第8話 夜中に詰まりました
利用者の意見を取り入れ、銀月亭の水洗便所工事が始まります。
しかし、設備が完成しても、正しい使い方が伝わらなければ安全には使えません。
異世界最初の水洗便器は、営業初日の夜に最初の故障を迎えます。
銀月亭の裏庭に、木槌の音が響いていた。
こん、こん、こん。
木工職人が柱を立て、横木を組み付けていく。
その横では、ボルグと二人の汲み取り人が処理槽用の穴を掘っていた。
掘り出された土は、乾いた表土と灰色の粘土に分けられ、庭の端へ積み上げられている。
陶山直人は、宿の外壁と建設中の便所を何度も往復していた。
「廊下の床と、便所の床には段差を作らないでください」
直人が言うと、木工職人のロッカは作業の手を止めた。
「雨が入らないようにするなら、こちらを高くした方がいい」
「入口だけ高くすると、夜に客がつまずきます」
「では、宿側の床も上げるのか?」
「それでは工事が大きくなります。便所の床を廊下と合わせ、外側の地面を下げましょう」
「水が便所へ流れ込むぞ」
「周囲に浅い排水溝を作ります」
「注文の多い異国人だ」
ロッカは四十歳ほどの人間の男だった。
短く刈った黒髪と、日に焼けた太い腕を持つ。
リリアの父が宿を経営していた頃から、銀月亭の建具を修理してきた職人だという。
今回の報酬は、材料費の一部と、一月分の食事。
さらに水洗便所が評判になり、同じ設備の注文が入った場合には、優先して木工部分を依頼するという条件で合意していた。
「宿屋の便所ですよ」
直人は答えた。
「酔った客も、眠い客も使います。少しの段差が事故になります」
「便所で転んだ者まで、職人の責任にされるのか」
「危険を分かっていて残せば、責任はあります」
ロッカは面倒そうに鼻を鳴らした。
だが、設置した柱の位置を測り直し、廊下との高さをそろえていく。
文句を言いながらも、仕事は丁寧だった。
「ナオト!」
処理槽の穴からボルグの声が飛んだ。
「底まで来た。見てくれ」
直人は穴の縁へ向かった。
深さは直人の胸ほど。
階段状に土が削られ、安全に下りられるようになっている。
底には粘土が敷き詰められ、汚水が地中へそのまま染み出しにくい形に整えられていた。
「大きさは?」
「宿泊客十五人と、宿の者が使う想定だ」
「一日一回の清掃水も入ります」
「それを含めて余裕を取った」
「雨水は?」
「蓋を付ける。地面も周囲より高くする」
ボルグは穴の側面を指した。
「汚物は最初の部屋にたまり、水だけが隣へ移るように壁を作る。全部を一つにためるより、汲み取りやすい」
直人は感心した。
完全な浄化槽ではない。
だが、固形物を沈殿させ、上澄みを次の槽へ移す簡易的な構造になっている。
「俺が説明したものより、現実的ですね」
「穴の中で働いたことのない奴が描いた図だからな」
「認めます」
「便器のことはお前が知っている。汚物のたまり方は俺が知っている」
ボルグは鋤を肩に担いだ。
「どちらかだけでは、使えるものにならん」
「その通りです」
以前の直人なら、自分の知る現代設備へ近づけようとしたかもしれない。
だが、この世界にはポンプもコンクリートも、工場製の塩化ビニール管もない。
手に入る材料で、保守できる構造を作る必要がある。
設備は、完成した瞬間だけ動けばよいものではない。
明日も、一年後も、壊れた時に直せなければ意味がない。
「排水管をつなげたら、水だけ流して確認しましょう」
「今度は俺の足へ落とすなよ」
「もう処理槽へ接続します」
「お前の場合、接続した先から漏れるかもしれん」
「否定できないのがつらいですね」
◇
三日後。
銀月亭の共同水洗便所は、ひとまず利用できる形になった。
宿の一階廊下から、新しく作られた扉を開ける。
その先には、大人二人が余裕を持って入れるほどの小部屋がある。
壁は明るい木材で作られ、上部には細長い換気口が設けられた。
扉の内側には木製の掛け金。
外から見て使用中だと分かるように、赤い板と白い板を裏返せる表示も付けられている。
床の中央には、白い陶器製便器。
その上には、ガルドが作り直した木製便座が載っていた。
便器の前には、リリアの身長でも足が安定する固定式の足置き。
