表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
トイレ販売員、異世界で水洗便器を売る ~ウォシュレットを設置したら王妃と魔王から指名されました~  作者: たむ
第1章 異世界に、最初の便器を

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/10

第8話 夜中に詰まりました

利用者の意見を取り入れ、銀月亭の水洗便所工事が始まります。


しかし、設備が完成しても、正しい使い方が伝わらなければ安全には使えません。


異世界最初の水洗便器は、営業初日の夜に最初の故障を迎えます。

 銀月亭の裏庭に、木槌の音が響いていた。


 こん、こん、こん。


 木工職人が柱を立て、横木を組み付けていく。


 その横では、ボルグと二人の汲み取り人が処理槽用の穴を掘っていた。


 掘り出された土は、乾いた表土と灰色の粘土に分けられ、庭の端へ積み上げられている。


 陶山直人は、宿の外壁と建設中の便所を何度も往復していた。


「廊下の床と、便所の床には段差を作らないでください」


 直人が言うと、木工職人のロッカは作業の手を止めた。


「雨が入らないようにするなら、こちらを高くした方がいい」


「入口だけ高くすると、夜に客がつまずきます」


「では、宿側の床も上げるのか?」


「それでは工事が大きくなります。便所の床を廊下と合わせ、外側の地面を下げましょう」


「水が便所へ流れ込むぞ」


「周囲に浅い排水溝を作ります」


「注文の多い異国人だ」


 ロッカは四十歳ほどの人間の男だった。


 短く刈った黒髪と、日に焼けた太い腕を持つ。


 リリアの父が宿を経営していた頃から、銀月亭の建具を修理してきた職人だという。


 今回の報酬は、材料費の一部と、一月分の食事。


 さらに水洗便所が評判になり、同じ設備の注文が入った場合には、優先して木工部分を依頼するという条件で合意していた。


「宿屋の便所ですよ」


 直人は答えた。


「酔った客も、眠い客も使います。少しの段差が事故になります」


「便所で転んだ者まで、職人の責任にされるのか」


「危険を分かっていて残せば、責任はあります」


 ロッカは面倒そうに鼻を鳴らした。


 だが、設置した柱の位置を測り直し、廊下との高さをそろえていく。


 文句を言いながらも、仕事は丁寧だった。


「ナオト!」


 処理槽の穴からボルグの声が飛んだ。


「底まで来た。見てくれ」


 直人は穴の縁へ向かった。


 深さは直人の胸ほど。


 階段状に土が削られ、安全に下りられるようになっている。


 底には粘土が敷き詰められ、汚水が地中へそのまま染み出しにくい形に整えられていた。


「大きさは?」


「宿泊客十五人と、宿の者が使う想定だ」


「一日一回の清掃水も入ります」


「それを含めて余裕を取った」


「雨水は?」


「蓋を付ける。地面も周囲より高くする」


 ボルグは穴の側面を指した。


「汚物は最初の部屋にたまり、水だけが隣へ移るように壁を作る。全部を一つにためるより、汲み取りやすい」


 直人は感心した。


 完全な浄化槽ではない。


 だが、固形物を沈殿させ、上澄みを次の槽へ移す簡易的な構造になっている。


「俺が説明したものより、現実的ですね」


「穴の中で働いたことのない奴が描いた図だからな」


「認めます」


「便器のことはお前が知っている。汚物のたまり方は俺が知っている」


 ボルグは鋤を肩に担いだ。


「どちらかだけでは、使えるものにならん」


「その通りです」


 以前の直人なら、自分の知る現代設備へ近づけようとしたかもしれない。


 だが、この世界にはポンプもコンクリートも、工場製の塩化ビニール管もない。


 手に入る材料で、保守できる構造を作る必要がある。


 設備は、完成した瞬間だけ動けばよいものではない。


 明日も、一年後も、壊れた時に直せなければ意味がない。


「排水管をつなげたら、水だけ流して確認しましょう」


「今度は俺の足へ落とすなよ」


「もう処理槽へ接続します」


「お前の場合、接続した先から漏れるかもしれん」


「否定できないのがつらいですね」


          ◇


 三日後。


