第54話:昨日よりマシな今日
ぜぇ、はぁ……と、俺の荒い息遣いだけがやけに大きく響いた。
(……なんて不自由なんだろうな)
何も考えず、何も気にせず、昔みたいに反逆者の首を落としちまえば簡単に終わる話なのに。
……それが俺の求めてた自由か?
違う。
ああ……自由ってのは、なんて不自由なんだろうな。
無理な体勢でリッチの攻撃を防いだ反動で、膝が笑っている。
俺は双剣を杖代わりにして、その場に片膝をついた。
「アリア様っ!」
柱の影からエステルが駆け寄ってくる。
その光景を見て、ニーコの口元が悲痛に、それでいて……どこか満足そうに歪んだ。
まるで、待ち望んだ結末が訪れたとでも言うように。
「ね…?やっぱり、そうでしょう…?私と一緒にいたせいで…。私の、この〈呪い〉のせいで、みんな、不幸になっちゃった…」
「ニーコさんのせいではありませんわ…っ!」
「おい、エステル、そいつに近づくな、下がってろ…!」
俺の制止も聞かず、エステルは瞳に大粒の涙を溜め、ぎゅっと胸の前で手を握りしめて意を決したように叫んだ。
「今朝!朝食のスープに、わたくしの大嫌いなニンジンが入っておりましたわ!」
「…………は?」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。
おそらく、ニーコも、その背後に立つリッチさえも、俺と全く同じ疑問を抱いたのだろう。
霊廟の緊迫した空気が、一瞬だけ、完全に弛緩する。
ニーコは、困惑の表情を隠せないでいた。
(……コイツ、今、なんつった……?に、ニンジン……?)
だが、エステルの必死の告白は、まだ始まったばかりだった。
「宿の階段を下りる時には、窓辺の小鳥さんに気を取られて、踏み外しそうになりましたわ!」
「ギルドに向かう前には、レンガ道のでっぱりに思いっきりつまずいて、転んでしまいましたのっ!」
「そのせいで、せっかく着替えたばかりのお気に入りのお洋服が、雪で泥んこになりましたわっ…!」
「わざとではありませんのにっ、アリア様はお怒りになって……」
エステルは、次から次へ、今日一日に自分を襲った『不幸』を、涙ながらに訴え続ける。
(……そうか)
俺は、片膝をついたまま、ふっと笑みを漏らした。
(そうだよな、エステル……!!)
「それから…!それから…っ!」
「もういい、エステル。…よく、わかった」
俺は、まだ頭に「?」を浮かべているニーコの方へ顔を向けると、ゆっくりと立ち上がって、再び双剣を構える。
疲労は、まだ身体にこびりついている。
だが、心は、不思議なほど軽かった。
「俺らの『不幸』は、お前のもんじゃねえってことだよ」
それは、これまで溜め込んできた全ての不条理と、それでもなお前へ進むという決意を込めた、反撃の咆哮だった。
「てめえ一人が、世界の不幸を背負ったみてえな顔してんじゃねえよ」
「な、何を言ってるんですか……?だって、現に、私のせいでアリアさんたちは……あれ……?」
ニーコの言葉が、途中でふっと途切れる。
ニーコは、自分の頬を伝う熱い雫に、まるでそれが異物であるかのように、恐る恐る指で触れた。
気づいていなかったのは、本人だけだった。
この戦いが始まってから。
いや、もっと前から。
この少女は、ずっと泣いていたのだ。
そのあまりにも痛々しい姿が、俺の中で燻っていた最後の何かを、完全に焼き切った。
「ごちゃごちゃと…うるせぇんだよ!」
俺は、床を踏みしめるように一歩踏み出す。
固く握りしめた拳が、怒りに震えていた。
「お前に近づいたから不幸になった、だぁ?笑わせんじゃねえ。俺はな、お前と出会うずっと前から、不幸と不運の連続だったんだよ!」
俺の過去が、言葉となって溢れ出す。
「クソみてぇな誇りを捨てて、クソ親父に見放され、こんなクソみてぇな冒険者になって!」
「ところ構わず、後先考えずに魔法をぶっ放す、木偶の棒みてえなバカを押し付けられ!」
「空からは、なんも知らない能天気な弩級のアホが降ってきて!」
「挙句の果てには、色ボケ野郎に毎日毎日、心底くだらねえ口説き文句を聞かされてんだよ!」
俺の叫びに、ジーンとガロードが一瞬だけこちらを見た気がした。
「でもな!今日の俺は、昨日の俺より不幸じゃねえ!」
「お前と居ようが『俺の明日は、今日よりマシなクソ』なんだよ!!」
俺は、一歩、また一歩と、絶望に囚われた少女へと歩みを進める。
「てめえが、本気で不幸だってんなら!」
「俺がまとめて救ってやるよ!」
「……ッ!」
ニーコの瞳が、恐怖と、そしてほんの僅かな期待のような色に見開かれる。
その隙を、俺は見逃さない。
「――〈シャドウステップ〉ッ!」
再び、俺の姿が影に沈む。
リッチが魔法を放とうとするが、その初速を捉えきることは、もはや不可能だった。
目の前に現れた俺に対し、ニーコは反射的に盾を構えようとする。
だが、その身体は動かない。
俺の言葉を拒絶しようとする心と、その言葉に救いを求めてしまった心が、相反する命令を出し、ニーコの身体をその場に縫い付けていた。
俺は、そんなニーコの、涙で濡れた顔を、真っ直ぐに見据える。
「歯ぁ、食いしばりやがれェッ!!」
剣も魔法も乗っていない。
ただの、俺の剥き身の拳が、ニーコの顔面を、痛烈に打ち据えた。
ゴッ、と鈍い音が響く。
その瞬間、ニーコを縛り付けていたリッチの黒い魔力が、まるで陽光に晒された霧のように、霧散した。
そもそも、弱くなった心に付け入らなければ、他人の意志を意のままに操るなどという芸当、そうそうできるものではないのだ。
ニーコを殴り飛ばしたその勢いのまま、俺は素早く剣を構え直し、リッチ本体へと突っ込む!
