【第三章:軍艦スコーシア号と鉄の怪物】
最新鋭の軍艦スコーシア号での航海が始まりました。 学者肌のアロナックス教授や、少しおっちょこちょいなメアリー(とバケツ)も登場し賑やかになりますが……ついに彼らの前に「あの怪物」が姿を現します!
どこまでも広がる青い空と、太陽の光を反射してきらめく青い海。大海原を力強く進む最新鋭の軍艦・スコーシア号の甲板で、ネッドは大きなバケツを傍らに置き、汗を流しながら甲板の掃除に精を出していた。
水平線の向こうには、まだ見ぬ遠い島や知らない街が待っている。初めて出会う人々、初めて聞く言葉。悲しみを抱えながらも、少年の目にはこの広い世界への希望と興奮が確かに映っていた。
「どうだい、ネッド。もうこの船には慣れたかい?」
背後から声をかけてきたのは、ファーガラット少佐だった。
「はい。仕事は大変ですが、皆さんが優しくしてくれますし……僕には怪物を倒すという目的もありますから」
ネッドはそう答えると、少しだけ不満げに口を尖らせた。
「それにしても、怪物のやつ、全然現れてくれませんね」
使っていたバケツと掃除道具を邪魔にならない場所へ片付けるネッドを見て、少佐は苦笑した。
「海は広いからね。そう簡単には会えないさ」 「この海のどこかにあいつがいるんです。必ず見つけてみせます」
ネッドが力強く宣言した、その時だった。二人の視線の先、甲板の反対側で、こそこそと怪しい動きをする二人組の船員がいた。彼らは大きな木樽を抱え、中身を海へ流し捨てようとしている。 いち早く異変に気づいた少佐が、鋭い声で一喝した。
「お前たち、そこで何をしている!」
ビクッとした二人は、慌てて樽をその場に放り出し、脱兎のごとく逃げ出してしまった。少佐が忌々しげに吐き捨てる。
「工場から出た毒の水だ。処理に困った工場に頼まれて、沖の海に捨てるのを、お金欲しさにやっている船員が時々いるんだよ。工場の近くで海が汚れて問題になると、誰も見ていない遠い沖に捨ててしまおうと考えるやつがいるんだ」
ネッドは信じられないという顔で海を見つめた。
「そんなことを……」 「他の船ならともかく、私の船ではそんなことは絶対にさせないさ」
少佐は声を張り上げ、他の船員たちを甲板へ呼び寄せた。
「おい! この樽を直ちに片付けろ。他にもあるかもしれないから探すんだ。持ち込んだやつを必ずあぶり出せ!」 「はっ!」
指示を受けた船員たちが慌ただしく樽を運び去っていくのを見届け、少佐は怒りを鎮めるように息を吐いた。
その直後、背後の通路からガランッ、ガシャン! という派手な金属音と、甲高い悲鳴が響き渡った。
「きゃあー! なんで、どうして!」
通路からパニック状態で飛び出してきたのは、うら若き女性、メアリーだった。驚くべきことに、彼女の片足にはすっぽりと金属製のバケツがはまっている。
「どーしてこんなところに、こんなものがあるのよ!」 「メアリー、待ちなさい。メアリー!」
バケツを鳴らして暴れる彼女の後を、海洋生物学者のアロナックス教授が慌てて追いかけてきた。そのバケツに見覚えのあるネッドは、「しまった」という顔で固まった。
「取れない! 取れない! なんでー!」 「ごめんなさい! 僕があんなところにバケツを置いていたから……」
ネッドと教授がかり出され、必死になってメアリーの足からバケツを引き抜こうと奮闘する。 スポンッ! 勢いよくバケツが外れ、メアリーはようやく自由を取り戻した。
「もう! あなた誰よ! なんでこんな軍艦に子供がいるの!」 「ごめんなさい、ごめんなさい!」
平謝りするネッド。その様子を見ていた教授が、やれやれとため息をついた。
「少佐、この子はなぜこんな船に乗っているのですか?」
教授の問いに、少佐はネッドの肩に手を置いた。
「この子はネッド・ランド。父親と一緒に漁をしていて、あの怪物のせいで父親を亡くしたんです。どうしても怪物を倒したくて、この船に乗っている。……ネッド、こちらのお二人は、海洋生物学者のアロナックス教授と、助手で姪御さんのメアリー・コンセイユさんだ。怪物の研究のためにこの船に乗っておられる」
少佐の紹介を聞き、教授はネッドの境遇に同情しつつも、学者としての探究心を隠しきれずに身を乗り出した。