 銀月亭の共同水洗便所は、ひとまず利用できる形になった。


 宿の一階廊下から、新しく作られた扉を開ける。


 その先には、大人二人が余裕を持って入れるほどの小部屋がある。


 壁は明るい木材で作られ、上部には細長い換気口が設けられた。


 扉の内側には木製の掛け金。


 外から見て使用中だと分かるように、赤い板と白い板を裏返せる表示も付けられている。


 床の中央には、白い陶器製便器。


 その上には、ガルドが作り直した木製便座が載っていた。


 便器の前には、リリアの身長でも足が安定する固定式の足置き。


 壁には立ち座りを支える木製の手すり。


 右側には洗浄用の紐。


 紐を引けば、壁の上部に固定した陶器の貯水槽から水が流れる。


 便器の下から伸びる木製排水管は、便所の裏を通り、簡易処理槽へ接続されていた。


 室内の隅には、小さな手洗い壺も置かれている。


「白い便器以外は、全部この町で作ったのね」


 リリアが室内を見回した。


「試験設備としては、よくできています」


 直人は答えた。


「試験なの?」


「長期間使わないと分からない問題があります」


「お客様には試験中だと伝えるの?」


「伝えます。異常があれば、すぐ使用を止めてもらいます」


「不安がられない?」


「安全だと言い切って事故を起こす方が問題です」


 直人は接続部を一つずつ確認した。


 革管に漏れはない。


 便器も動かない。


 足置きも固定されている。


 貯水槽には、ミーナが水を満たしていた。


「最初に使うのは、私よ」


 リリアが言った。


「本当に使うんですか?」


「そのために作ったのでしょう」


「体調は戻りましたか」


「もう大丈夫」


「異常を感じたら、すぐに呼んでください」


「何を異常と呼ぶの?」


「便器が動く。床が沈む。水が止まらない。逆流する。異臭がする」


「聞いていると、使いたくなくなるわ」


「起こる可能性があることは説明します」


「説明はもう十分。外へ出て」


 直人、ガルド、ミーナ、ボルグ、ロッカ、マルタが便所から追い出された。


 扉が閉まり、内側から掛け金の音がする。


「全員で待つ必要があるのか」


 ガルドが腕を組んだ。


「最初の使用です。何かあったら、それぞれの担当部分を確認します」


「便所の前に六人も立っていたら、落ち着かんだろう」


 ボルグの言う通りだった。


 直人は皆を少し離れさせた。


 自分も廊下の曲がり角まで下がる。


 室内から音はほとんど聞こえない。


 リリアには、使い終わった後に洗浄紐を引き、問題があれば声をかけるよう説明してある。


 しばらくして。


 ごぼん。


 低い洗浄音がした。


 続いて、木管の中を水が流れる音。


 直人は耳を澄ませた。


 水の音は途中で止まることなく、処理槽の方向へ遠ざかっていった。


 逆流音もない。


 貯水槽から水が流れ続けている様子もない。


 扉の掛け金が外れた。


 リリアが姿を現す。


 顔は平静を装っていたが、耳が少し赤い。


「どうでした?」


 直人が尋ねる。


「普通だったわ」


「普通?」


「座って、使って、紐を引いた。全部流れた。それだけ」


「臭いは?」


「ほとんどしなかった」


「水は飛び散りませんでしたか」


「大丈夫」


「便座の高さは?」


「足置きがあれば問題ないわ」


「操作紐は?」


「少し重い。でも、引けないほどではない」


 直人は手帳へ書き込んだ。


「ほかに気になったところは?」


 リリアは少し迷ってから、小さな声で答えた。


「音が思ったより大きい」


「洗浄音ですか」


「外に聞こえるでしょう?」


「ある程度は」


「どうにかならない?」


「壁を厚くするか、排水管の周囲へ防音材を入れる方法があります」


「ぼうおん?」


「音を小さくする材料です。布や乾いた藁でも多少は変わるかもしれません」


「今後の改良ね」


「はい」


 リリアは便所の扉を見た。


「でも、使えた」


「使えましたね」


「壺を部屋へ置かなくても、夜中にここへ来ればいい」


「灯りを忘れないでください」


「分かっているわ」


「貯水槽の水位も確認してください。水が足りない時は使用禁止です」


