第17話:トラウマ
宿の扉を開けた、その瞬間、目の前に広がった光景に文字通り凍りついた。
「あらあら、シルヴィったら、そんなに拗ねないでくださいまし!後でお茶を淹れて差し上げますから」
「大丈夫ですわ、ハンス、あなたはいつだってわたくしの忠実な騎士ですもの、信じておりますわ」
「あら?こんにちは、あなたも何か言いたそうですわね?うふふ、遠慮なさらないで?」
部屋の中では、エステルが、壁のシミや、漆喰の小さなヒビ割れに向かって、それはそれは楽しそうに、一人で延々とお喋りを続けていたのだ。
まるで、そこに本当に誰かがいるかのように。
(…………は?な、何やってんだ、コイツ…………?)
俺が出て行ってから、まだ一時間程度しか経っていないはずだ。その、たった一時間かそこらの留守番の間に、孤独に耐えきれず、壁とコミュニケーションを取り始めたってのか!?
(マジかよ…………牢屋でのトラウマ、相当ヤバいレベルなんじゃねぇか…………!?)
その姿は、楽しげというより、もはや狂気の域に達しており、見ていて背筋がゾッと寒くなった。
チラリと隣のガロードを見る。
ヤツも、普段の鉄面皮をわずかに崩し、明らかに眉をひそめ、ドン引きしているのが見て取れた。
(………お前でも引くのか、ソレは………だよな…………)
ガロードは目で「もう一人のメンバーはコイツか?」と訴えてくる。
「は、ははは…」
俺は曖昧に微笑むしかなかった。
「…………。」
「待て待て待て待て待てっ!」
無言で踵を返そうとするガロードの肩をがっしりとつかんで引き留める。
〈沈黙〉の男すらドン引きさせるエステルの奇行。
(………ダメだ。絶対にダメだ。コイツ、一瞬たりとも一人にしちゃダメなタイプのヤツだ……!)
俺は、心の底から、それを悟った。今後の旅に、とてつもなく重く、そして面倒な足枷が付いた瞬間だった。
(クソッ…………ますます面倒くせぇことになった…………パーティ名どころの話じゃねぇぞ、これは…………)
俺は、重い、重い溜息をつき、まだ壁のシミとお喋りに夢中なエステルに、一体どうやって声をかけるべきか、途方に暮れるしかなかった。
「おーい……エステル」
俺は、壁のシミか何かとお友達になっているらしい女に、恐る恐る声をかけた。
はっ、としたようにエステルがこちらを振り返る。その目には、じわりと涙が浮かんでいた。
「アリア様〜〜〜っ!!お待ちしておりましたのよぉ〜〜〜っ!!うわ〜ん!」
次の瞬間、エステルは俺に飛びかかり、子供のようにわんわんと泣きながら、ぎゅううっと抱きついてきた。
(うおっ!おい!やめろ!引っ付くな、鬱陶しい!)
「わたくし、アリア様の言いつけをちゃーんと守って、ずーっとお部屋でお待ちしておりましたのよ!本当ですの!何度、寂しくて後を追ってしまおうかと思ったことか!でも、その度に、ハンス(漆喰のヒビ)とシルヴィ(壁のシミ)が『エステル様、いけませんわ。アリア様を信じてお待ちするのです』って、わたくしを引き止めてくださって…うぅ…」
(ハンス?シルヴィ?……ああ、壁のシミか何かの名前かよ……俺が出てって一時間くらいしか経ってねぇんだぞ!?それで、もう壁とお喋りして、勝手に友情まで育んでやがるのか!?マジかよ……)
俺はエステルの頭のネジのぶっ飛び具合に、もはや眩暈しか感じない。
「あらっ、ハンスとシルヴィったら、どこへ行ってしまったのかしら?せっかくですから、アリア様にも、わたくしの新しいお友達をご紹介しようと思いましたのに……」
キョロキョロと壁を探すエステルに、俺は慌てて言った。
「あー……いや、その、紹介はまた今度でいいかな……。そ、それより、ほら、ガロードも連れてきたから」
必死に話題を逸らし、後ろに立っていたガロードを示す。
エステルの顔が、ぱぁっと再び明るくなった。さっきまでの涙はどこへやら。
「まぁ!ガロード様!ごきげんよう!今日も、その……とっても素敵な串焼きですこと!」
ガロードが手に持っている、今まさに食べようとしていた串焼きを見て、満面の笑みでそう言った。
(……串焼きが素敵ってなんなんだよ。……まぁ、挨拶なんだろうな、たぶん)
すると、エステルは急にしょんぼりした顔になり、自分のお腹をきゅるきゅると押さえた。
「……そういえば、アリア様……。わたくし、今日はまだ、朝から何も食べておりませんの……お腹が空いてしまって……」
「あ……そういや、コイツには何も食わせてなかったな……完全に忘れてた……」
ぐぅぅぅぅ~~~~、と、エステルのお腹から、宿中に響き渡るんじゃないかというくらい、盛大な音が鳴り響いた。
「……!」
その音を聞いたのか、ガロードが不意にマジックポーチをごそごそと漁り始めた。
そして、中から例の、香ばしい匂いを漂わせる大ぶりの串焼きを、もう一本取り出した。
(おっ!?やるじゃねぇか、〈沈黙〉!まさか、コイツにくれるのか?腹を空かせたレディに食い物を恵むとは、少しは見直したぞ!)