「それじゃあ君は、怪物を見たことがあるのか? どのくらいの大きさだった? どんな奴だ。魚か、恐竜か、それとも鯨だったか?」 「それが……闇の中で光る二つの目を見ただけで。父さんに木箱の中に押し込められていて、どんな姿かは見ていないんです」 「そうか、それは残念だ。何か怪物の手がかりがあればと思ったんだが……」
肩を落とす教授に、ネッドは思い出したように付け加えた。
「でも、父さんは怪物のことを『クラーケン』と呼んでいました」 「クラーケン……。神話の中で、海の神ネプチューンが天罰を下す時に使う海の怪物の名前じゃないか」 「ええ。漁師仲間たちの間で、海から戻ってこない者がいると、みんな『クラーケンにやられた』と言っていました」 「それは興味深い……」
教授が顎に手を当てて唸っていると、メアリーがネッドの顔をまじまじと覗き込んできた。
「あなた、本当に怪物と会ったことがあるの? 子供のくせに怖くなかったの?」 「怖くなんかないさ。僕は父さんの仇を取るんだ」 「子供なのに」 「子供じゃない! 僕はもう15歳だ!」 「だーかーら、子供だって言ってるのよ」
意地を張る少年と、からかうメアリー。
「やれやれ……メアリー、君は足元もよく見えないからバケツに足を突っ込むんだ。だから、メガネをかけた方がいいといつも言っているだろう」
教授は呆れながら、懐から折りたたみ式の小洒落たメガネを取り出して差し出した。
「嫌です! あんな格好悪いもの!」
メアリーは即座に言い返した。美しい海の景色を見渡そうと目を細めるが、ひどい近視の彼女には、やはりぼやけてよく見えない。
「騙されたと思って、かけてみなさい」 「……絶対に変ですわよ」
渋々といった様子でメガネを受け取り、メアリーがそれを顔にかける。その瞬間、彼女の表情がパァッと明るく輝いた。
「まぁ……! なんてクリアなの! 波の飛沫まで、世界がこんなにはっきりと見えるなんて!」
瞳の奥で知的なレンズをきらりと光らせ、メアリーはすっかりメガネが気に入ったようだった。
カンッ! カンッ! カンッ! 突如として、見張り台からの鐘の音が甲板に鳴り響いた。
「リーデン・ブロック、どうした! 何があった!」
少佐が伝声管に向かって叫ぶ。
『こちら物見のリーデン・ブロック! 船の最上部より、いち早く海の異変をお知らせする栄えある任務に就く者です!』 「彼は一体、誰に説明してるんですか?」 「気にするな……いや、なんでもない」
ネッドの素朴な疑問を、教授が誤魔化すように打ち切る。
『右舷距離200、10時の方向に水しぶき!』 「あっちだ!」
少佐の指差す方向へ、全員が急いで移動する。メガネをかけたメアリーの視界には、今度こそはっきりとその光景が映っていた。 海面から大きな水しぶきが上がり――巨大な鯨が背中を見せ、すぐに海中へと消えていった。
「……鯨でしたね」 「鯨だな」 「鯨です」
三人が落胆するなか、再び伝声管から声が届く。
『正体不明の巨大生物でした!』 「鯨だろ」
少佐がすかさず言い放つ。
『……もしかしたら鯨の可能性もあります』 「どう見ても鯨だったろうが」
教授も呆れ顔で吐き捨てる。
『…………』 カタンッ。 無情にも伝声管の真鍮の蓋が落とされる音が響き、全員が深い溜息をついた。
しかし息つく暇もなく、再び鐘がけたたましく鳴り響いた。
「どうした!」 『右舷3時の方向! 距離300! 水面が盛り上がってます!』 「こっちだ!」 『怪物です! 怪物が現れました!』
リーデン・ブロックの悲鳴のような報告。 海面が大きく盛り上がり、激しい水しぶきの奥から、不気味に光る二つの「目」が現れた。
「違う! あいつじゃない!」
それを見た瞬間、ネッドが叫んだ。
「何を言ってる、あれが怪物だろう!」
少佐が怒鳴るように返し、教授は目を丸くした。
「あれは……一体。まさか!」 「総員戦闘準備! 全砲門開け!」
少佐の号令とともに、スコーシア号の側面の扉が一斉に開き、重厚な大砲がずらりと顔を出した。
「甲板は危険です! 早く階下に避難してください!」
少佐の怒声を受け、教授がメアリーの腕を引く。
「わかった、行こうメアリー!」 「撃て!!」
轟音とともに、スコーシア号の大砲が一斉に火を噴いた。 怪物の周囲に着弾し、いくつもの巨大な水柱が立ち上がる。その中の一発が、怪物の身体に直撃した。しかし――。
ガァァァン!!
