第7話 聖女の真実
冬の終わり。
王都から届いた報告書は、ジークハルトの予想以上に黒かった。
単なる誤認や神殿側の早計ではない。複数の記録が、誰かの意思で「聖女誕生」を作り上げようとした形跡を示していた。
報告書には、王太子派の魔術師へ便宜を図るよう命じた書簡の写しまで含まれていた。最終的な指示者までは断定できない。だが、イレーネの「奇跡」を成立させるため、王太子周辺の人間が動いていたことだけは否定しにくかった。
もしアルフォンス自身が関与していたのなら、理由は恋情だけではないだろう。クロエとの婚約を破棄した判断が正しかったと証明するために、「本物の聖女」が必要だった――そう考えれば筋は通る。だが、今は推測より証拠が先だ。ジークハルトはそう言って、報告書の端に短く印をつけた。
イレーネが最初に「奇跡」を起こしたとされる神殿。
その日に限って、通常の神官ではなく王太子派の魔術師が複数立ち会っていた。
枯れた花が蘇ったという実演では、事前に花壇へ特殊な保存魔術が施されていた可能性が高い。
重傷の騎士を癒したという話も、実際には命に関わる傷ではなく、治癒術師による処置が先に行われていた。
不自然さをさらに裏づけたのは、神殿の聖力測定器の記録だった。
イレーネの測定日だけ、機器が保守点検名目で王太子派の魔術師に預けられている。
クロエは付属していた支出控えを日付順に並べ直した。王太子府、神殿、祭礼費――別々の書類に散っていた数字を、一つの時系列に置いてみる。
そこで、一件だけ妙に膨らんだ支出が浮かび上がった。「神殿祭礼用花壇保全費」。支出日は、イレーネが最初の奇跡を起こしたとされる三日前。金額は前年同月の六倍で、支払先は保存魔術を扱う王都の工房だった。
「閣下。この支出、時期も金額も不自然です」
ジークハルトが紙を受け取る。決裁欄には王太子府付き文官の署名があった。数字は奇跡を起こさない。けれど、奇跡を演出するために金が動いたのなら、その痕跡までは消せない。クロエには、それが何より雄弁に思えた。
「……これは」
積み重なる記録を前に、クロエの顔が青ざめる。
「イレーネ様は、本当に聖女ではないのですか」
「少なくとも、現時点で聖女だと証明できるものはない」
ジークハルトが答える。
「むしろ、人為的な演出があった可能性が高い」
クロエはしばらく黙った。
怒りはあった。自分を踏み台にされた痛みも、今さらなかったことにはできない。けれど資料を読むほど、胸に残るのは怒りだけではなくなった。
もしイレーネ自身が何も知らなかったのなら。
「あなたは聖女だ」と周囲から言われ続け、その役を信じるしかなくなった少女。
形こそ違っても、それはかつての自分とよく似ていた。
「イレーネ様ご本人は、知っているのでしょうか」
「分からない」
「もし、知らなかったら……」
「被害者でもある」
ジークハルトは即答した。
クロエは顔を上げた。
「閣下も、そう思われますか」
「お前と同じことをされていた可能性がある。周囲が勝手に聖女を作り、その役を押しつける」
クロエは苦く笑った。
「だからといって、傷つけられたことまで消えるわけではありません。でも……彼女だけを責めることも、できません」
資料を閉じたとき、クロエの中では一つの答えが決まっていた。
「閣下。王都へ参りたいです」
「却下だ」
「まだ理由を申し上げておりません」
「だいたい分かる」
「では、お聞きください」
「聞いても結論は変わらない」
珍しく、会話が噛み合わない。
クロエは机の前に立ったまま言った。
「わたくしは、自分の聖女認定がどう始まり、何が事実だったのかを、公の場で自分の言葉で話したいのです」
ジークハルトの目が細くなる。
「今さら、お前が認める必要はない」
「あります」
「なぜだ」
「このままでは、最後まで『誰かが決めたクロエ』のまま終わってしまうからです」
