第35話:『自由』
パチパチと、焚き火の燃える心地よい音が、静かな夜の闇に響いている。
俺は、割り当てられたテントの中で寝袋に潜り込み、早く眠りにつきたかった。
だが、隣の寝袋に入ったエステルが、どうにも落ち着かない様子で、小さな声で話しかけてくる。
「まぁ、アリア様!ご覧になってくださいまし!お星さまが、まるでダイヤモンドを散りばめた天国の絨毯のようですわ!なんてロマンチックなのでしょう!」
テントの天窓越しに見上げれば、手が届きそうなほど近くに、無数の星が瞬いていた。
確かに、エステルの言う通り、息を呑むほど美しい夜空だ。
…だが、今の俺に、それを心から楽しむ余裕はなかった。
「……ああ、そうだな」
面倒くさそうに、それだけ返す。
(綺麗だな。だから、もう頼むから、黙って寝かせてくれ……)
(…今、外の見張りは、ガロードか。アイツ、ちゃんと起きてるんだろうな?何かあっても、声も出さねぇし、どうやって知らせる気だ?目覚ましの代わりに風魔法ブッ放したり……は流石にないよな…?〈リード〉で警戒はしてるだろうが…やっぱり不安だな)
「こんなにも素敵な夜空の下で、こうして眠りにつけるなんて……冒険者というのは、本当に素晴らしいお仕事ですわね!」
俺は溜息をつきたいのを堪え、適当な相槌を打とうとした。
だが、その前に、エステルが不意に俺を見て尋ねてきた。
「アリア様は、どうして冒険者になろうと思われたんですの?」
(……なんで、か)
その問いに、俺は少しだけ言葉に詰まった。
実家の息苦しさから逃げ出した……それが本音だが、こいつに話すわけにはいかない。
俺が黙っていると、「……アリア様?」と、エステルが不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……理由、ねぇ。なんだろうな」
俺は、テントの天窓から夜空を見上げるふりをして答える。
「……まぁ、ありがちなヤツだよ。『自由』ってのが、欲しかったのかもしれん。誰にも、何にも縛られずに、自分の力だけで生きていく……そんな生き方に、ただ憧れただけだ」
自分の過去を巧妙に隠しながら、当たり障りのない、しかし半分は本心でもある答えを返した。
「まぁ、自由!とても素敵ですわねっ!」
エステルは、なぜか自分のことのように、目を輝かせた。
そして、少しだけ寂しげな表情になり、ポツリと呟いた。
「……実は、わたくしも……お屋敷にいたころは、ずっと、ずっと『自由』というものに憧れておりましたの……」
「お前がか?話を聞く限り、それこそ何不自由ない、金持ちのお嬢様だったんだろ?」
俺は、少しだけ意地悪く、しかし純粋な好奇心から尋ねてみた。
「……金持ちの、それもエリュクシオン家とかいう名家の娘だったんだろ?何がそんなに不満だったんだ?」
エステルと出会って、もう一週間は経つ。
だが、こんな風に、互いの過去に少しだけ踏み込んだ話をするのは、これが初めてかもしれん。
「ええ、たしかに、欲しいものは、言えば何でもすぐに侍女が用意してくださいましたし、お父様もお母様も、それはそれは、とっーーても優しかったですわ!」
エステルは、そこまでは本当に嬉しそうに話した。だが、すぐにその表情が曇り、声のトーンが落ちる。
「毎日、朝から晩まで、家庭教師の先生がいらして、作法に歴史、音楽に詩、それにダンス……たくさんのことを、お勉強させて貰えましたわ。それはもちろん、恵まれた…とても幸福なことだと理解しておりますわっ!」
「……でも…………わたくしが、お屋敷の外に出られるのは、月にたった一度、教会へ礼拝に行くときだけでしたの。それ以外の時間は、ずっとお屋敷の中……。それに……」
エステルの声が、さらに小さくなる。
「……少しでも、テーブルの角に足をぶつけて青痣でも作ろうものなら、すぐに専門のお医者様が大勢飛んできて、まるで大怪我でもしたかのように大騒ぎになるんですの……。転んで擦り傷なんて作ったら、もう大変……」
エステルは、俯いて自分の手を見つめている。
「……なんだか…………『わたくし』自身のことを見てくださっているというよりも…………『わたくしの体』が、絶対に傷つかないように、まるで、ガラス細工か何かのお人形のように、大事に、大事に……ただ、守られているような…………そんな気がして…………いつも、息が詰まりそうでしたわ…………」
