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氷の公爵と、棄てられた聖女もどき  作者: 芦名 雅


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4/10

第4話 不器用な人

数週間が経つ頃には、公爵邸の人々がクロエを見る目も変わっていた。

最初は「婚約破棄された元聖女候補」だった。

次に「閣下が拾ってきた令嬢」になった。

そして今では、「財務室へ行けばだいたいいる人」である。

「クロエ様、北倉庫の棚卸し表です」

「ありがとうございます。そこへ置いてください」

「南部街道の補修費も」

「そちらは先に見ます」

昼食時になると、侍女が迎えに来る。

夕食時にも迎えに来る。

放っておくと夜まで仕事をすることが、すっかり知られてしまった。

変わったのは、ジークハルトというより、クロエの彼を見る目の方だった。

氷の公爵は、確かに口数が少ない。

顔も怖い。

部下の報告に「そうか」「分かった」「却下だ」の三語で済ませることも珍しくない。

しかし、決して人を雑には扱わなかった。

負傷した兵の家族には密かに補償金を増額している。

凶作の村には、税を免除しただけでなく翌年用の種籾まで配っていた。

使用人の名も驚くほど覚えている。

ある朝、厨房の少年が熱を出したと聞いたときなど、会議の途中で「医師は診たか」と確認した。

本人はそれを特別なことだと思っていない。

だからこそ、周囲は彼を信頼しているのだ。

クロエがそれに気づくたび、社交界で聞いていた「氷の公爵」という呼び名が少しずつ実像から離れていった。確かに冷たい。だが、その冷たさは人に関心がないからではなく、余計な言葉で飾らないだけなのだ。

