#53
間に合わなかったよパトラッシュ……
「ふうん? ダスゲイル子爵、ね。特に力を持つような貴族ではなかった気がするんだけど」
心当たりがないと首を傾げるアノンとビリーを横目に、聞き覚えのある名前を耳にした私は微かな記憶を辿る。
「ダスゲイル……あっ!」
「リリ、聞き覚えが?」
「うん。……ダスゲイル家って第二王子の派閥だわ」
思い出した。
回帰前の世界でもほとんど関わりが無かったから思い出すのに時間がかかったけれど、ダスゲイル子爵には数回会ったことがある。
記憶の中のその男は、脂ぎった体にギラギラした野心を瞳に宿したいかにもな成金だ。
ダスゲイルは北部の貴族だけれど、ブルーメ家の直臣ではない。
何代か前に中央貴族の三男が興した家で、数代経った今も中央貴族とのつながりが濃い、どちらかというと中央貴族よりだ。
北部の貴族は私が第二王子と婚約するまでほとんどが中立だったけれど、私の記憶が確かなら、ダスゲイル家はこの頃からずっと第二王子派。
確か当主の何番目かの妹が第二王子の母親の侍女をしているはず。
前回、私が第二王子と婚約することになった時に挨拶された記憶はあるけれど、明らかにこちらを見下していても実害は全くなかったので、忘れかけていた。
私との婚約でその立場を強固にした第二王子だったけれど、ダスゲイルはその恩恵に預かれなかったらしい。
「でも、ダスゲイル子爵は今は何の役職にもついていないはずよ。ここに来る理由が考えにくいよね?」
「流石に怪しすぎるだろ! 何かしら噛んではいそうだな」
「そうだね。僕はそいつのことは知らないけれど、王家に縁のある人間がこのタイミングで接触しているならかなり怪しいね」
私たちの話に口を挟まないでいたミディに私は問いかける。
「ミディ、何故ダスゲイル子爵がこの非常事態に反乱を鎮めに行くお姉さまではなく公爵邸に残ると決まったユリウスの所に行ったのか疑問に思わなかった?」
いくらエルヴィンを仇だと思いたいからといって、あからさまに怪しい来客の発言を主人の前で根拠に挙げるのは、余程の愚か者か、既に情報の裏どりが出来ている人間だけだ。
それにそもそもここまで私情を挟むような形で暴走するような状態の使用人を専属にするような人事はお姉さまも執事長も組まないだろう。
その気になれば、もっとそれらしい根拠だってでっち上げられるだろうに肝心な部分は感情論でしか主張しないのも違和感だ。
じっとミディを見つめると、戸惑うような顔をしたミディの顔色はどんどん青くなっていく。
何かを耐えようとするような表情から次第にその瞳の輝きが鈍っていく。
「え? た、確かにダスゲイル子爵とはカルスト家も我が家もほとんど関わりはなかったですし、おかしいとは思いました、が、え? あれ、どうしてダスゲイル子爵が兄さまと? あれ? 痛っ……あ、あ、あ……」
私の問いに答えるように呟くと、ミディは焦点の定まらない瞳のまま勢いよく立ち上がり、私の方へと倒れ込むように進もうとした。
唖然とした私を咄嗟にビリーが引っ張り抱えると同時に、ミディを廊下側の扉の方へ突き飛ばす。
私は、改めてミディの方を見て恐怖した。
先ほどまで影も形もなかった黒い蔓のようなものがうねりながらミディの体を覆おうとしているのだ。
意志を持ったその蔓は、彼女の首筋から生えて体を這うように伸び、こちらにもその手を伸ばさんとしている。
その感覚はアノンが使っていた術の気配とどこか似ているけれど、アノンのそれの数百倍おぞましい気配を纏っていた。
ミディの表情は蔓に覆われかけて見えないけれど、漏れ聞こえるうめき声は彼女の意識さえ怪しく思われた。
どうやら突き飛ばされた時にバランスを崩したらしく、崩れた体勢のままのたうち回っている。
私の様子を見たビリーがミディの方に視線を向けて驚きながら顔を歪めた。
どうやら、これは私だけではなく全員に見えるものらしい。
「何あれ……気持ち悪い」
「リリ、大丈夫か⁉ って、何だアレ⁉ アノン、これ、なんかヤバいんじゃ」
アノンがミディから視線をそらさないまま、ビリーに指示する。
「……ビリー、リリを後ろに。僕がなんとかする」
「分かった。リリ、俺の後ろに」
「う、うん」
この場で対抗できそうな力を持つのは、現状アノン一人なので大人しく指示に従いビリーの後ろから様子を伺う。
アノンは右手で十字を切ると、謡うように言葉を唱える。
それはいつか聞いた聖句に酷似した祈りの言葉。
神職者が女神に奇跡を願う請願だ。
「……哀れな僕たる私が、我が主たる乙女に請い願う。愚かな人の子に静寂と安寧を。悪しき行いは悪しき行いをした者のみが償い、何もなさぬ者を傷つけてはならない。清濁併せ吞むほどに賢くはない人の子にどうか恩赦を請願せん」
言葉を連ねるごとにアノンの右手にまばゆい光が集中していくのが分かる。
対照的にその蠢きを激しくする蔓にも怯まず、アノンは祈りを紡ぎきる。
ついに目を開けていられぬほどに強くなった光を、アノンはばっとミディを覆う蔓に向かって放った。
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