第Ex話:受付嬢アネットの受難その⑨『私だって幸せになりたい』
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夜のファルメルは、音が少ない。
支部の職員寮。狭い自室で、私――アネット・レクベルは、安物の化粧水を頬に叩き込んでいた。
(……保湿。保湿は裏切らない。この街の乾燥は敵だけど、私は負けない)
ここに来てもう何年?
代わり映えしない日々に、私は不安になる。
首都へ戻るための階段を、私はちゃんと積めているのだろうか。
「……いけない、いけない。ネガティブになるとお肌に悪いわね!」
頬を軽く叩いて、鏡台の引き出しから櫛を取り出そうとして。
指先が、奥のほうで、小さな硬いものに触れた。
(……あ)
古びた革紐に通された、割れた銅色のプレート。
ランプの灯りを吸い込んで、鈍く光る。
私はそれを、手のひらに乗せた。
もう何年も、こうして引き出しの奥に仕舞い込んだままだった。
見るたびに、思い出してしまうから。
(……お父さん)
窓の外で、風が鳴った。
私はプレートを握ったまま、ベッドに腰を下ろす。
たまには、いいだろう。
思い出すくらい。
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私は、冒険者の父の下で育った。
首都エテル・イドリアの下町。長屋の二階。
銅等級の、それなりに優秀な冒険者。それが私のお父さんだった。
「ただいまー」
夕方、父が帰ってくると、家の中に匂いが広がる。
鉄と、土と、ほんの少しの血の匂い。
だが、子供の頃の私は、その匂いが好きだった。
それは「お父さんが帰ってきた」匂いだったから。
「おかえりなさいっ!」
玄関に飛びついていく私を、父は泥だらけの腕で抱き上げる。
母が「もう、汚れるでしょ」と笑いながら怒る。
それが我が家の毎日だった。
裕福ではなかった。冒険者の稼ぎは水物だ。
いい依頼が続いた月は夕食に肉が並び、悪い月はスープの具が減った。
それでも、なんとか首都近郊で暮らせるくらいの、平々凡々な家庭。
「わたしはね~、大きくなったら、お父さんみたいに強い人と結婚するのっ!」
食卓で、私はよくそんなことを言っていた。
母は「あらあら」と笑い、父は照れくさそうに頭をかいて、それからいつも、こう言うのだ。
「アネットは賢いからな。しっかり勉強すれば、きっといい相手が見つかるよ」
父は無茶をしない人だった。
銅等級には銅等級の依頼がある。
身の丈に合った仕事を堅実にこなし、日が暮れる前に帰ってくる。
だから私は、疑いもしなかったのだ。
明日も、明後日も、その次も、父はあの匂いと一緒に帰ってくるのだと。
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転機は、私が十歳の年に来た。
町の教師が、私に学院の推薦状を書いてくれたのだ。
首都でも指折りの、いい学校。
卒業生の多くが官吏や、大商会や、ギルドの上級職に進むという。
「うちの子が……?」
母は推薦状を持ったまま、しばらく固まっていた。
いい学校は、いい相手に繋がる。それは下町の常識だった。
でも同時に、いい学校は――高い。
「行かせよう」
即答したのは、父だった。
「アネットは賢い。ここで伸ばしてやらんでどうする」
「でも、あなた……」
「大丈夫だ」
それなりに蓄えはあったはずだ。堅実な父のことだから。
でも、入学金と、教材と、毎年の学費と……それが何年も続くとなれば、話は別だった。
その日から、父は変わった。
依頼の数が増えた。帰りが遅くなった。
日帰りだった仕事に、泊まりの遠征が交ざるようになった。
食卓に着く父の装備には、見たことのない傷が増えていった。
「お父さん、だいじょうぶ……?」
「おう、平気平気。制服も靴も似合ってるじゃないか」
真新しい制服。ピカピカの革靴。
私はそれが誇らしくて、嬉しくて。
その一つ一つが、父の「引き際」を少しずつ削っていることに――気づかなかった。
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その日は、朝から雨だった。
夕方になっても、父は帰らなかった。
夜になっても、帰らなかった。
代わりに翌朝、家の戸を叩いたのは、ギルドの職員が二人と、父のパーティの仲間だった。
仲間の男は、包帯だらけの手で、布包みを差し出した。
母がそれを開く。
中に入っていたのは、大ぶりの魔石が一つと、真ん中で割れた、銅のプレートだった。
「……巣の、奥でした。回収できたのは、これだけで……」
「本当なら、銀等級に回すべき依頼だったんです。でも報酬が良くて、あいつがどうしてもって……すみません。俺たちが、止められていれば……」
母は泣いていた。
声を上げて、床に崩れて、布包みを抱きしめて、泣いていた。
私は、泣けなかった。
ただ、母の手の中の魔石を見ていた。
深い赤色の、綺麗な石。
父が最後に狩った魔物の、心臓だったもの。
父は、弱かったわけではない。
無理を、してしまっただけだ。
私の、学費のために。
冒険者の死は、この国では日常だ。
葬儀は簡素で、ギルドからの見舞金は驚くほど薄かった。書類が一枚。判が一つ。
それで父は、ギルドの台帳から消えた。
あの魔石は、換金された。
大ぶりの魔石は、いい値がついた。
母はその金に、しばらく手をつけられずにいた。
「……学校、辞めるよ。私、働く」
私がそう言ったとき、母は初めて、私を本気で叱った。
「それだけは許さない」
腫れた目で、母は言った。
「あの人が命懸けで残したものを、無駄にするのだけは、許さない」
だから私は、学校に残った。
父の命の値段で買った椅子に座り、私は決めた。
もう一ガルドだって、この家に無理はさせない。