誰かを助けても恩に着せず、褒められても否定する。気遣いを指摘されれば合理性の話にすり替える。

――本当に、不器用な方。

そう評する自分の声が、以前よりずっと柔らかくなっていることに、クロエ自身はまだ気づいていなかった。

ある夜。

クロエは財務室で一人、書類を整理していた。

窓の外はすでに真っ暗だった。

「……ここを直せば、来年の冬季備蓄費が三パーセント……」

扉が開く。

「まだいたのか」

「閣下」

ジークハルトだった。

両手には、なぜか茶器が乗った盆がある。

クロエは思わず立ち上がった。

「……閣下が、こんなことを?」

「使用人は休ませた」

「だからといって、公爵閣下自らお茶を?」

「廊下に置いてあった」

「明らかに二人分ございますが」

「……細かいことを気にするな」

クロエは笑いを堪えた。

ジークハルトが置いた茶から、柔らかな花の香りが立つ。

最近クロエが好んでいる、北方産の香草茶だった。

「これ、わたくしが好きなものですね」

「そうなのか」

「知らなかったのですか?」

「偶然だ」

明らかに嘘だった。

クロエはカップを両手で包む。

温かい。

「ありがとうございます」

「礼を言われるようなことはしていない」

いつもの返事だった。

それでも、ジークハルトは向かいの椅子に座った。

「仕事は」

「あと少しです」

「その言葉は信用できないとオズワルドから聞いた」

「家令殿は余計なことを」

「今日は終われ」

「ですが」

「明日できることを、今日倒れるまでやる必要はない」

クロエは口を閉じた。

それは、自分が一度も教わったことのない考え方だった。

伯爵家では、できるならやれと言われた。

できなくても、努力が足りないと言われた。

疲れたと言えば、聖女は弱音を吐かないと言われた。

「……閣下は、存外お優しい方なのですね」

「違う」

即答だった。

「では、合理的だから?」

「そうだ」

「倒れられると仕事が止まるから?」

「そうだ」

「わたくしが疲れているのを見て、お茶を持ってきたのも?」

「……そうだ」

「何が合理的なのです?」

ジークハルトが黙った。

クロエはとうとう笑ってしまった。

声を上げて笑うほどではない。

それでも、肩が小さく揺れた。

「何がおかしい」

「申し訳ありません。ただ、閣下は嘘がお下手なのだと思いまして」

「お前は、よく喋るようになったな」

「そうでしょうか」

「最初に見た頃とは別人だ」

その言葉に、クロエの笑みが少しだけ静かになる。

「はい」

窓の外へ目を向けた。

「もう、演じる必要がありませんから」

「……そうか」

ジークハルトの声は低かった。

「王宮では、いつも何を言えば正解なのか考えていました。聖女ならどう微笑むか。王太子妃なら何と答えるか。伯爵令嬢ならどう振る舞うか」

クロエはカップの水面を見る。

「自分がどうしたいのかは、あまり考えたことがありませんでした」

「今は?」

「今は……」

少し考える。

「帳簿をもっと見たいです」

ジークハルトが一瞬、呆れた顔をした。

「それだけか」

「あと、街を歩いてみたいです。市場も見たいですし、北部の鉱山にも行ってみたいです。それから」

「まだあるのか」

「ございます」

クロエは笑った。

「自分が何を好きなのか、たくさん見つけてみたいです」

ジークハルトはしばらく黙っていた。

やがて、ほんのわずかに口元を緩める。

「そうしろ」

その言葉は、命令ではなく許可でもなかった。クロエには「自分で決めていい」と言われたように聞こえた。

「はい」

その滅多に見せない微笑みを目にした瞬間、クロエの胸が不意に跳ねた。

理由が分からず、慌てて茶を飲む。

少し熱かった。

「……熱いです」

「急に飲むからだ」

「閣下が笑うからです」

「俺のせいにするな」

「では、もう一度笑ってください」

「断る」

即答され、クロエはまた笑った。

その夜から、公爵邸の夜は少しだけ、温度を持つようになった。

数日後、午後の予定が珍しく空いた。クロエが市場へ行ってみたいと口にすると、なぜかジークハルト本人が同行した。

「お忙しいのでは?」

「街の商況を見るのも仕事だ」

「では、わたくしがパン屋へ寄るのも?」

「消費動向の確認だ」

あまりにも真顔なので、クロエは吹き出した。

市場では、王都の高級菓子とは違う、蜂蜜を練り込んだ素朴な焼き菓子を買った。値札を見て、誰にも相談せず、自分の給金から代金を払う。たったそれだけのことなのに、胸がくすぐったいほど嬉しかった。

一口食べて思わず笑うと、隣にいたジークハルトがじっと見ていた。

そのとき、通りの向こうから小さな男の子が母親の手を引いて駆けてきた。「倉庫を作ってくれたクロエ様だ」と弾んだ声で言う。母親は慌てて頭を下げ、冬の配給が以前より分かりやすくなったと礼を述べた。

クロエは一瞬、返事を忘れた。「聖女様」ではなかった。奇跡を期待する声でもなかった。自分がした仕事を見て、名前を呼ばれた。そのことが、手の中の焼き菓子よりずっと温かく感じられた。

親子が去ってもまだこちらを見ているジークハルトに、クロエは首を傾げた。

「何でしょう」

「いや」

「食べますか?」

「甘いものは好まない」

「では、これはわたくし一人でいただきます」

そう言うと、なぜか少しだけ不満そうな顔をした。結局、帰り道で半分渡すと無言で受け取った。

帰路、日陰に残った薄氷でクロエの足が滑った。倒れる前に、ジークハルトの手が肘を支える。

「前を見ろ」

叱る声はいつも通り低い。けれど体勢が戻っても、その手は一拍だけ離れなかった。厚い手袋越しなのに、その一拍だけが妙にはっきり残る。クロエは礼を言いながら、冷たい風とは別の理由で頬が熱くなるのを感じていた。

その日、クロエは一つ新しく知った。自分は甘い焼き菓子が好きらしい。そして、ジークハルトは「好まない」と言いながら二口目を断らない人らしい。

公爵領で見つける「好き」は、少しずつ増えていった。そして気づけば、その小さな発見のいくつかには、いつもジークハルトが隣にいた。


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