#76
間に合った⁉
姫様の口添えの結果、俺は若様の側近候補としての地位をそのまま維持しながらも公爵邸に住むことは免除された。
表向きはシュトゥルム家として辞退を申し入れたということになっているが、本来のお役目である諜報の修行も兼ねて月に一度は公爵邸に赴き、世俗の情報を若様にお伝えするのが今の俺の仕事だった。
それ以外の日は、今まで通り姫様とアサツキさんの暮らすこの屋敷へ来て姫様の相手をしたり、アサツキさんの仕事を手伝う。
十三の春からは、アサツキさんの空いている時間に鍛錬を頼むようになった。
アサツキさんは姫様と違って父親も東洋人らしく、男性にしては小柄で華奢な体つきだが、そこらの破落戸はいとも簡単にのしてしまうし、時折騎士団の訓練に参加するときも、剣を持った相手複数に素手で勝ってしまう強さがある。
東洋由来の格闘術と暗殺術の複合した形でもあるというその戦い方は、真っ当な騎士ではない戦い方を必要とする俺が憧れるのは至極当然のものだった。
「……右に三歩、そこから前に五歩。ここですね」
耳栓にアイマスク、ついでに両手も体の前に縛った状態で立ったアサツキさんは的確に俺の立っている場所を宣言した。
宣言通り、右に三歩、前に五歩歩き、手を縛っている縄を一瞬で外すと、アサツキさんはアイマスクと耳栓を外す。
ぶつかりそうなくらい目の前にある俺のひきつった顔を見たアサツキさんは満足そうにニヤリと笑った。
それを見て一気に力の抜けた俺はへたり込む。
「っはぁ、アサツキさん、何で分かるんですか? 今回こそはと思って、目隠しだけじゃなく耳栓もしてもらったのにバレるなんて」
「年季が違いますからね。ですがエル、そもそも姿を消すことが主目的の技術なのですよ。何も私と同じように気配を馴染ませるところまでしなくとも、姿が見えず気配を断つだけで並大抵の敵には勝てるでしょう?」
教わった技術のうち、最も俺と相性が良かったのは気配遮断と視覚遮断の技術だ。
これは魔法を使うわけでもないのに、他のものに干渉しない限りは術者本人以外から認識されることがなくなるというなんとも法外な技術だ。
俺はまだ視界から姿を消すのに精いっぱいだが、アサツキさんは気配を断つどころか、気配を消しているという事実すら認識させないという離れ業をやってのける。
ただ気配を消しているだけなら、不自然に気配のない場所を押さえれば良いが、気配を馴染ませるというのはそこに本人がいることを当たり前の事象として自然に誤認させるということだ。
何度指導されても、この領域にはなかなかたどり着けそうになかった。
「俺、時々若様の護衛に紛れて見守ったりするんですけど、最近若様に気付かれるのが早くなってしまって。本人に聞いたら姿は全く見えないけど気配は強く感じるとおっしゃるので……」
将来仕える相手だからと、定期報告以外にも気が向けば会いに行っていたおかげで、若様にもそのほかの側近候補たちにも懐かれたのは良いが、姿と気配を消して見守ろうとしても気付かれて、城下にお忍びに行く護衛として俺を当てにしようとするのは困る。
ため息を吐いた俺をくすりと笑ったアサツキさんが空を見上げる。
雲一つない、澄んだ青空だ。
「若様と上手くやれているようで何よりです。特定の人物の気配として感じるためには、それなりの付き合いと、それなりの信頼が必要ですから。……そろそろリーのところに向かいましょうか」
「……はい」
いつもと違って通された部屋が、臣下は通さないはずの寝室だったことに俺がどれだけ動揺したことか。
今にも消えてしまいそうなほどの顔色で、こちらに向かって微笑む姫様は、それでもなお美しかった。
「姫様? 顔色が良くないですが、体調がよろしくないのですか? であれば、今日はもう休まれた方が」
「大丈夫ですよエルヴィン。もうすぐ関係なくなることですから」
俺のおろおろとした声に、はっきりと返す姫様の言葉に思考が止まる。
「姫、さま?」
「私の命はあと一週間と持ちません。それは、アサツキもです。私たちは既に、覆すべき運命を覆してしまいましたから」
俺に向き合ったその瞳の何と澄んだことか。
ああ、空と同じくらい澄んだ、蒼。
「エルヴィン。私の望みはきっと貴方に深い傷を負わせることにまるでしょう。それでも次代のブルーメを支える立場である貴方にしか頼めないことがあるのです」
この世で最も、美しくて、優しくて、あこがれの人。
だからこそ、俺は彼女の続けた言葉の意味が、心底理解できなかった。
「エルヴィン、貴方は私の甥……次期ブルーメ公爵の側に仕えてはなりません」
お読みいただきありがとうございます。
次回更新予定 7/31




