【第四章:海底の牢獄と鉄の艦長】
砲撃戦の末、海に投げ出されてしまったネッドたち。 彼らが目を覚ましたのは、怪物の体内……ではなく、冷たい鉄に囲まれた潜水艦の中でした。謎多きハンス艦長との対峙です。
大海原の真ん中。動力を失い、静まり返った軍艦スコーシア号の周囲では、何隻もの救命ボートが下ろされ、海に落ちた三人の行方を必死に捜索していた。 しかし、彼らが探している者たちの姿はどこにもない。ボートのすぐそばの海面から、鋭いノコギリのような鉄のギザギザが音もなく顔を出し――そして、再び暗い海中へと静かに潜って消えていった。
時は1867年。まだ帆船や蒸気船が海の主役であるこの時代において、そこは常識を遥かに超えた空間だった。 冷たい金属の匂いがする、薄暗い部屋。壁には無数のパイプが張り巡らされ、部屋の奥には分厚いガラスがはめ込まれた丸窓がある。
「う、ん……ここは……?」
ネッドが目を覚ました。周囲を見渡すと、アロナックス教授、そしてメアリーと共にこの奇妙な部屋の中に立たされていることに気づく。ただ、逃げ出したり抵抗したりできないよう、手首だけが後ろ手に固く縛り上げられていた。
ふと、ネッドは丸窓の向こうの景色に目を奪われた。 暗い青の世界。無数の泡が上へと昇り、見たこともない色鮮やかな魚たちが悠然と泳いでいる。
「すごい……」
自分たちがどこにいるのかを悟ったネッドは、すぐそばに立つ二人に声をかけた。
「教授! アロナックス教授! メアリーさん!」 「あ、痛っ……ネッドくん。ここは……?」
縛られたまま体を動かし、アロナックスが意識を取り戻す。
「わかりません。でも、窓の外が……海の中ですよ」
ネッドの言葉に、アロナックスは丸窓の景色を見て息を呑んだ。
「こ、これはすごい……!」
学者としての興奮を抑えきれないアロナックスは、まだ気絶している姪に声をかけた。
「メアリー、メアリー! 起きて、窓の外を見てごらん!」 「きやぁぁぁっ!」
揺り起こされたメアリーは、目を覚ました途端に甲高い悲鳴を上げて大騒ぎし始めた。
「ごめんなさい! 私、まだ食べてないです! 何にも食べてないですぅ!」
どうやら、巨大な怪物の腹の中にでも放り込まれたと勘違いしているらしい。
「メアリー、何を言ってるんだ。窓の外を見てごらん」
諭されて、メアリーは顔にしっかりと掛かったメガネ越しに、おそるおそる目の前の丸窓を見た。
「おじ様……いや、教授。ここ……」 「海の中……ですよね」
ネッドが言う。
「これは……スコーシア号を襲った潜水艦の中なのか?」
アロナックスが推測を口にした、その時だった。 メアリーが見つめる丸窓の向こうから、巨大な魚の顔がヌッと現れ、ギョロリとした目でこちらを覗き込んできた。
「きやぁっ! 教授、怪物です!」
メアリーの悲鳴に二人が振り返るが、その時にはすでに巨大な魚の顔は去っていた。
「なんだ、ただの魚じゃないか」
アロナックスがやれやれと首を振る。
「窓の分厚いガラスと海水がレンズの代わりをして、近づいたものをさらに大きく見せているだけだよ。メガネ越しによく見てごらん」 「絶対に嫌です! あんな怖い顔!」
視界がクリアになった分、迫力満点の魚の顔にメアリーは頑なに目を逸らした。
「ナポレオンですね」
ネッドが冷静に口を挟む。
「え? フランスの皇帝?」 「違いますよ。魚の呼び名です。今のでかい奴は、ナポレオンって呼ばれている魚です」
ネッドが向き直った次の瞬間。今度はメアリーの目の前の窓に、ヘルメットから二本のパイプを角のように生やした潜水服の巨大な顔が現れた。 目が合ったメアリーは、メガネ越しにその異様な姿をはっきりと捉え、息を呑んだ。
