも思った。

けれど、すぐには誰も口を開かなかった。神官の一人は視線を伏せ、老貴族は腕を組んだまま黙っている。中には、クロエではなく神殿側を責めるような視線を向ける者もいた。

十一年前、五歳の少女に「聖女かもしれない」と言った大人たち。その言葉を利用した家と王家。そして否定できずに従った自分。誰か一人だけに背負わせてよい責任ではなかった。

それを、ようやく公の場で共有できた気がした。

やがて、神殿側の老司祭が重い声で口を開いた。

「当時の水晶反応は、聖力への適性を示しただけで、聖女の確定判定ではありません」

議事堂がざわめく。十一年前に大人たちが膨らませた言葉を、大人の側がようやく訂正した。クロエは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。

やがて、議長が頷いた。

「記録に残す」

短い言葉だった。

けれどクロエには、それで十分だった。十一年間、自分では外せないと思っていた鎖が、ようやく音もなくほどけていく。

そこで終わるはずだった。

ジークハルトが立ち上がるまでは。

「もう一件、事前に申請していた補足審議を求める」

アルフォンスの顔が強張った。

「何だ、アルディア公爵」

「現聖女認定の正当性についてだ」

法務卿は手元の申請書を確認し、短く頷いた。

「許可する」

イレーネの顔から血の気が引く。

「な、何を……」

ジークハルトの部下が資料を配る。

神殿の測定記録。

魔術師の出入り記録。

花壇から検出された保存魔術の痕跡。

騎士の治療記録。

王太子府から保存魔術工房へ流れた支出記録。さらに、王太子派の魔術師の一人が提出した証言書。

『殿下の意向により、聖女誕生を印象づける演出を行った』

会場が騒然となった。

「違う!」

アルフォンスが立ち上がる。

「これは捏造だ!」

「なら、筆跡と魔力署名を鑑定すればいい」

ジークハルトは冷静だった。

「すでに王立魔術院の予備鑑定では一致している」

法務卿がアルフォンスへ視線を向けた。「殿下。なぜ聖女認定という国家的判断に、王太子府付きの魔術師を介入させたのですか。中立の鑑定を求めなかった理由をお答えください」

アルフォンスの口が開き、閉じた。いつもなら肩書きだけで押し切れた沈黙が、今日は誰も助けてくれない。

「そんな……」

イレーネが震える声を漏らした。

クロエは彼女を見た。

演技に見えなかった。

「イレーネ様」

「……わたし、知らない」

イレーネの目から涙が落ちる。

「最初に花が咲いたとき、本当に自分の力だと思ったの。殿下も神官様も、みんな聖女だって……」

アルフォンスが振り返る。

「イレーネ、余計なことを言うな!」

その一言で、空気が変わった。

イレーネがアルフォンスを見る。

「……殿下は、知っていたのですか」

「違う! 私はただ、お前の力を皆に認めさせるために――」

「知っていたのですね」

イレーネの声は、かすれていた。クロエを見て笑っていた夜会の少女ではなく、自分が信じていた足場を突然失った一人の娘の声だった。

クロエの胸に複雑な痛みが走った。イレーネの存在によって自分が断罪された事実は消えない。けれど目の前の彼女もまた、「聖女」という役を与えられ、その言葉を信じていたのだとしたら。

憎めば、もっと単純だったかもしれない。けれど自分が欲しかったのは、誰かを同じ場所へ突き落とすことではなかった。

「殿下」

クロエが静かに言う。

アルフォンスが睨みつける。

「何だ」

「わたくしとの婚約を破棄なさったことを、今さら責めるつもりはございません」

「……」

「ですが、誰かを聖女に仕立て上げるために、別の誰かを偽物として踏みつける。そのようなことを繰り返してはなりません」

アルフォンスは何も言えなかった。

議事堂のあちこちから、押し殺したざわめきが起きる。アルフォンスは何度か口を開いたが、いつものように「王太子である自分が言えば通る」という空気はもうなかった。

証拠がある。証言がある。そして何より、彼自身がイレーネの問いに答えられなかった。

クロエはその姿を見ても、勝ったという気持ちにはならなかった。ただ、あの婚約破棄の夜に自分を縛っていた相手が、思っていたほど絶対的な存在ではなかったのだと知った。

その日の公聴会で、イレーネの聖女認定は一時停止。

神殿と王太子派魔術師への正式調査が決まった。

アルフォンスについても、王家内部で責任を問う審議が始まることになった。

議事堂を出た瞬間、クロエは長く息を吐いた。

「終わりました」

「ああ」

「本当に、終わったのですね」

ジークハルトは少しだけ首を横に振った。

「終わったのではない」

「え?」

「お前が、自分で終わらせたんだ」

それは勝者へ向けた称賛ではなかった。怖さを抱えたまま壇上へ立ち、自分の言葉で過去に区切りをつけた――その選択を、ジークハルトは見ていた。肩書きではなく「自分がしたこと」を見てもらえた。それが、何より嬉しかった。

クロエは返事の代わりに、小さく息を吐いた。

そして、ようやく笑った。

廊下の先で、小さな声がした。

「クロエ様」

振り返ると、イレーネが一人で立っていた。いつも彼女のそばにいた王太子の姿はない。

「……申し訳、ありませんでした」

震える声だった。

クロエはすぐには答えなかった。簡単に「許します」と言えば、あの夜に受けた傷まで嘘になる気がした。

「わたくしは、まだすべてを許せるほど立派ではありません」

イレーネの肩が小さく揺れる。

「ですが、あなた一人にすべての責任があるとも思っておりません」

クロエは静かに続けた。

「これからは、誰かに言われたからではなく、ご自分で選んでください。わたくしも、そうするつもりです」

イレーネは涙を拭い、小さく頷いた。

二人が友人になることは、たぶんない。それでも、同じ役に縛られた二人が別々の道へ歩き出すには、それで十分だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