1-1 最高で最幸な最低のスタート
―――ん?
眩しさに灼かれた両目を、薄皮を剥ぐようにそっと開く。
視界に飛び込んできたのは、見知らぬ街並みと、天高く輝く太陽。そして、ザァザァと音を立てて涼やかな飛沫を上げる、巨大な石造りの噴水だった。
――――――えっ?
頭の理解が追いつかない。
呆然と立ち尽くし、壊れた人形のようにキョロキョロと首を振る私を、行き交う人々が奇妙なものを見る目で避けていく。
その誰もが、中世ヨーロッパを思わせる、しかし明らかに現代日本とは異なる奇妙な意匠の衣服を身にまとっていた。
はぁっ?
開いた口が塞がらないとはこのことか。
一点を見つめて硬直している私に、周囲の歩行者たちが次々と足を止める。
その瞳に浮かんでいるのは、明らかな「哀れみ」の色だ。
少し離れた場所では、数人の住人がこちらを指差し、ひそひそと囁き合っている。
「……最近暑かったからねぇ……」
「お可哀想に、頭をやられちまったんだわ……」
いや、いやいや、いやいやいやいや、ちょっと待って!
―――えっ?
さっきまで、おれは海にいたはずだ。
なのになぜ、こんな見知らぬ街の広場に突っ立っているんだ?
――え? 夢?
昨日、あの悪魔的な出来事に脳汁をぶちまけ、ついに本格的な白昼夢でも見ているのか?
ん? ん? ん? ん?
脳内のパニックは完全に肉体へと出力され、頭を抱えて天を仰ぎ、ステップを踏むように狼狽のポージングを、無言で数パターン流麗に決めたところで、おれの周囲からスッと人混みが引いていった。
「お兄ちゃん、変な人?」
不意に、足元から鈴を転がすような声がした。
見下ろすと、そこには一人の小さな女の子が、首を傾げ、物珍しそうな目でこちらを覗き込んでいる。
おれは――とりあえず深く頷いた。
「じゃあ、お花買って」
少女は事も無げに、笑顔で一輪の可憐な花を差し出してきた。
……待て、「じゃあ」の因果関係がまったく分からない。
「買ってくれないと、とりあえず泣くよ?」
少女は天使のような、とびっきりの笑顔で微笑んでいる。
……「とりあえず」の汎用性の高さに恐怖を覚える。
不審者として怪しい、正体不明の男
+
いたいけな少女の涙(偽証)。
=
それすなわち……社会的抹殺(詰み)。
「……1本、いくらだい?」
全面降伏を選択したおれが力なく問いかけると、少女は満面の笑みで金額を提示してきた。
手持ちの金なんてあるわけ――そう思いながら、身につけている衣服のポケットをゴソゴソと漁る。
お、あった。
指先に触れた金属の感触。引っ張り出してみると、金色の輝きを放つ硬貨が1枚と、鈍い銀色の硬貨が5枚。
ん? 待て。この硬貨、見覚えがある。
え? まさかこれ、昨日までおれが財を投げ打ち、文字通り脳汁をぶちまけていたあのゲームに出てくる通貨じゃないのか……?
―――どういうことだ?
脳細胞をフル回転させ、いくつかの仮説を組み立てる。
そして、おれの頭の中に、ある一つの恐ろしい、いや、狂おしいほどの疑問が浮かび上がってきた。
そんなはずはない。そう思いながらも、おれは銀貨を1枚指先でつまみ、少女に差し出した。
「……この硬貨は、この国の硬貨であっているかい?」
さっきまでとびっきりのビジネススマイルを浮かべていた少女の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
念のための確認だよ、と慌てて弁明したが、少女がじりじりと後ずさりしていくのを肌で感じる。
「お兄ちゃんは変な人じゃなくて、【残念な人】だったんだね。
……そうだよ、これがこの国で使用されているお金だよ。でも、大きいお金しか無いんだね?