「〈エンチャント・ダーク・フレイム〉!!」
二振りの曲剣に闇と炎がまとわりつく!
(これで、終わらせる!……絶対に!!)
前衛を失ったリッチは、忌々しげにその腕を振り上げ、地面から新たなスケルトンを障壁として呼び出そうとする。
だが、その骨だけの腕が完全に振り上げられることはなかった。
ズドンッ!
リッチの橈骨と尺骨の、その僅かな隙間を、一本の光の矢が正確に穿つ!
「おやおや、淑女に手をあげるのは感心しないね」
分断されていた壁の向こうから、ジーンの声が響く。
僅かに湧き出しかけたスケルトンも、ガロードが巻き起こした突風によって、生まれる前に塵へと還された。
「…………」
もう腹が減ったから早く終わらせろ、とでも言いたげな無言の圧力だった。
リッチは、狼狽したかのように〈ダークボール〉を放つ。
だが、その漆黒の魔力は、あらぬ方向へと吸い寄せられるように逸れていく。
その先では、地に伏せたままのニーコが、必死の形相で顔を上げ、盾を構えていた。
「やっちゃえですわぁぁぁっ!!」
エステルの甲高い声援が、俺の背中を押す!
「うおおらぁあああぁぁぁっ!!」
「■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■…!」
リッチが咄嗟に展開した闇の障壁に、俺が振るう闇を纏う曲剣が衝突するっ!
同じ属性の力がぶつかり合い、互いを打ち消し合いながら弾け飛ぶっ!
障壁の余波が身を裂く痛みを生じさせようが、止まらない。止まるわけがない!
リッチが身に纏う衣のような黒いモヤが一瞬だけ薄くなった、その最後の好機を、俺が見逃すはずもなかった!
狙うはただ一点!先ほど視認した、リッチの鳩尾に埋まる、あの禍々しい核!
俺は、纏わせた炎の魔力を最大まで高め、燃え盛る剣を両手で突き立てる― ―!!
ビキッ…!
暗紫色の宝珠に亀裂が走る!
「■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!」
叫び声とも、呻きとも、断末魔とも取れる、苦痛に満ちた絶叫が霊廟全体を揺るがす。
パリン…。
ガラスが砕けるような、乾いた音。
核が砕け散るや、リッチの身体は形を失い、黒い霧の渦となって収縮していく。
周囲で戦っていた夥しい数のスケルトンも、主を失った操り人形のようにその場に崩れ落ちると、サラサラと砂になり、その渦の一部となって吸い込まれていった。
やがて、その渦が跡形もなく消え去ると、後には暗紫色の歪な魔石だけが、カラン、と音を立てて床に転がった。
墓所を覆っていた不気味なモヤはまるで嘘のように晴れ、魔力灯の淡い光は、陽光のように俺たちを照らしていた。
「やりましたわぁ!!!」
エステルが、ぴょんぴょんと跳ねながら、喜びを爆発させている。
「やれやれ、どうなることかと思ったよ」
ジーンは、肩を竦めながらキザな笑みを浮かべている。その背中の矢筒は、もう空っぽだ。
ガロードは、とっくに興味を失くしたのか、その場に座り込むと、ポーチから串焼き肉を取り出してがっついている。
そして、ニーコは…。
「アリアさん...!い、いえ、みなさんっ!わ、わたし、とんだご迷惑を...っ」
おずおずと、消え入りそうな声で謝罪するニーコに、俺はわざとらしく溜息をついてみせた。
「ちっ...ほんとによ。霊廟は壊しちまうし、エステルは服を破るし、ジーンの矢は無駄に使っちまったし、ガロードは骨は食えねぇってご機嫌ななめだ。とんだ災難だったぜ」
「あうぅ...」
俺の言葉に、ニーコはますます小さくなる。
「でもよ、ニーコ」
俺は、小さくなったニーコの前に歩み寄り、自分の手を無言で差し出した。
「お前は今日、不幸かよ?」
ニーコは、はっと顔を上げる。
差し出された俺の手と、俺の顔を、何度も交互に見つめる。
その瞳に、大粒の涙がみるみるうちに溜まっていく。
だが、それはもう、自己憐憫の涙ではなかった。
「......うふふ、昨日よりは、マシ…かも、です」
ニーコは、泣きながら、笑って俺の手を、そっと握り返した。
第六章:忌むべき道は過ぎ去りし道程(完)