エステルの語る『恵まれた』環境は、俺にとっては、異常な束縛と、歪んだ過保護にしか聞こえなかった。
(なるほどな……)
『体が傷つかないように』。
そりゃあ、息も詰まるだろうし、世間知らずにもなるわけだ。
牢屋って言葉に、あんなに異常に怯えてたのも、こういう経験があったからかもな。
変なところでネジが飛んでるのも、こういう環境で育ったせいかもしれん……。
初めて、このアホで、能天気で、とんでもなく手のかかるお嬢様の、その奇行の裏にある、歪んだ背景のようなものを見た気がした。
ほんの少しだけ、本当に、ほんの少しだけだが、同情のような気持ちが、俺の中に湧き上がってきた。
(……まぁ、それでも、やっぱり面倒なヤツだってことには変わりはねぇんだがな……)
俺は、何と声をかけるべきか分からず、ただ黙って、隣で俯いているエステルの気配を感じていた。
テントの外では、パチパチと焚き火の爆ぜる音だけが、満天の星が降る静かな夜に、やけに大きく響いていた。
俺が黙り込んでいると、エステルは少しだけ悪戯っぽい、子供のような笑みを浮かべて続けた。
「……ですから、わたくし、時々、我慢できなくなってしまって。何度かこっそりお屋敷を抜け出したり、月に一度の礼拝にお出かけした際に、ちょっとだけ寄り道をして『冒険』してみたりしておりましたのよ!うふふ」
楽しそうに語るエステル。だが、その笑顔の裏にある息苦しさを、俺は少しだけ理解し始めていた。
(やっぱり、ただのお淑やかな箱入り娘じゃなかったわけか。抜け出して冒険ねぇ……。それで、あの無駄にタフな体力と、ゴキブリ並みの生存能力が、知らず知らずのうちに身についたってのかね……)
俺は内心で呆れつつも、妙なところで納得していた。
「もちろん、その度に、わたくし付きの護衛の方々は、お父様にこっぴどく叱られていましたけれど」
エステルは、少しだけ申し訳なさそうに…だが、どこか楽しげにそう付け加えた。
「……護衛はたまったもんじゃねぇだろうな。胃に穴が開く思いだったろうぜ。苦労が目に浮かぶ。ご愁傷様なこった」
エステルは、楽しかった『冒険』の思い出を語るように続けたが、すぐにまた、ふっと表情を曇らせた。
「でも……そうやって、わたくしがドキドキしながらお屋敷に戻ると、お父様もお母様も、わたくしがどこで何をしてきたかなんて、ほとんどお聞きにならなくて……」
エステルの声が、また少し小さくなる。
「ただ、いつも真っ青なお顔で、わたくしの体を隅から隅まで調べて、『エステル!体は大丈夫なの!?』『どこか怪我はしていない!?』『まぁ、泥んこになって!変な病気をもらってきてはいないでしょうね!?』って……そればかりでしたわ……。わたくしが、どんなに新しい発見をして、どんなに心が躍ったかをお話ししようとしても、最後まで聞いてくださることは、ほとんどありませんでした……」
(……やっぱり、心配なのは『体』だけかよ)
俺は、確信に近い思いでそう感じた。
娘がどんな気持ちで、どんな経験をしてきたか、よりも、ただただ『無傷か』『病気じゃないか』ということだけが、彼女の両親にとっては重要だったのだろう。
(そりゃあ、『お人形扱い』されてるって感じるだろうな。自分の心なんか、どうでもいいって言われてるようなもんだ。息も詰まるはずだぜ)
エステルの感じていた息苦しさの正体が、よりはっきりと、そして重く、俺の中に理解できた気がした。
(まぁ、たしかにコイツは……腹は立つが、黙ってりゃ、かなりの美人だ。そういう、年頃の娘を持つ親が、心配しすぎる気持ちも、分からんでもねぇかもしれんが……)
一瞬だけ、そんなありふれた親心を想像してみる。
だが、すぐに打ち消した。
(……いや、それにしても、これは度が過ぎてる。普通じゃねぇ。ただの心配性とか、過保護ってレベルを超えてる。まるで、何か……絶対に壊してはいけない、ガラス細工か何かでも扱うような、異常なまでの執着だ。何か、特別な理由でもあるのか……?エリュクシオン家ってのは、何かヤバい家系なのかね……?)