仕方がないなー。じゃあ、この籠いっぱいのお花と、その銀貨1枚で手を打ってあげる!」
少女は少し離れた安全圏から、おれの手元へ花の詰まった籠を押し付け、代わりに銀貨を1枚、猛禽類のような素早さでひったくり、瞬く間に人混みの向こうへと走り去っていく。
……「仕方がない」という言葉の辞書的定義がゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。
おれは大量の花が入った籠を抱えたまま、力なく噴水の縁へと腰を下ろし、じっと前を見つめ、完全に魂の抜けた状態で固まった。
先ほどよりもさらにアヴァンギャルドで奇妙な、【花を抱えて虚空を睨む不審者】という名の噴水オブジェが完成した瞬間だった。
――えっ?
――ちょっと待って?
―――――まじか……?
――そうなのか?
――本当に?
―――――でも、そうとしか考えられない……!
おれは何度も脳内で自問自答を繰り返した後、改めて自分の格好を見下ろした。
そして、恐る恐る噴水の水面へと身を乗り出し、水鏡に映る自分の顔を確認する。
そこにあったのは、見慣れたおれの冴えないリアル顔ではなかった。
それは、おれが何万時間と費やしてきた、あのゲームの【アバター】そのものの容姿だった。
かつて数十万円の重課金で揃えた神話級の最強装備ではなく、布切れ一枚のような、文字通りの初期装備ではあったが、間違いなく、おれが作ったキャラクターの姿だった。
ここまで材料が揃ってしまえば、もう疑う余地など、どこにもない。
―――おれは、
―――あの、ゲームの中の世界に、
―――転生したんだ……!!!??
気が付くと、おれは街の中をステップを踏むような軽快な足取りで爆走していた。
嬉しさが、興奮が、魂の底から溢れ出して止まらない!
会う人会う人に、籠の中の花を笑顔で渡して歩く。
当然、おれを見る人々の目には、激しい戸惑いと恐怖、そしてほんの少しの殺意が込められていた。
だが、そんなものは今の最高にハイなおれには関係なかった。
生きている世界に感謝、すれ違うすべての人々に圧倒的感謝、できることなら、この街の住人全員と濃厚なハグを交わしたい気分だ!
嬉しい!嬉しい!!嬉しい!!!
幸せだ!幸せだ!!幸せだ!!!
なんて素晴らしい日なんだ!!!
街行く人々がおれを見ている!
射殺すような視線で見ている!
あー、ありがとう! みんな愛してるよ!
どんな目を向けられていたって構わない!
でも、伝えられずにはいられないんだ!
この爆発しそうな感謝を!
みんなにもこのハッピーを届けたい!!
あー!!!
今日は、おれの新しい人生の、最高で最上のスタートだーー!!!
―――ガシャン!!!
少し時間が経過し、おれの脳内を満たしていた過剰なアドレナリンも、ようやく落ち着きを見せ始めていた。
冷え切ったコンクリートの床に座り込み、おれはふと思う。
……とりあえず、一度頭の整理をした方がいいだろう、と。
嬉しいのは分かる。
夢にまで見たゲームの世界なのだから、狂喜乱舞するのも無理はない。
しかし、今までの平穏な現代社会の生活から、何もかもが異なる異世界へと来てしまったのだ。
ちゃんと落ち着いて現状を分析し、しっかりと今後の生存計画を立てる必要がある。
冷静になれ。
そうでなければ、この先どんな初見殺しの危険が潜んでいるかも分からない。
落ち着いて、大人の行動計画を立てるんだ。
よし。
とりあえず今、おれの目の前には頑丈な鉄格子の壁があり………おれはその内側にいるようだ。(収監)
大丈夫。
いたって冷静だ。
こうなった理由は判っている。
判りたくもないがな。
おれは部屋の隅に置かれた、お世辞にも寝心地の良さそうとは言えない固いベッドへと横たわり、天井を見つめながら、改めて「異世界ライフ(初日・前科一犯)」の今後の計画を立て始めるのだった。