「ひっ……!」
慌てて二人が窓の方を見るが、そこにはただ普通の海が広がっているだけだ。
「メアリー、どうした?」 「い、今……頭からツノを二本生やした、人の形をした化け物が窓の外に……!」 「何もいないじゃないか」 「本当にいたんです! ちゃんと見えてます! 頭からツノが二本生えていて、人間みたいなんです!」
見間違いだ、いや本当にいた、と騒いでいると、背後の鉄の扉が重々しい音を立てて開いた。 部屋に入ってきたのは、水をしたたらせた潜水服の男だった。メアリーが「ほらぁ!」と言わんばかりに目を丸くする。
潜水服の男が重いヘルメットを取り外すと、中から精悍な顔つきの男が現れた。控えていた二人の乗組員がヘルメットを受け取り、代わりに海軍風の帽子を手渡す。男はそれを静かにかぶった。
「ようこそ、ノーチラス号へ」 「ナポレオン……?」
メアリーが間の抜けた声で呟く。
「あなたは?」
アロナックスの問いに、男は落ち着き払った声で答えた。
「私はハンス。この潜水艦、ノーチラス号の艦長だ」 「私は……」 「ピエール・アロナックス。パリ博物館の博物学教授。専門は海洋生物学」
名乗る前に言い当てられ、アロナックスは驚愕した。
「どうして私のことを?」 「教授のことはよく知っています。お書きになった本はほとんど読ませていただきました。素晴らしい内容の本ばかりですね。……でもまだ、本当の海の中のことをご存じない。こちらのお二人の事は存じませんが」 「この子はネッド・ランド、漁師の息子だ。そっちは私の助手で、姪のメアリー・コンセイユです」
紹介を受けたハンス艦長は、ふっと口元を緩めた。
「運のいいお二人ですね。アロナックス教授が一緒でなかったら、あのまま海の中に放っておくつもりでした」
その言葉に、ネッドが鋭く睨みつけた。
「スコーシア号を襲ったのは、この船ですね。どうして襲ったりしたんですか!」
少年からの非難の言葉に、ハンスは冷ややかな目を向けた。
「どうして、だと? では、どうして私達の海に軍艦で乗り込んできたんだね? あなたたちはこの船に向かって、一体何発の砲弾を撃ち込んだ? 君たちの大砲の方が先に火を噴いたのではないのか?」 「それは……私たちは決してそんなつもりではなく、怪物退治に来ただけで、この船も怪物だと思っていたので……」
言い淀むアロナックスに、ハンスは吐き捨てるように言った。
「攻撃した。……あなた方はいつもそうだ。自分たちの理解を超えた存在を怪物と呼び、まず武力で攻撃し、支配しようとする。そうやって、力のない国や貧しい人々を支配してきた」 「武力による支配に関しては、私も思うところはある。しかし、この船だって、今までたくさんの船を沈めてきたじゃないか! だから合衆国政府が今回の討伐を決めたんだ」 「私たちは軍艦しか攻撃しない。それも、船を沈めたことは一度もない。第一、この潜水艦には大砲も魚雷も積んでいない。体当たりして、航行機能を奪うだけだ」
ハンスの言葉に嘘はないようだった。しかし、ネッドにはどうしても腑に落ちないことがあった。
「でも、僕の船を襲ったのは、こんな機械じゃない。生き物です! 本当の怪物なんです!」 「え? 他にも怪物がいるのか?」
アロナックスが驚く。
「父さんは……クラーケンだと」
その名前を聞いた瞬間、ハンスは声を上げて笑った。
「あはははは! クラーケンか。あいつに襲われたのか。ネッド君、クラーケンに襲われて生きているなんて、君は本当に運が強いね」 「クラーケンを知っているんですか! 教えてください、僕は父さんの仇が討ちたい!」
