第6話 夜会にて
視察団の滞在最終日、公爵邸では小規模な夜会が開かれた。
北方の有力貴族や商会代表も招かれ、表向きは視察成功を祝う親睦会だった。
クロエは淡い青銀色のドレスを身に着け、鏡の前に立った。
以前なら、王太子妃候補として最も目立つ装いを選ばされていた。
今日は違う。
「その色がお好きなのですか?」
侍女に聞かれ、クロエは少し考えてから頷いた。
「はい。たぶん」
「たぶん?」
「自分で服を選ぶことに、まだ慣れていなくて」
侍女が笑った。
「では、これから慣れていけばよろしいのです」
クロエは鏡の中の自分を見つめた。青銀色は、王太子の隣で最も映える色でも、聖女らしさを象徴する白でもない。ただ、雪明かりの下で見た北の空に似ていて好きだと思った色だった。
「好きだから選ぶ」というだけで、こんなにも心が軽い。
以前なら侍女が用意した装飾品をすべて身につけたところだが、今日は首飾りを一つ外した。誰かの理想に近づくためではなく、自分が心地よい姿で夜会に出たいと思った。
そんな小さな選択さえ、今のクロエには嬉しかった。
夜会が始まる。
ロベルトは最初こそ上機嫌だった。
だが商人たちから公爵領の改革について話を聞くにつれ、表情を変えていった。
「税関処理が早くなって、冬の滞在日数が半分になりました」
「共同倉庫の制度は他領でも取り入れたいくらいです」
「財務補佐のクロエ様が仕組みを整えられたとか」
どこへ行っても、クロエの名前が出る。
やがてロベルトは、酒の勢いもあったのだろう。
人々が集まる場所で、わざと声を張った。
「いやはや。これほどの改革を、まさかあの『偽物の聖女』が主導しているとは。驚きですな」
会話が止まる。
クロエの手が、グラスの脚を強く握った。
喉の奥がひどく乾いた。胸の中で、昔の自分が囁く。笑って流しなさい。場を乱してはいけない。相手に恥をかかせてはいけない。
その教えは、十一年かけて身体に染み込んでいる。黙っている方がずっと簡単だった。
けれど、視線を落とした先に自分の手が見えた。その手で何百枚もの帳簿をめくり、数字を確かめ、制度を作った。ここで積み上げたものまで、昔と同じように誰かの言葉で消されてたまるものかと思った。
クロエはゆっくりロベルトへ向き直った。
「ロベルト卿」
「何でしょう、元聖女様」
「先ほども申し上げましたが、わたくしは一度たりとも自分を聖女と名乗ったことはございません」
「しかし、王国中がそう信じていた」
「ええ。だからこそ、誤解については必要なら説明いたします」
クロエは静かに続ける。
「ですが、この公爵領の財政改革と、わたくしが聖女であるか否かは、まったく別の話でございます」
「ほう。随分と自信がおありだ」
「結果がございますので」
声にした途端、不思議と震えが少し収まった。自分を立派に見せるためではなく、事実を説明するためなら言葉を選べる。帳簿を読むときと同じだ。誇張せず、逃げず、証明できることだけを示せばいい。
周囲から、小さなざわめきが起こった。
ロベルトが鼻で笑う。
「数字など、いくらでも操作できる。帳簿の上だけなら、誰にでも改革はできますよ」
クロエは一拍置いた。
そして、穏やかに尋ねる。
「では、誰にでもできることを、なぜこれまでどなたも成し得なかったのでしょうか」
「な……」
「西部の横領を見抜いた結果、農民への不当徴収は停止しました。共同倉庫制度によって食糧廃棄率は昨年比で十二パーセント減少。街道の支出見直しにより物流日数は平均二日短縮しております」
「数字が信用できないのでしたら、ここにいる商人の方々、農務官、税関職員にお尋ねください。帳簿ではなく現場が答えてくださいます」
誰も派手に拍手はしなかった。だが、商会主の一人が静かに頷き、税関長が腕を組んだまま「その通りですな」と呟いた。クロエには、その小さな同意の方が喝采より嬉しかった。同じ仕事をした人々が、肩書きではなく事実を見てくれている。
ロベルトの顔が赤くなる。
「貴様……!」
「よく言った」
低い声が割って入った。
ジークハルトだった。
黒の正装をまとった彼が、クロエの隣へ立つ。
それだけで、場の空気が引き締まった。
「聖女の力など、この場には必要ない」
ジークハルトはロベルトを見る。
「クロエの実績は、俺が公爵家当主として認めている。異論があるなら、具体的な数字と証拠を持ってこい」
「しかし、公爵閣下。王太子殿下は彼女を――」
「アルフォンス殿下が婚約者として誰を選ぶかと、俺が領地の人材として誰を評価するかは無関係だ」
「……」
「それとも、王太子の婚約破棄が国家の会計能力まで決めるのか?」
誰かが笑いを堪えた。
ロベルトは完全に言葉を失った。
「失礼する」
吐き捨てるように言い、その場を離れる。
緊張がほどけた。
クロエは小さく息を吐く。
「ありがとうございました」
「俺は何もしていない」
「最後にかなり刺していらっしゃいましたが」
「事実を言っただけだ」
クロエは笑う。
ジークハルトが横目で見る。
「怖くなかったのか」
「怖かったです」
素直に答えた。
「手も震えていました」
「なら、なぜ言い返した」
クロエは少し考えた。
「ここで黙ったら、また昔のわたくしに戻ってしまう気がしたからです」
「昔の?」
「相手が望む答えを言うだけの、聖女候補です」
ジークハルトは数秒黙る。
「戻っていない」
「え?」
「少なくとも今のお前は、自分の言葉で喋っている」
その一言で、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。ロベルトを言い負かしたからではない。
怖くても、自分の言葉を選べた。そして、そのことをジークハルトが見ていてくれた。
クロエはその言葉を胸の奥にそっとしまった。次にまた怖くなったとき、自分の声を取り戻すために思い出せるように。
「……はい」
夜会の終わり際。
ロベルトが誰かに小声で話しているのを、ジークハルトの部下が聞いた。
『王都へ戻れば、殿下に報告する。あの女を放っておけば厄介だ』
翌朝、その報告を受けたジークハルトは、しばらく窓の外を見ていた。
そして副官に命じる。
「王都で調べろ」
「何をでしょう」
「イレーネ男爵令嬢が聖女と認定された経緯。奇跡を目撃した者、使われた神具、担当した魔術師。全部だ」
「承知しました」
副官が去る。
ジークハルトは机上の社交新聞を見下ろした。
クロエを偽物だと騒ぐ者たちは、なぜか「本物」とされた少女の認定過程には関心を示さない。
その偏りが、ジークハルトには引っかかった。
ロベルトが持ち込んだ噂の出所と、イレーネの聖女認定を強く推した人物。その二つを辿ると、同じ王太子周辺の名が何度も現れる。偶然と切り捨てるには重なりすぎていた。噂への反撃ではない。ジークハルトが欲しいのは、誰にも言い逃れのできない事実だった。