壁には立ち座りを支える木製の手すり。
右側には洗浄用の紐。
紐を引けば、壁の上部に固定した陶器の貯水槽から水が流れる。
便器の下から伸びる木製排水管は、便所の裏を通り、簡易処理槽へ接続されていた。
室内の隅には、小さな手洗い壺も置かれている。
「白い便器以外は、全部この町で作ったのね」
リリアが室内を見回した。
「試験設備としては、よくできています」
直人は答えた。
「試験なの?」
「長期間使わないと分からない問題があります」
「お客様には試験中だと伝えるの?」
「伝えます。異常があれば、すぐ使用を止めてもらいます」
「不安がられない?」
「安全だと言い切って事故を起こす方が問題です」
直人は接続部を一つずつ確認した。
革管に漏れはない。
便器も動かない。
足置きも固定されている。
貯水槽には、ミーナが水を満たしていた。
「最初に使うのは、私よ」
リリアが言った。
「本当に使うんですか?」
「そのために作ったのでしょう」
「体調は戻りましたか」
「もう大丈夫」
「異常を感じたら、すぐに呼んでください」
「何を異常と呼ぶの?」
「便器が動く。床が沈む。水が止まらない。逆流する。異臭がする」
「聞いていると、使いたくなくなるわ」
「起こる可能性があることは説明します」
「説明はもう十分。外へ出て」
直人、ガルド、ミーナ、ボルグ、ロッカ、マルタが便所から追い出された。
扉が閉まり、内側から掛け金の音がする。
「全員で待つ必要があるのか」
ガルドが腕を組んだ。
「最初の使用です。何かあったら、それぞれの担当部分を確認します」
「便所の前に六人も立っていたら、落ち着かんだろう」
ボルグの言う通りだった。
直人は皆を少し離れさせた。
自分も廊下の曲がり角まで下がる。
室内から音はほとんど聞こえない。
リリアには、使い終わった後に洗浄紐を引き、問題があれば声をかけるよう説明してある。
しばらくして。
ごぼん。
低い洗浄音がした。
続いて、木管の中を水が流れる音。
直人は耳を澄ませた。
水の音は途中で止まることなく、処理槽の方向へ遠ざかっていった。
逆流音もない。
貯水槽から水が流れ続けている様子もない。
扉の掛け金が外れた。
リリアが姿を現す。
顔は平静を装っていたが、耳が少し赤い。
「どうでした?」
直人が尋ねる。
「普通だったわ」
「普通?」
「座って、使って、紐を引いた。全部流れた。それだけ」
「臭いは?」
「ほとんどしなかった」
「水は飛び散りませんでしたか」
「大丈夫」
「便座の高さは?」
「足置きがあれば問題ないわ」
「操作紐は?」
「少し重い。でも、引けないほどではない」
直人は手帳へ書き込んだ。
「ほかに気になったところは?」
リリアは少し迷ってから、小さな声で答えた。
「音が思ったより大きい」
「洗浄音ですか」
「外に聞こえるでしょう?」
「ある程度は」
「どうにかならない?」
「壁を厚くするか、排水管の周囲へ防音材を入れる方法があります」
「ぼうおん?」
「音を小さくする材料です。布や乾いた藁でも多少は変わるかもしれません」
「今後の改良ね」
「はい」
リリアは便所の扉を見た。
「でも、使えた」
「使えましたね」
「壺を部屋へ置かなくても、夜中にここへ来ればいい」
「灯りを忘れないでください」
「分かっているわ」
「貯水槽の水位も確認してください。水が足りない時は使用禁止です」
「説明が始まった」
「重要です」
リリアは苦笑した。
「とにかく、お客様にも使ってもらいましょう」
「今日は宿泊客がいるんですか」
「一人だけ」
銀月亭に宿泊していたのは、行商人のダリオという男だった。
三十代半ば。
小麦や乾燥豆を各地で売り歩いているらしい。
新しい便所の話を聞くと、最初は顔をしかめた。
「水の中へするのか?」
「水へ直接ではありません」
直人は利用方法を説明した。
「便器へ座る。用を足す。終わったら紐を引く。流してよいのは、人の排泄物と、この薄い紙だけです」
直人はリリアが用意した柔らかな紙を見せた。
この世界では、布、乾燥させた植物、木片などが使われている。
厚い布や大きな葉を便器へ流せば、間違いなく詰まる。
「布は横の蓋付き箱へ入れてください。便器には入れないでください」