ネッドの悲痛な叫びを、ハンスは冷酷なまでに現実的な言葉で切り捨てた。
「無理だ。あきらめたまえ。君ではあいつを倒すことはできない」 「それでも……! 僕は父さんの仇が討ちたい!」 「あきらめずに海を探していたら、運が良ければまた会えるかもしれない。いや……運が悪ければ、のまちがいかな」 「僕は、絶対にあきらめない」
まっすぐに見つめ返してくる少年の強い瞳を、ハンスは無言で受け止めた。
「ねえ、私たちはどうなるの?」
不安そうに尋ねるメアリーに、ハンスは淡々と答えた。
「しばらくはこの船の人質になってもらう。と言っても、船の中を自由にしていてくれて構わない。逃げようとしても、どうせ外は海の中だ」 「自由にと言われても、こんな風に縛られていては……」 「失礼。縄をほどいてやってくれ」
ハンスの合図で、乗組員たちが三人の手首の縄を手際よく解いた。自由になった手首をさすりながら安堵する三人の前で、ハンスが思い出したように声を張った。
「ああ、そうだ。ハンナ、ハンナ」
呼ばれて部屋に入ってきたのは、南アジア風の鮮やかな服装に身を包んだ、美しい女性だった。
「はい、お呼びですか」 「彼女はハンナ。彼女の乗った船もクラーケンに襲われてね。海を漂っていたのを、私が助けた」 「一人で?」
メアリーが尋ねる。
「いいえ。私の妹たちは、島にいます」 「島?」
アロナックスが首を傾げた。
「場所は言えないが、バルケニアという島に、たくさんの人々を匿っている。彼女はどうしても私たちのために働きたいと言うので、家族をその島に残し、乗船しているのだ。君たちの世話は、彼女に頼もうと思う。お願いできるか、ハンナ」 「はい、わかりました」
ハンナが穏やかに微笑む。
「その島には、この船を作った偉大な科学者が……」
ハンスはそこまで口にして、ふと我に返ったように言葉を濁した。
「偉大な科学者? 誰です、それは」 「いや……おしゃべりが過ぎたようだ。いずれ分かります」
ハンスは海軍風の帽子を深くかぶり直すと、三人に――そしてまるで、この先の壮大な冒険を見守る誰かへ向けるように、優雅に頭を下げた。
「地上の人間はまだ海の本当の姿を知らない。海の中こそが、真の自由です。地上の争いや支配から解き放たれた、人間が本来あるべき素晴らしい世界が、ここには広がっている。私と共に、海の素晴らしさをその目で見ていただきたい」
その顔には、地上への怒りだけでなく、海という大自然に対する深い愛情と誇りが満ち溢れていた。アロナックスはそのスケールの大きさに圧倒され、ネッドとメアリーも思わず言葉を失う。
「さあ、ようこそ皆さん。ノーチラス号へ!」
歓迎の言葉とともに、ハンス艦長はアロナックスへ振り返った。
「教授、あちらでお茶でもいかがですか? 海洋生物の分類について、ぜひじっくりとお話を聞きたいのですが」 「おお! こちらの方こそ、ぜひこの船についても、あなたにお聞きしたいことは山ほどある!」
目を輝かせるアロナックス。
「わたしも行きます!」
メアリーも慌てて後を追う。
笑い合うアロナックスとハンス艦長を先頭に、一行は未知なる鉄の船の奥へと足を踏み入れていく。深海を駆けるノーチラス号の、真の冒険が今、幕を開けたのだった。
今回もありがとうございます! ようこそ、ノーチラス号へ! ついに姿を現したハンス艦長。冷徹そうに見えて、どこか深い信念を感じさせる人物ですね。 ネッドの復讐相手が船ではなく「クラーケン」だと判明し、事態は思わぬ方向へ転がっていきます。果たして彼らはこのまま人質になってしまうのか?
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