響き渡ったのは、肉を砕く音ではなく、硬い金属が弾き返される重厚な音だった。 その異様な音に、避難しかけていた教授が立ち止まる。メアリーも不思議そうに、甲板に転がっていたバケツを叩いてみた。カンッ、と同じような音が鳴る。
「あれは……」
教授が息を呑む。
「怪物なんかじゃない!」
ネッドが叫ぶ。
「船だ!」
少佐とネッドの声が重なった。
「金属でできた、潜水艦だ!」 「せんすい・かん……?」
メアリーが目をパチクリとさせる。 砲煙を掻き分け、海面から完全にその姿を現したのは、鈍い光を放つ正体不明の巨大な鉄の潜水艦だった。
「海の中を移動できる船だ……」
教授が圧倒されたように呟く。
「あれは父さんの仇じゃない! 父さんの船を襲ったのは、あんな船じゃなかった!」
ネッドは激しく首を振った。
『修正です! あれは怪物ではありません! もしかしたら海に潜ることのできる金属の何かの可能性があります!』 「船だ!!」
間の抜けたリーデン・ブロックの報告に、三人の声が見事に重なった。
スコーシア号の猛烈な砲撃の中、その謎の潜水艦は怯むことなく真っ直ぐに接近してくる。そして、スコーシア号の目の前で滑るように海中へと潜った。 次の瞬間、下から突き上げられるような凄まじい衝撃がスコーシア号を襲った。
「どうした! 何があった!」 「きゃあ!」
大きく船体が傾き、メアリーがバランスを崩して宙に投げ出されそうになる。間一髪でネッドと教授が両脇から彼女を支え、不格好な体勢のまま持ち堪えた。
「あ、ありがとう……」 『怪物ではない! 海に潜ることのできる船が、船底に体当たりしたようです!』 「だから、潜水艦だ!」 『その怪物でない、海に潜ることのできる、潜水艦が……っ!』 「どうした!」
少佐が怒鳴る。
『また、来ます!!』 「えっ!?」
ズドォォォォン!!!
先ほどとは比べ物にならない、耳を劈く轟音と大揺れが船を襲った。 その凄まじい衝撃で、甲板の隅に置かれていた木樽の山が崩れ、猛スピードで転がってくる。
「きゃああああ!」 「うわぁぁっ!」
回避する間もなかった。樽の直撃を受けたネッド、アロナックス教授、そしてメアリーの三人は、もつれ合うように甲板の端へと吹き飛ばされた。 大きな水音とともに、三人は荒れ狂う海へと投げ出される。 波間に落ちていくその瞬間、メアリーの顔にしっかりと掛かっていたメガネのレンズが、水しぶきの中で虚しく光を反射していた。
「教授! ネッド! メアリー!」
少佐が慌てて甲板の端から海を見下ろすが、波間に三人の姿は見えない。
「誰か! 誰かいないか!」 「少佐、どうされました!」
駆け込んできた水兵に、少佐は血相を変えて命じた。
「大変だ! 人が海に落ちたぞ! ボートを出す準備をしろ!」 「はい、直ちに! ……ボート下ろせぇー!!」 『スクリューがやられました! スコーシア号は動力走行ができなくなりました! 潜水艦は見当たりません!』
最悪の報告がもたらされる中、少佐は海面を睨みつけ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「破損箇所の修理を急げ! それから……とにかく、海に落ちた三人を絶対に見つけるんだ!」
機能を失い、海の上の漂流物と化したスコーシア号。その甲板で、ファーガラット少佐の悲痛な命令だけが、虚しく海風に吸い込まれていった。
第3章をお読みいただきありがとうございます。 アロナックス教授とメアリーの登場で少し和んだのも束の間、ついに「鉄の怪物」との激突! 大砲すら弾き返す相手に海へ投げ出された三人は、一体どうなってしまうのでしょうか……。 (メアリーのメガネへのこだわりとバケツのくだり、書いていて楽しかったです笑)
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