「何度も言うな。子どもではない」
ダリオは不機嫌そうに答えた。
「使用方法を守れば問題ありません」
「本当に臭わないのか?」
「使った後に水を流せば、便器の中へ水が残って臭いを止めます」
「それは見てみたい」
ダリオは便所へ入り、すぐに出てきた。
「今は使わないんですか」
「必要になってからだ。見物するだけで金を取るのか?」
「宿泊客は無料です」
「なら、夜に使わせてもらう」
説明を理解したように見えた。
直人は念を押す。
「布は流さないでください」
「分かったと言っている」
男は面倒そうに手を振り、客室へ戻った。
◇
その夜。
直人は一階の空き部屋で目を覚ました。
どん、どん、どん。
扉を激しく叩く音がする。
「ナオト! 起きて!」
リリアの声だった。
窓の外は暗い。
灯りをつけ、扉を開ける。
「どうしました?」
「便器から水があふれている!」
直人は一気に眠気が覚めた。
「使用を止めましたか?」
「ダリオさんが何度も紐を引いたみたいで……!」
「何度も?」
工具箱をつかみ、廊下へ飛び出す。
便所の前には、ダリオ、リリア、マルタが立っていた。
床へ濁った水が広がり、廊下側まで流れかけている。
便器の中には水が縁近くまでたまり、ゆっくりと水位が上がっていた。
「紐を引かないでください!」
直人が叫ぶ。
「流れなかったから、三度ほど引いた」
ダリオが答えた。
「流れない時は、追加で水を流してはいけません!」
「そんなことは聞いていない!」
「異常があれば呼んでくださいと説明しました」
「便所くらい、自分で使えると思ったんだ!」
直人は言い返すのをやめた。
今は原因を止める方が先だ。
「ミーナさんを呼んでください。ボルグさんにも連絡を」
マルタが走り出す。
直人は貯水槽へ上り、栓が完全に閉じていることを確認した。
追加の水は止まっている。
次に便器の周囲を見る。
接続部からの水漏れではない。
便器内部から水位が上がっている。
排水管の途中で詰まっている可能性が高い。
「何を流しました?」
「普通に使っただけだ」
「紙は?」
「横に置いてあったものを使った」
「布は流していませんね?」
「流していない」
直人は便器の中をライトで照らした。
水面に、細い繊維が浮いている。
紙とは違う。
「本当に布は入れていませんか」
「入れていないと言っている!」
ダリオが声を荒らげる。
リリアが男の腰へ目を向けた。
帯から、片側が裂けた小さな布袋が下がっている。
「その袋、どうしたの?」
「何がだ」
「端がなくなっているわ」
ダリオは布袋を見た。
「ああ。便所へ入った時、破れた。古い布だからな」
「破れた部分は?」
「知らん。床へ落ちたんじゃないのか」
「便器へ落ちた可能性があります」
直人が言うと、ダリオの顔色が変わった。
「小さな布だ」
「布は水に溶けません。管の曲がった場所へ引っかかれば、汚物や紙がその上にたまります」
「そんな程度で詰まるのか」
「だから、流してはいけないと説明しました」
「わざと入れたわけではない!」
「責めている場合ではありません。詰まりを取ります」
直人はゴム手袋をはめた。
工具箱には、排水管の清掃用に使える短いワイヤーがある。
だが、現代の便器用詰まり除去器具は持ち込めていない。
木製排水管は傷つきやすく、無理に金属を突っ込めば接合部を壊す危険もある。
「まず、便器の中の水を減らします」
小さな桶で汚水をすくい、蓋付きの壺へ移す。
リリアも手伝おうとしたが、直人は止めた。
「手袋がありません。近づかないでください」
「でも、一人では時間がかかるでしょう」
「マルタさんが戻ったら、革手袋を用意してもらいます。それまでは俺がやります」
「私の宿よ」
「だから、病気にならないでください」
リリアは悔しそうに唇を結んだ。
便器内の水位を下げる。
排水口へワイヤーを差し込む。
最初の曲がりまでは進んだ。
その先で、柔らかい抵抗に当たる。
「何かあります」
「取れる?」
「押し込むのではなく、引き出します」
ワイヤーの先端を少し曲げ、布へ引っかける。
ゆっくり回す。
手応えがある。
しかし、引くと途中で外れた。
「管を外した方が早いかもしれません」
「床を壊すの?」
