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氷の公爵と、棄てられた聖女もどき  作者: 芦名 雅


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5/10

第5話 元婚約者の影

公爵領での生活が三か月を過ぎた頃。

クロエは、自分がようやく落ち着ける場所を見つけたのだと思い始めていた。

朝は財務室へ行き、昼には役人たちと食事をし、午後は倉庫や市場へ足を運ぶ。

ときにはジークハルトと領内視察に同行した。

王宮では一日中姿勢と表情を意識していたのに、ここでは靴に泥がついても誰も叱らない。

そんな平穏は、一通の手紙で揺らいだ。

「クロエ・ヴァンディミオンが、アルディア公爵に取り入り、財産を狙っている――ですか」

オズワルドが差し出した紙を読み、クロエは小さく息を吐いた。

王都の社交新聞だった。

匿名の投書という形だが、内容は悪意に満ちている。

『王太子に捨てられた偽聖女、今度は北方公爵を籠絡か』

見出しまでついていた。

「よく考えますね」

クロエが言うと、オズワルドは渋い顔をした。

「感心するところではございません」

「そうですね」

笑おうとしたが、うまくいかなかった。

懐かしい感覚だった。

誰かが作った物語の中で、自分が勝手に悪役にされていく感覚。

文字を追うほど、王宮にいた頃の感覚が蘇った。こちらが何を言ったかではなく、誰かがどう語ったかで「クロエ」という人物が決められていく。

一度貼られた呼び名は、事実より速く広がる。聖女。偽物。捨てられた女。今度は、公爵を籠絡する女。

どれも自分ではないのに、否定し続けているうちに、本当の自分まで分からなくなる。その怖さをクロエは知っていた。

それでも、三か月前と同じではなかった。机の上には自分が作った比較表があり、引き出しには役人たちから回ってきた相談書がある。噂は好き勝手に名前をつける。けれど、ここで積み上げた仕事までは書き換えられない――そう思えるだけのものを、クロエはもう自分の手で作っていた。

頭ではそう分かっている。それでも、十一年かけて染みついた恐怖は、理屈だけでは消えてくれなかった。

財務室へ戻っても、数字が頭に入らなかった。

――また、迷惑をかける。

自分がここにいるせいで、公爵家まで悪く言われる。

夕方、クロエはジークハルトの執務室を訪れた。

「閣下」

「何だ」

「わたくし、一度公爵邸を離れた方がよいのではないでしょうか」

ペンの音が止まった。

「理由は」

「噂の件です」

「それが?」

「わたくしがここにいることで、閣下のお名前まで――」

「クロエ」

低い声に遮られた。

まだ名前で呼ばれることは少ない。

それだけで身体が固まる。

「お前は、公爵領の金を盗んだか」

「いいえ」

「俺を誘惑したか」

「しておりません!」

思わず声が大きくなった。

ジークハルトは無表情のまま続ける。

「財務改革の実績は偽造か」

「違います」

「なら、何を恥じる」

クロエは答えられなかった。

「噂は、事実ではない」

「ですが、人は事実より噂を信じます」

「一時的にはな」

ジークハルトは椅子から立ち上がる。

「だが、実績は残る。お前が三か月で削減した無駄な支出も、西部農村へ戻した金も、改善した備蓄制度も消えない」

彼はクロエをまっすぐ見た。

「それに、お前が財産目当てで擦り寄る人間でないことは、この数か月、誰より俺が知っている」

言い切ってから、ジークハルトはわずかに視線を逸らした。その仕草のせいで、「誰より」という言葉だけが妙に私的な響きを帯びる。公爵領には自分を知る人が大勢いる。それでも彼がそう言ったことに、胸が噂とはまったく別の理由で騒がしくなった。

「……どうして、そこまで信じてくださるのですか」

「見ていたからだ」

「え?」

「財産目当ての人間なら、もっと金の使い方に出る。お前は給金の半分を貯め、残りも本と文房具、それから街のパン屋で菓子を買う程度だ」

「なぜそこまでご存じなのです?」

ジークハルトが一瞬黙る。

「……家令から聞いた」

扉の外で、誰かが咳払いした。

たぶんオズワルドだ。

クロエは思わず笑った。

だが噂は、そこで終わらなかった。

数日後、王都から一行が到着した。

表向きは「北方経済の視察」。

もともと毎冬行われる王都からの定例視察に、今年は王太子の側近が代表としてねじ込まれた形だった。名目が正規であるぶん追い返しにくい。ジークハルトが露骨に不機嫌だった理由を、クロエは到着してから知った。

代表はロベルト・グラハム侯爵子息。

王太子アルフォンスの学生時代からの側近である。

到着早々、ロベルトはクロエを見て薄く笑った。

「これはこれは。噂の元聖女様」

「現在は、公爵領の財務補佐をしております」

「随分と出世なさった」

「職務をいただいただけです」

「公爵閣下のお気に入りなら、仕事にも困らないでしょうな」

周囲の空気が凍った。

クロエが言い返すより先に、ジークハルトが口を開く。

「ロベルト卿」

「は、はい」

「俺の領地で、俺が任命した人間を侮辱するなら、相応の根拠を示せ」

「いえ、そのようなつもりでは」

「なら、視察に集中しろ」

一言で終わった。

ロベルトは笑顔を引きつらせる。

クロエは礼を言おうとしたが、ジークハルトは先に歩き出してしまった。守ったことを恩に着せる気など、最初からないらしい。

その背中を見ながら、クロエは小さく息を吐いた。自分で言い返せなかった悔しさが残る一方で、隣に立ってくれる人がいることは確かに心強かった。

次は、自分の言葉で返したい。

そう思えたことが、以前の自分との何より大きな違いだった。

その夜、クロエは眠れなかった。

王都から来た一行の目的は、明らかに自分を探ることだ。

――殿下は、まだわたくしを放っておいてくださらないのね。

窓の外を見る。

静かな雪が降っていた。

三か月前なら、怖くて仕方なかっただろう。

けれど今は違う。

クロエは机の上の帳簿に触れた。

自分がここで何をしてきたのか。

それを知っている。

そして、自分を信じると言ってくれた人がいる。

「逃げません」

小さく呟いた。

今度こそ、自分の足で立つために。



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