「説明が始まった」


「重要です」


 リリアは苦笑した。


「とにかく、お客様にも使ってもらいましょう」


「今日は宿泊客がいるんですか」


「一人だけ」


 銀月亭に宿泊していたのは、行商人のダリオという男だった。


 三十代半ば。


 小麦や乾燥豆を各地で売り歩いているらしい。


 新しい便所の話を聞くと、最初は顔をしかめた。


「水の中へするのか?」


「水へ直接ではありません」


 直人は利用方法を説明した。


「便器へ座る。用を足す。終わったら紐を引く。流してよいのは、人の排泄物と、この薄い紙だけです」


 直人はリリアが用意した柔らかな紙を見せた。


 この世界では、布、乾燥させた植物、木片などが使われている。


 厚い布や大きな葉を便器へ流せば、間違いなく詰まる。


「布は横の蓋付き箱へ入れてください。便器には入れないでください」


「何度も言うな。子どもではない」


 ダリオは不機嫌そうに答えた。


「使用方法を守れば問題ありません」


「本当に臭わないのか?」


「使った後に水を流せば、便器の中へ水が残って臭いを止めます」


「それは見てみたい」


 ダリオは便所へ入り、すぐに出てきた。


「今は使わないんですか」


「必要になってからだ。見物するだけで金を取るのか?」


「宿泊客は無料です」


「なら、夜に使わせてもらう」


 説明を理解したように見えた。


 直人は念を押す。


「布は流さないでください」


「分かったと言っている」


 男は面倒そうに手を振り、客室へ戻った。


          ◇


 その夜。


 直人は一階の空き部屋で目を覚ました。


 どん、どん、どん。


 扉を激しく叩く音がする。


「ナオト! 起きて!」


 リリアの声だった。


 窓の外は暗い。


 灯りをつけ、扉を開ける。


「どうしました?」


「便器から水があふれている!」


 直人は一気に眠気が覚めた。


「使用を止めましたか?」


「ダリオさんが何度も紐を引いたみたいで……!」


「何度も?」


 工具箱をつかみ、廊下へ飛び出す。


 便所の前には、ダリオ、リリア、マルタが立っていた。


 床へ濁った水が広がり、廊下側まで流れかけている。


 便器の中には水が縁近くまでたまり、ゆっくりと水位が上がっていた。


「紐を引かないでください!」


 直人が叫ぶ。


「流れなかったから、三度ほど引いた」


 ダリオが答えた。


「流れない時は、追加で水を流してはいけません!」


「そんなことは聞いていない!」


「異常があれば呼んでくださいと説明しました」


「便所くらい、自分で使えると思ったんだ!」


 直人は言い返すのをやめた。


 今は原因を止める方が先だ。


「ミーナさんを呼んでください。ボルグさんにも連絡を」


 マルタが走り出す。


 直人は貯水槽へ上り、栓が完全に閉じていることを確認した。


 追加の水は止まっている。


 次に便器の周囲を見る。


 接続部からの水漏れではない。


 便器内部から水位が上がっている。


 排水管の途中で詰まっている可能性が高い。


「何を流しました?」


「普通に使っただけだ」


「紙は?」


「横に置いてあったものを使った」


「布は流していませんね?」


「流していない」


 直人は便器の中をライトで照らした。


 水面に、細い繊維が浮いている。


 紙とは違う。


「本当に布は入れていませんか」


「入れていないと言っている!」


 ダリオが声を荒らげる。


 リリアが男の腰へ目を向けた。


 帯から、片側が裂けた小さな布袋が下がっている。


「その袋、どうしたの?」


「何がだ」


「端がなくなっているわ」


 ダリオは布袋を見た。


「ああ。便所へ入った時、破れた。古い布だからな」


「破れた部分は?」


「知らん。床へ落ちたんじゃないのか」


「便器へ落ちた可能性があります」


 直人が言うと、ダリオの顔色が変わった。


「小さな布だ」


「布は水に溶けません。管の曲がった場所へ引っかかれば、汚物や紙がその上にたまります」


「そんな程度で詰まるのか」


「だから、流してはいけないと説明しました」


「わざと入れたわけではない!」