「便器を取り外します」
「完成したばかりでしょう!」
「修理できるように、取り外せる構造にしています」
直人は固定金具を緩め始めた。
便器を設置する際、将来の修理を考え、床へ直接埋め込まず、接続部品を介して固定していた。
それが早くも役に立つ。
数分後、ミーナとボルグが到着した。
「どうしたのですか」
「布が入って、排水が詰まりました」
「完成したその日にか」
ボルグが呆れた声を出す。
「設備の問題なの?」
ミーナが尋ねる。
「布が落ちたことが原因です。ただし、落ちても詰まりにくい構造を考える必要はあります」
「客が悪いと言わないのか」
ダリオが険しい顔で言った。
「使い方を守らなかったことは問題です」
直人は工具を動かしながら答えた。
「でも、初めて使う設備です。落とした布がそのまま流れる構造にも改善の余地があります」
「何でも設備のせいにするつもりか」
ボルグが言う。
「違います。使用者への説明と設備の構造、両方を改善します」
固定金具が外れた。
便器を持ち上げ、排水接続部から離す。
ミーナとボルグが左右から支えた。
便器の下に現れた木製排水管の入口には、濡れた布と紙が固まって詰まっていた。
「見えた」
ボルグが腕を伸ばす。
「素手では触らないでください」
「汚物を扱う仕事を何年していると思っている」
「何年していても、危険は危険です」
直人は予備のゴム手袋を一組渡した。
ボルグは初めて使う薄い手袋を不審そうに見たが、黙ってはめた。
「破れそうだな」
「鋭いものには弱いです。布だけをつかんでください」
ボルグが排水管へ指を入れ、詰まりを引き抜いた。
破れた布袋の一部。
厚い紙。
細い木片。
「木片もあるぞ」
「俺ではない!」
ダリオが叫ぶ。
「前の試験で使った土と藁の一部かもしれません」
直人は木片を確認した。
排水管を作った時に出た削りかすにも見える。
施工後の管内清掃が不十分だった可能性がある。
「利用者だけの問題ではありませんでした」
「どういうこと?」
リリアが尋ねる。
「管の中に施工時のごみが残っていました。そこへ布が引っかかった」
「工事をした側にも原因があるのね」
「はい」
直人は即答した。
使い方を守らなかったダリオ。
管内を十分に清掃しなかった施工側。
どちらか一方だけを責めれば、同じ事故が再発する。
「詰まりを取った後、管の中を全部洗い流します」
「また大量の水を使うのか」
ボルグが言う。
「清掃に必要です。流した水は処理槽で受けます」
「俺が確認する」
「お願いします」
詰まりを取り除いた排水管へ、ミーナが少量ずつ水を流す。
ボルグは処理槽側で流れを確認した。
最初に濁った水と、小さな木くずが出る。
何度か流すと、水は滞りなく通るようになった。
便器を元へ戻し、接続部を締め直す。
床にこぼれた汚水を拭き取り、湯で洗う。
便器内部にも水を流し、詰まりが解消したことを確認する。
作業が終わった時には、夜がかなり更けていた。
◇
銀月亭の食堂で、関係者全員が机を囲んだ。
ダリオも残っている。
宿泊客だからではない。
最初の事故の利用者として、直人が話を聞きたいと頼んだからだ。
「今日の原因を整理します」
直人は手帳を開いた。
「一つ目。ダリオさんの布袋の一部が便器へ落ちた」
「わざとではない」
「分かっています。二つ目。施工時に出た木くずが排水管の中に残っていた」
ロッカが眉を寄せた。
「管を取り付けたのは、俺だ」
「責任を一人にする話ではありません。俺も完成確認で見落としました」
「水を何度も流しただろう」
「流れたから問題ないと判断しました。管内に異物が残っていないか、もっと多い水量で確認すべきでした」
「三つ目は?」
リリアが尋ねる。
「水が流れない時の対応を、十分に説明できていなかった」
「異常なら呼べと言われたぞ」
ダリオが言う。
「言いました。ただ、“もう一度流せば直る”と考える人がいることを想定していませんでした」
「普通はそうするだろう」
「便器が詰まった状態で水を追加すれば、あふれます」
「それを最初に言え」
「今後は説明します」
直人は紙へ大きな文字を書いた。
こちらの文字はまだ書けないため、リリアに内容を伝えて記してもらう。