俺は、エステルの過去の断片から垣間見える、その歪んだ家庭環境に、何とも言えない、重苦しいものを感じていた。
かけるべき言葉も見つからず、俺はただ黙って、テントの布地をわずかに揺らす夜風の音と、遠くでパチパチと控えめに燃える焚き火の音に、耳を澄ませていた。
「ですから、わたくし、アリア様のおっしゃる、『自由』というものに憧れるお気持ち、とってもよく分かりますの!」
エステルは、さっきまでの沈んだ表情から一転、子供のようにキラキラとした目で俺を見た。
「たしかに、お屋敷を飛び出してからは、怪鳥様に攫われたり、ワイバーンさんの巣で一夜を明かしたり、ドッカーン!と爆発に巻き込まれたり、狼さんに追いかけられたり、アリさんの巣に落ちたり、牛さんに乗って空を飛んだり……それはもう、怖くて不安なこともたくさんありましたけれど……」
そこまで一気に捲し立てて、エステルはふふっと、まるで面白い冒険譚でも語るかのように楽しそうに笑った。
「でも、今、こうしてアリア様や、ガロード様、それにジーン様と一緒に旅ができていることが、わたくし、とっても、とっても楽しいんですものっ!毎日がドキドキハラハラで、新しい発見や驚きばかりで!」
エステルは、心の底から、本気でそう感じているようだった。その純粋なまでの輝きに、俺は少しだけ目を細める。
「ふふっ、アリア様も、そうでしょ?」
悪戯っぽく、俺に同意を求めてくる。
(……楽しい、か……)
俺は、エステルの屈託のない問いかけに、一瞬だけ、自分のこれまでを振り返った。
俺は、あの息苦しい実家という名の牢獄から逃げ出して、その日その日を生き延びるために、ただ必死に依頼をこなしてきただけだ。
クソみてぇな毎日の中で、ほんの少しでもマシなクソを探して、汚れて、傷ついて、がむしゃらに剣を振るって……気づけば、首にはこの銀色のプレートがかかってた。
そこに、『楽しい』なんていう、そんな綺麗な感情が入る隙間が、果たしてあっただろうか……?
だが、今のこの状況は…………。
この、どうしようもなく手のかかる連中との、奇妙な旅は…………。
「…………ああ、そうだな……」
俺は、テントの天井を見上げたまま、静かに、しかし嘘偽りなく答えた。
「……少なくとも、退屈してる暇は、全くねぇな」
俺の答えに、エステルは「やっぱり!そうですわよね!」と、花が咲くように笑った。だが、その笑顔は、すぐに翳りを見せ始めた。
「……ああっ…………でも…………」
エステルの声のトーンが、急に落ちる。
ふぁあ…とあくびをしながら話を続ける。
「……わたくしが、こうして楽しく冒険させていただいている間にも、きっと、お屋敷では……お父様も、お母様も…………わたくしのことを、すごく、すごく心配なさっているに、違いありませんわよね…………」
声も、どんどん小さく、か細くなっていく。
そして……スースー……と、まるで魔力灯の魔石が切れたかのように喋るのをやめ、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
俺は、そのあどけない寝顔を、呆れた様子で静かに見つめていた。
すると、エステルの唇から吐息のようにか細く、小さな小さな声が漏れた。
「…………ごめんなさい…………」
それは、遠い故郷で自分を案じているであろう両親へ向けた、偽りのない、小さな謝罪の言葉のように、俺の耳には確かに聞こえた。
(………………………………)
俺は、何も言わずに、ただエステルの寝顔を見つめていた。
この、世間知らずで、能天気で、とんでもなく手のかかるお嬢様。
だが、その心の奥底には、親を思う気持ちや、罪悪感も、ちゃんとあるのだ。
「……一方的に話しておいて、先に寝落ちかよ。本当に身勝手なやつ……まったく」
(……本当に、どうしようもなく、手のかかるヤツだ。だが……)
俺は、静かに決意を固める。
(……仕方ねぇな。なんとかして、コイツを、あのご両親とやらの元へ……無事に送り届けてやんなきゃな。どんなに面倒なことになっても、どんなに危険な道のりになったとしても……それが、コイツと出会っちまった俺の…いや、ただの、俺自身の意地、みたいなもんなのかもしれん……)
俺も、ゆっくりと目を閉じた。
テントの外からは、今なおパチパチと燃える焚き火の音と、時折聞こえる、ガロードの見張りの気配だけが、静かに伝わってくる。
俺の意識も、深い眠りの中へと、ゆっくりと沈んでいった。
第四章:自由とは不自由から生まれけり(完)