「まあ!!♡まあ!!♡ガロード様、わたくしにくださるんですの?♡なんてお優しい!♡それでは遠慮なく……」
エステルも目をキラキラと輝かせ、期待に満ちた表情で、その串焼きに手を伸ばした。
その瞬間!
パシンッ!!
ガロードは、エステルの伸ばしてきた手を、まるで虫でも払うかのように、無慈悲にも叩き落とした!
「あでっ!?な、何をするんですの!?ひどいですわ!!」
驚きと痛みと屈辱に顔を歪めるエステルを尻目に、ガロードは取り出した串焼きを、自分で実に美味そうにモシャモシャと齧り始めた。
(………………………………前言撤回。やっぱりコイツは、どうしようもない、ただの食い意地の張ったクソ野郎だ)
ガロードは「?」となぜエステルが怒っているのか全く理解できない、という表情で串焼きを食べ続ける。
ああ、コイツはエステルの腹の音を聞いて、自分が食う為にただ串焼きを『取り出した』だけで『分けてやろう』なんて考えは欠片も持っちゃいなかったわけだ……。
「うぅ…お腹が空きましたわ…」
エステルは叩かれた手をさすりながら、恨めしそうな、そして猛烈にひもじそうな目で、その串焼きの行方を穴が開くほど見つめている。
………………そして、そんな二人を前に、俺は深すぎる、深すぎる溜息と共に、頭を抱えた。
(これから……本当に、このメンバーでやっていけるのか……?金等級どころか、明日の朝を無事に迎えられるかすら、心底、本気で不安になってきたぜ…………)
まずは、この腹を空かせたお嬢様に、何か食わせるところから始めなければならないらしい。
「はぁ……ちょっと待ってろ、宿屋の親父になんか軽食貰ってくるから……」
俺は重い腰を上げ、エステルのための食事を手配するために、再び部屋を出ることにした。
主人から晩飯前の簡単な軽食としてサンドイッチをいくつか受け取り、俺は足早に部屋へ戻った。
また壁とお友達になってたらどうしようかと思ったが、扉を開けると、意外にも平和な光景が広がっていた。
エステルが、隣のベッドに座るガロードに、一方的に、しかし実に楽しそうに何やら話しかけている。ガロードは相変わらず無表情で肉を齧っているが、少なくとも壁に向かって喋っているよりは百万倍マシだ。
(…ふぅ。どうやら、誰か話し相手がいりゃ、とりあえずは大丈夫ってことか。まぁ、ガロードにとってはいい迷惑だろうが…こっちとしては、その方が遥かにマシだ)
俺はエステルにサンドイッチを渡した。
「ほらよ。腹減ってたんだろ。とりあえずこれで腹の足しにしろ」
「まあ!サンドイッチですわ!このパンの薄さは職人の技ですわねっ!!とっても美味しそうですわっ!いただきますわ、アリア様!」
エステルは目をキラキラさせ、早速大きな口でサンドイッチを頬張り始めた。
「んむぅ~♡美味しいですわ~!パンのパサつきとこちらの名称不明のお野菜の瑞々しさが絶妙に調和して……」
褒めてんのか貶してんのかよくわからん感想を述べながらも、頬いっぱいにもきゅもきゅと蓄えている。
その様子を、隣のガロードが、じーっと、明らかに物欲しそうな目で見つめている。
(……まだ食うのか、コイツは……!あの皿の山は何だったんだよ……)
俺が呆れていると、ガロードがおもむろに、マジックポーチから例の、香ばしい匂いを漂わせる大ぶりの串焼きを一本取り出した。そして、それをエステルの方へ無言で差し出した。
エステルは一瞬、さっき手を叩かれたことを思い出したのかビクッとしたが、ガロードは今度は、エステルが持っているサンドイッチを指差した。どうやら、交換しろ、ということらしい。
「まぁ!よろしいんですの?」
エステルは少し驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに頷き、サンドイッチ一切れと串焼きを交換していた。
(……ん?交換したぞ?あの〈沈黙〉が、自分の食い物を手放した……いや、サンドイッチと交換か。なるほどな……)
ガロードは受け取ったサンドイッチを、エステルは貰った串焼きを、それぞれ実に美味そうに食べている。
(……なんだ、コイツら。意外と、食い物に関しては気が合うのか……?というか、単に食い意地が張ってるだけか……)
まぁ、理由はともかく、二人の間に奇妙なコミュニケーションが成立しているのは、悪いことじゃないだろう。
「はぁ…生き返りましたわ~!食は活力の源でございますものね!うふふ、ガロード様も心なしかみなぎっておりますわねっ!」
「……」ウンウン。と頷くガロード。
なんだかよくわからんが、コイツらはあの安っぽいサンドイッチを通じて打ち解けたらしい…。