「責めている場合ではありません。詰まりを取ります」


 直人はゴム手袋をはめた。


 工具箱には、排水管の清掃用に使える短いワイヤーがある。


 だが、現代の便器用詰まり除去器具は持ち込めていない。


 木製排水管は傷つきやすく、無理に金属を突っ込めば接合部を壊す危険もある。


「まず、便器の中の水を減らします」


 小さな桶で汚水をすくい、蓋付きの壺へ移す。


 リリアも手伝おうとしたが、直人は止めた。


「手袋がありません。近づかないでください」


「でも、一人では時間がかかるでしょう」


「マルタさんが戻ったら、革手袋を用意してもらいます。それまでは俺がやります」


「私の宿よ」


「だから、病気にならないでください」


 リリアは悔しそうに唇を結んだ。


 便器内の水位を下げる。


 排水口へワイヤーを差し込む。


 最初の曲がりまでは進んだ。


 その先で、柔らかい抵抗に当たる。


「何かあります」


「取れる?」


「押し込むのではなく、引き出します」


 ワイヤーの先端を少し曲げ、布へ引っかける。


 ゆっくり回す。


 手応えがある。


 しかし、引くと途中で外れた。


「管を外した方が早いかもしれません」


「床を壊すの?」


「便器を取り外します」


「完成したばかりでしょう!」


「修理できるように、取り外せる構造にしています」


 直人は固定金具を緩め始めた。


 便器を設置する際、将来の修理を考え、床へ直接埋め込まず、接続部品を介して固定していた。


 それが早くも役に立つ。


 数分後、ミーナとボルグが到着した。


「どうしたのですか」


「布が入って、排水が詰まりました」


「完成したその日にか」


 ボルグが呆れた声を出す。


「設備の問題なの?」


 ミーナが尋ねる。


「布が落ちたことが原因です。ただし、落ちても詰まりにくい構造を考える必要はあります」


「客が悪いと言わないのか」


 ダリオが険しい顔で言った。


「使い方を守らなかったことは問題です」


 直人は工具を動かしながら答えた。


「でも、初めて使う設備です。落とした布がそのまま流れる構造にも改善の余地があります」


「何でも設備のせいにするつもりか」


 ボルグが言う。


「違います。使用者への説明と設備の構造、両方を改善します」


 固定金具が外れた。


 便器を持ち上げ、排水接続部から離す。


 ミーナとボルグが左右から支えた。


 便器の下に現れた木製排水管の入口には、濡れた布と紙が固まって詰まっていた。


「見えた」


 ボルグが腕を伸ばす。


「素手では触らないでください」


「汚物を扱う仕事を何年していると思っている」


「何年していても、危険は危険です」


 直人は予備のゴム手袋を一組渡した。


 ボルグは初めて使う薄い手袋を不審そうに見たが、黙ってはめた。


「破れそうだな」


「鋭いものには弱いです。布だけをつかんでください」


 ボルグが排水管へ指を入れ、詰まりを引き抜いた。


 破れた布袋の一部。


 厚い紙。


 細い木片。


「木片もあるぞ」


「俺ではない!」


 ダリオが叫ぶ。


「前の試験で使った土と藁の一部かもしれません」


 直人は木片を確認した。


 排水管を作った時に出た削りかすにも見える。


 施工後の管内清掃が不十分だった可能性がある。


「利用者だけの問題ではありませんでした」


「どういうこと?」


 リリアが尋ねる。


「管の中に施工時のごみが残っていました。そこへ布が引っかかった」


「工事をした側にも原因があるのね」


「はい」


 直人は即答した。


 使い方を守らなかったダリオ。


 管内を十分に清掃しなかった施工側。


 どちらか一方だけを責めれば、同じ事故が再発する。


「詰まりを取った後、管の中を全部洗い流します」


「また大量の水を使うのか」


 ボルグが言う。


「清掃に必要です。流した水は処理槽で受けます」


「俺が確認する」


「お願いします」


 詰まりを取り除いた排水管へ、ミーナが少量ずつ水を流す。


 ボルグは処理槽側で流れを確認した。


 最初に濁った水と、小さな木くずが出る。


 何度か流すと、水は滞りなく通るようになった。


 便器を元へ戻し、接続部を締め直す。


