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袖口の光(伯爵視点)

伯爵視点です。

「来月、キースたち一家が本邸に移り住んでくる。それと入れ替わりで、私は別邸に移る。最低限の使用人だけを連れて行くつもりだ。

妻は引き続き本邸で暮らすので、そちらに使用人を多めに配置してくれ。

お前たちは、新しく伯爵となるキースを執務面で助けてやってほしい」


 私の宣言に、家令は家政婦長と顔を見合わせた。家令が疑問を口にする。


「⋯⋯別邸に奥様をお連れにならないのですか?」

「本邸は広い。キース一家とは別に妻の居住スペースを確保してもまだ余裕がある。キースは了解済みだから問題ない」

「しかし」

「⋯⋯正直なところ、妻がおそろしくてたまらない」


 そう、妻は相変わらずだった。息子の面影を求めて屋敷内をさまよっている。


「⋯⋯旦那様の瞳に、奥様はそう映っているのですね」


 それまで黙っていた家政婦長がぽつりとつぶやいた。「ところで」とやや冷たい真顔で言う。


「旦那様はいつも同じカフスボタンを愛用しておられますね」


 いきなり話題が飛んで戸惑う。自分の袖口を見る。若いころから身につけているカフスボタンが、パールの淡い輝きを放っていた。


「ああ、これか。デザインが気に入っていてな。いつも着けてるのだ」

「デザインが⋯⋯ですか」


 なぜいきなりカフスボタンの話になったか、家政婦長の意図がわからない。ひとまず思ったままを口にしたら、家政婦長は眉間にしわを寄せた。


「では、それを旦那様に贈ったのが奥様だったことは、覚えていらっしゃいますか?」

「妻が?」


 まったく覚えていない。家政婦長はこめかみをおさえて言った。


「新婚のころに奥様がカフスボタンを贈られたのです。

あの頃、旦那様は先代から爵位を引き継いだばかりで多忙を極めていました。奥様は家政を取りしきるかたわら、旦那様の執務を手伝っておられました。でも領地の視察など、奥様が補佐できない場面もあります。

『私がそばにいられないときでも、旦那様に寄り添えますように』と願いをこめて、そのカフスボタンをプレゼントしたのです」

「⋯⋯」


 かすかに覚えている。エドワードが生まれる前、一番つらくて大変な時期を支えてくれていた。その彼女に私は何をしただろう。余裕がなくて、労りの言葉をかけてくれる妻を適当にあしらっていた。


「奥様はどんなに冷たくされても、旦那様を信じていました」


 もうやめてくれ、という言葉をかろうじて飲み込む。聞きたくなくても、聞かねばならぬこともあるはずだ。


「奥様と会話すら面倒がる旦那様を見ても、お忙しいのだろうと擁護されていました。まあ、旦那様が侍女と通じたときはさすがに取り乱しておられましたが⋯⋯。

奥様が旦那様への揺るぎない信頼を持っていたから、私どもも旦那様に誠心誠意お仕えできたのです」

「⋯⋯」

「旦那様が一番辛いときに奥様は寄り添い続けた——カフスボタンはその証明です。

人の心の内はほかの人にはわかりません。でも今、奥様はおそらく人生で一番辛い思いをしているはず。旦那様は『おそろしい』とおっしゃいましたが、私はそう思いません。エドワード様という心の支えを失い、必死に光を求めてもがき苦しんでいらっしゃるように見えます」


 私には見えないものが、家政婦長には見えているようだった。


「旦那様⋯⋯。奥様はもう誰のこともおわかりにならないようです。ご実家から連れてきた侍女も、嫁入りしてからずっとそば近くお仕えしてきた家政婦長や私のことも。

⋯⋯たった一人、旦那様を除いては」


 家令がそっとささやくように言う。そういえば、妻は私が誰かわかっている様子だった。


「キース様がいらっしゃるまで、まだひと月あります。旦那様、別邸に行く前にどうか一度立ち止まり、お考えください。

旦那様はエドワード様や、伯爵の地位⋯⋯いろいろなものを失いました。でもまだ失っていないものがあるはずです。

ずっと寄り添い続けてくれたのは誰か、旦那様が向き合いたいと思う存在はいないのか⋯⋯旦那様がどんなご決断をしても、私どもはお支えする所存です」


 袖のカフスボタンをそっと外す。左手に乗せ、右手の指の腹で横から支えるように触れてみた。カフスボタンは、ろうそくの明かりを映して温かい光を放っていた。

これで伯爵視点は終わりです。次回から主人公視点に戻ります。


明日土曜の夕方に完結します!最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。

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