婚約破棄の夜。
クロエは確かに言った。
自分から聖女を名乗ったことはない、と。
けれどその後、王都を離れた。
噂は噂のまま残った。
偽物だったから逃げた。
公爵に取り入った。
今も王都では好き勝手に語られている。
「噂を一つ一つ追いかけるつもりはありません。ただ、事実だけは、わたくし自身の言葉で残したいのです」
「危険だ」
「存じています」
「アルフォンス派は、お前を敵視している」
「それでもです」
クロエは一歩も引かなかった。
「これまで、わたくしの人生は、いつも誰かが説明してきました。『クロエは聖女です』『クロエは王太子妃になります』『クロエは偽物でした』と」
手を握る。
「一度くらい、自分が何者なのかを、自分で話したいのです」
言い終えたとき、クロエは自分でも驚くほど落ち着いていた。王都へ戻るのが怖くないわけではない。あの広間を思い出せば、今でも胸が締めつけられる。
それでも、怖いから行かないという選択と、誰かに行くなと言われて従うことは違う。
今度は、自分で選びたかった。怖さまで含めて、自分の意思で。
ジークハルトは長い間黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「……一人では行かせない」
クロエの表情が明るくなる。
「では」
「俺も行く」
「閣下が?」
「公爵領の財務補佐が、根拠のない中傷を受けている。当主として看過できない」
その説明はいかにもジークハルトらしかった。守るとも励ますとも言わない。あくまで当主として必要だから同行するのだと言い張る。
けれど、この人はいつもそうだった。必要なときに、必要な場所へ来る。そしてあとから「合理的だから」と言い訳をする。
クロエは、そんな不器用さをもう知っていた。だからこそ、その同行が何より心強かった。
「それだけですか?」
クロエが尋ねる。
ジークハルトが固まった。
「何が言いたい」
「いいえ」
クロエは少し笑った。
「同行してくださるなら、それで十分です」
その日のうちに、ジークハルトは調査資料の写しと正式な審議請求を王都へ送った。公爵家だけで断罪すれば、王太子との私闘に見える。だから神殿・王立魔術院・王家の三者が記録を確認できる公開の場を求めた。
数日後、国王名で公聴会開催の許可が届いた。クロエ自身の聖女認定経緯についても証言を求める、と記されていた。紙を持つ手が冷たくなった。それでも、クロエは「参ります」と自分の声で答えた。
荷造りの最後に、クロエは古い革表紙の帳簿を鞄へ入れた。王都へ持っていく必要のある資料ではない。それでも、聖女ではない自分が何を好きで、何を積み重ねてきたのかを忘れないために、今はそばに置いておきたかった。
出発の前夜。
クロエはなかなか眠れなかった。
王都へ戻る。
あの大広間。
あの視線。
考えるだけで胸が苦しくなる。
窓を開けると、冷たい風が入ってきた。
「眠れないのか」
庭から声がした。
見下ろすと、ジークハルトがいた。
夜の見回りから戻ったところらしい。
「少しだけ」
「怖いか」
「はい」
昔なら、怖くないと答えただろう。
今は素直に言えた。
「でも、行きます」
「そうか」
「閣下」
「何だ」
「もし、わたくしが途中で怖くなったら」
言いかけて迷う。
ジークハルトが待つ。
「……隣にいていただけますか」
数秒の沈黙。
「最初から、そのつもりだ」
冷たい夜風が頬を撫でる。けれど不思議と寒くなかった。
クロエは窓枠に指を置いた。明日、自分は過去と向き合う。結果がどうなるかは分からない。笑われるかもしれない。責められるかもしれない。
それでも、一人ではない。
その事実だけで、眠れないほど膨らんでいた恐怖が、ようやく自分で抱えられる大きさに戻っていった。
クロエは笑った。
翌朝。
王都へ向かう馬車が、公爵邸を出発した。