 床にこぼれた汚水を拭き取り、湯で洗う。


 便器内部にも水を流し、詰まりが解消したことを確認する。


 作業が終わった時には、夜がかなり更けていた。


          ◇


 銀月亭の食堂で、関係者全員が机を囲んだ。


 ダリオも残っている。


 宿泊客だからではない。


 最初の事故の利用者として、直人が話を聞きたいと頼んだからだ。


「今日の原因を整理します」


 直人は手帳を開いた。


「一つ目。ダリオさんの布袋の一部が便器へ落ちた」


「わざとではない」


「分かっています。二つ目。施工時に出た木くずが排水管の中に残っていた」


 ロッカが眉を寄せた。


「管を取り付けたのは、俺だ」


「責任を一人にする話ではありません。俺も完成確認で見落としました」


「水を何度も流しただろう」


「流れたから問題ないと判断しました。管内に異物が残っていないか、もっと多い水量で確認すべきでした」


「三つ目は?」


 リリアが尋ねる。


「水が流れない時の対応を、十分に説明できていなかった」


「異常なら呼べと言われたぞ」


 ダリオが言う。


「言いました。ただ、“もう一度流せば直る”と考える人がいることを想定していませんでした」


「普通はそうするだろう」


「便器が詰まった状態で水を追加すれば、あふれます」


「それを最初に言え」


「今後は説明します」


 直人は紙へ大きな文字を書いた。


 こちらの文字はまだ書けないため、リリアに内容を伝えて記してもらう。


 流れない時は、紐を引かない。宿の者を呼ぶこと。


「これを便所の壁へ貼ります」


「文字を読めない客もいるわ」


 リリアが指摘した。


「絵も必要ですね」


「便器から水があふれる絵?」


「赤い印を付けた洗浄紐と、宿の者を呼ぶ人の絵にしましょう」


「誰が描くの?」


 全員の視線が集まった。


 直人は絵が得意ではない。


 工具箱に施工図を書くことはあっても、人間の絵は棒人間になる。


「ミーナさんは?」


「私も描けません」


「ガルドさん」


「陶器の模様なら描ける。便器からあふれる男など描きたくない」


「ロッカさんは?」


「木へ印を刻むならできる」


「では、簡単な記号を作りましょう」


 リリアは机へ頬杖をついた。


「便器一台を使うだけで、決まりが増えていくのね」


「新しい設備ですから」


「宿の者も、詰まりを直せるようにしなければならないでしょう?」


「はい」


「あなたがいない夜に、また詰まったら困るわ」


「簡単な詰まりなら対応できる道具を作ります」


「私がやるの?」


「リリアさんかマルタさん。それと、今後従業員を増やすなら担当者を決めてください」


「便所の担当者……」


「罰として押しつけないでください。設備管理の仕事です」


 床下の清掃も、汲み取りも、便器の手入れも。


 誰かがやらなければならない仕事は、価値の低い仕事ではない。


「点検表も必要ですね」


「てんけんひょう?」


「毎朝、貯水槽、漏れ、臭い、流れ方を確認した記録です」


「毎日?」


「故障を早く見つけるためです」


「便所だけで帳簿が一冊できそう」


「それくらい管理が必要です」


 リリアは深くため息をついた。


 それでも、拒絶はしなかった。


「分かったわ。マルタと交代で確認する」


「俺も数日は毎朝見ます」


「ずっと銀月亭にいるの?」


「今は帰る場所がありませんから」


「宿代は?」


「工事費から差し引いてください」


「工事費を払えるかも分からないのに?」


「では、宿泊と食事を報酬の一部にします」


 リリアは少し考えた。


「それなら契約書を作りましょう」


「契約書?」


「言った、言わないになるのは困るもの」


 直人は驚いた。


 異世界でも、商売人の考えることは変わらない。


「お願いします」


「今日の修理代は、ダリオさんへ請求するの?」


 リリアが尋ねる。


 ダリオの表情が険しくなる。


 直人は少し考えた。


「今回は請求しません」


「なぜだ」


 ダリオが逆に驚いた。


「布が入ったことだけが原因ではなかったからです。施工側にも不備がありました」


「では、宿が払うの?」


「俺の作業分は取りません。材料も新しく使っていません」