私は必死に勉強した。成績が良ければ、学費は補助される。
特待の枠に入れば、教材費まで出る。
トップの成績なら、就職の推薦までついてくる。
血を吐くほど勉強しながら、私は将来を考えた。
お父さんみたいに強い人と結婚したい――幼い夢は、まだ胸の中にあった。
でも、その隣に、あの日の母の泣き声が、こびりついて離れなかった。
強い人と結婚するということは、帰らない夜を待つということだ。
割れたプレートを、布包みで受け取るということだ。
(……それなら)
それなら私は、防ぐ側に回ろう。
依頼の危険度を正しく測り、身の丈に合わない依頼から冒険者を遠ざけ、父のような『事故』を、一つでも減らせる仕事。
ギルドの、職員に。
私は、なりたかった。
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そして私は、なった。
首席にはなれなかったが上位の成績。
学院からの推薦を貰い、狭き門と言われるギルド本部採用を、私は勝ち取った。
母は泣いて喜んでくれた。
でも、現実は理想とは――少しだけ、ずれていた。
ギルド職員の仕事は、冒険者を危険から遠ざけることではなかった。
冒険者を、危険に向かわせることだった。
考えてみれば当たり前だ。
危険な仕事を、報酬と引き換えに斡旋する。
それがギルドという組織なのだから。
カウンターに積まれる依頼書は、一枚一枚が「誰かに危険を冒してもらうための書類」で、私の仕事はそれを、滞りなく捌くこと。
危険度の査定に、私の意見が通る余地はほとんどなかった。
厄介な案件も、割に合わない案件も、誰かに引き受けさせなくてはいけない。
断られれば、言葉を選んで、報酬を調整して、押し付ける。
それが「優秀な職員」だった。
ある日、一件の死亡報告を処理した。
鉄等級の、若い剣士。名前に、見覚えがあった。
半年ほど前、私を食事に誘ってくれた人だ。感じのいい笑顔だったのを覚えている。
私は「仕事が忙しくて」と断った。
その名前を思い出すのに、三秒かかった。
三秒かかった自分に、ゾッとした。
私は判を押した。書類が一枚。判が一つ。
それで彼は、台帳から消えた。あの日の父と、同じように。
……冒険者に言い寄られるたび、父の最期がちらついた。
いい人だと思っても、頼もしいと思っても、ふとした瞬間に見えてしまうのだ。
その人のプレートが、真ん中で割れているところが。
布包みを抱いて泣く、未来の自分が。
(……等級の低い冒険者は、だめ)
じゃあ、どんな人なら?
蓄えがあって、いつでも冒険者家業から足を洗える人。
いっそ最初から、安全な場所にいる人。
上級職員。大商会の跡取り。あわよくば、貴族?
そうやって、理想はどんどん高くなっていった。
声をかけてくれる人はいた。
何人もいた。でも私は断り続けた。
「もっと素敵な人がいるはず」
「まだ若いし、焦る必要はない」
口ではそう言いながら、本当は分かっていた。
私は怖かっただけだ。
そして怖さから目を逸らすために、条件を吊り上げていた。
年収、等級、家柄、将来性。
数字と肩書きで人を選べば、割れたプレートを想像しなくて済むから。
あの日、食卓で『お父さんみたいに強い人と結婚するのっ!』と笑っていた女の子。
あの子が持っていたはずの、純真でまっすぐな期待。
私はそれを少しずつ削って、切り売りしていった。
一片は、恐怖のために。
一片は、見栄のために。
一片は、出世のために。
そしてある日、金等級パーティのリーダー、エリックに目が留まった。
金等級。実力も名声も財産もあって、いつ引退しても安泰な人。
この人なら。この人となら、私は怖がらずに済む。
だから私は、ほんの少しだけ、色を付けた。
規則違反ではない。受付に任された裁量の範囲。
誰だってやっている、ちょっとしたサービス。
その結果。
「アネット。お前はファルメル支部へ異動してもらう」
本部長の執務室で、私は立ち尽くしていた。
「褒められたことではないが……まあ、裁量の範囲だ。これ自体を咎めるわけではない。……やり方が、不味かったな」
不正ではない。誰だってやっていることだ。
でも。
でも、あの日の私が――父の机で血を吐くほど勉強していた、あの日の私が思い描いた「理想のギルド職員」は。
絶対に、やらないことだった。
「ほとぼりが冷めるまで、数年、他の支部で経験を積んでこい」
私だって。
「わかり……ました……」
私だって、幸せになりたい。
ただ、それだけだったのに。
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「…………」
気づけば、ランプの油が半分になっていた。
私は手のひらのプレートをじっと見つめる。
少しサビでくすんだ銅色のプレートは何も言わない。
(……ねえ、お父さん)
私は、あなたの言うとおり、賢かったよ。しっかり勉強もした。
……でも「いい相手」は、まだ見つかってない。
理想の職員にも、なれなかった。
あなたみたいな人の無理を止めるどころか、依頼を押し付けて、報酬で釣って、婚期のために裁量を使い倒す、そんな受付嬢になったの。
自分でも呆れるくらい、泥臭くて、矮小で、どうしようもない大人。
(……でもね)
それでも、私は。
鏡台の前に立つ。
二十八歳の女が、こっちを見ている。
目の下の疲れを化粧でごまかした、選り好みの果てに辺境まで流れてきた、婚活受付嬢が。
でも、その目は。
まだ、死んでいない。
明日も、カウンターに立つ。
笑顔で。完璧に。
今度こそ。今度こそ、うまくやってみせる。
「私ってば、笑顔がステキじゃない?」
私だって、幸せになりたい。
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