「今後、客が故意に物を流した場合は?」


 リリアは商売人として尋ねている。


「使用方法を明確に伝えたうえで、故意や重大な不注意による詰まりなら、修理費を請求する条件を作りましょう」


「客が拒否したら?」


「宿泊時に説明し、同意してもらいます」


「便所を使うだけで契約が必要なの?」


「設備を守るためです」


 ダリオは椅子から立ち上がった。


「俺は悪かったと思っている」


 全員が男を見る。


「布が落ちた時、拾うのが面倒で、そのまま流れると思った」


「では、気づいていたんですか」


 リリアの声が低くなった。


「小さな布だった。水で流れると思ったんだ」


「先ほどは知らないと言ったでしょう!」


「壊したと責められると思った」


 ダリオは目をそらした。


「だが、そっちの木くずも原因だったのだろう」


「はい」


 直人は答えた。


「だから、費用は請求しません。ただし、次からは必ず知らせてください」


「分かった」


「布が落ちた時点で呼んでもらえれば、詰まる前に取り出せました」


「……分かった」


 ダリオは財布から銅貨を数枚取り出し、机へ置いた。


「修理代ではない。迷惑をかけた詫びだ。それと、この便所は悪くない」


 リリアが銅貨を見る。


「使いにくかったのでは?」


「穴の上でしゃがむより楽だった。臭いも少ない。壺を部屋に置かなくていいのも助かる」


 ダリオは照れを隠すように外套を羽織った。


「朝になったら、商売仲間に話してやる。銀月亭には、水で流れる白い便所があるとな」


「詰まったことも話すつもり?」


 リリアが聞く。


「直したことも含めてな」


 ダリオは客室へ戻っていった。


 机には、銅貨が残された。


 リリアが一枚を指先で持ち上げる。


「便所のために、初めてお金が置かれたわ」


「修理代ではありません」


「それでも、この設備に価値を感じたからでしょう」


 直人はうなずいた。


 完成初日に詰まった。


 成功とは言いにくい。


 だが、詰まりを直し、原因を説明し、利用者の信頼を完全には失わずに済んだ。


 施工担当者の仕事は、設置した瞬間に終わるものではない。


 壊れた時こそ、本当の評価が決まる。


「明日の朝、使い方の説明を作り直します」


 直人が言うと、リリアは呆れた顔をした。


「まだ働くの?」


「忘れないうちに原因を書いておきます」


「少しは休みなさい」


「記録だけです」


「それを働くと言うのよ」


 リリアは直人の手帳を取り上げた。


「今日はもう終わり。続きは朝」


「でも――」


「宿の主人の命令です」


 直人は反論しようとした。


 だが、体が急に重くなった。


 床下調査から工事、通水試験、夜中の詰まり修理まで、休まず動いている。


「分かりました」


「素直でよろしい」


「ただし、便所は朝まで使用禁止にしてください」


「はいはい」


「貯水槽の栓も――」


「私が確認する」


「床の清掃は――」


「マルタと終わらせる」


「処理槽側は――」


「ボルグが見てくれる」


 リリアは手帳を胸元へ抱えた。


「あなた一人で、全部やらなくてもいいの」


 直人は食堂に残った仲間たちを見た。


 水を扱うミーナ。


 陶器を作るガルド。


 汚物処理を知るボルグ。


 木工を担うロッカ。


 宿を運営するリリアとマルタ。


 確かに、一人ではない。


「おやすみなさい」


 直人はようやく席を立った。


「おやすみ、ナオト」


 異世界初の水洗便器は、完成初日に詰まった。


 しかし、壊れて終わりにはならなかった。


 直して、原因を調べ、次に同じことが起きないようにする。


 その繰り返しが、設備を本当に使えるものへ変えていく。

銀月亭の水洗便器は、営業初日の夜に詰まりました。


原因は利用者が落とした布だけでなく、施工時に排水管内へ残っていた木くずにもありました。


直人は利用者だけを責めず、説明方法、完成検査、修理体制を見直します。


次回は、銀月亭で水洗便所の正式運用を始めるため、使用方法と点検制度を整えます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