流れない時は、紐を引かない。宿の者を呼ぶこと。
「これを便所の壁へ貼ります」
「文字を読めない客もいるわ」
リリアが指摘した。
「絵も必要ですね」
「便器から水があふれる絵?」
「赤い印を付けた洗浄紐と、宿の者を呼ぶ人の絵にしましょう」
「誰が描くの?」
全員の視線が集まった。
直人は絵が得意ではない。
工具箱に施工図を書くことはあっても、人間の絵は棒人間になる。
「ミーナさんは?」
「私も描けません」
「ガルドさん」
「陶器の模様なら描ける。便器からあふれる男など描きたくない」
「ロッカさんは?」
「木へ印を刻むならできる」
「では、簡単な記号を作りましょう」
リリアは机へ頬杖をついた。
「便器一台を使うだけで、決まりが増えていくのね」
「新しい設備ですから」
「宿の者も、詰まりを直せるようにしなければならないでしょう?」
「はい」
「あなたがいない夜に、また詰まったら困るわ」
「簡単な詰まりなら対応できる道具を作ります」
「私がやるの?」
「リリアさんかマルタさん。それと、今後従業員を増やすなら担当者を決めてください」
「便所の担当者……」
「罰として押しつけないでください。設備管理の仕事です」
床下の清掃も、汲み取りも、便器の手入れも。
誰かがやらなければならない仕事は、価値の低い仕事ではない。
「点検表も必要ですね」
「てんけんひょう?」
「毎朝、貯水槽、漏れ、臭い、流れ方を確認した記録です」
「毎日?」
「故障を早く見つけるためです」
「便所だけで帳簿が一冊できそう」
「それくらい管理が必要です」
リリアは深くため息をついた。
それでも、拒絶はしなかった。
「分かったわ。マルタと交代で確認する」
「俺も数日は毎朝見ます」
「ずっと銀月亭にいるの?」
「今は帰る場所がありませんから」
「宿代は?」
「工事費から差し引いてください」
「工事費を払えるかも分からないのに?」
「では、宿泊と食事を報酬の一部にします」
リリアは少し考えた。
「それなら契約書を作りましょう」
「契約書?」
「言った、言わないになるのは困るもの」
直人は驚いた。
異世界でも、商売人の考えることは変わらない。
「お願いします」
「今日の修理代は、ダリオさんへ請求するの?」
リリアが尋ねる。
ダリオの表情が険しくなる。
直人は少し考えた。
「今回は請求しません」
「なぜだ」
ダリオが逆に驚いた。
「布が入ったことだけが原因ではなかったからです。施工側にも不備がありました」
「では、宿が払うの?」
「俺の作業分は取りません。材料も新しく使っていません」
「今後、客が故意に物を流した場合は?」
リリアは商売人として尋ねている。
「使用方法を明確に伝えたうえで、故意や重大な不注意による詰まりなら、修理費を請求する条件を作りましょう」
「客が拒否したら?」
「宿泊時に説明し、同意してもらいます」
「便所を使うだけで契約が必要なの?」
「設備を守るためです」
ダリオは椅子から立ち上がった。
「俺は悪かったと思っている」
全員が男を見る。
「布が落ちた時、拾うのが面倒で、そのまま流れると思った」
「では、気づいていたんですか」
リリアの声が低くなった。
「小さな布だった。水で流れると思ったんだ」
「先ほどは知らないと言ったでしょう!」
「壊したと責められると思った」
ダリオは目をそらした。
「だが、そっちの木くずも原因だったのだろう」
「はい」
直人は答えた。
「だから、費用は請求しません。ただし、次からは必ず知らせてください」
「分かった」
「布が落ちた時点で呼んでもらえれば、詰まる前に取り出せました」
「……分かった」
ダリオは財布から銅貨を数枚取り出し、机へ置いた。
「修理代ではない。迷惑をかけた詫びだ。それと、この便所は悪くない」
リリアが銅貨を見る。
「使いにくかったのでは?」
「穴の上でしゃがむより楽だった。臭いも少ない。壺を部屋に置かなくていいのも助かる」
ダリオは照れを隠すように外套を羽織った。
「朝になったら、商売仲間に話してやる。銀月亭には、水で流れる白い便所があるとな」
「詰まったことも話すつもり?」
リリアが聞く。
「直したことも含めてな」
ダリオは客室へ戻っていった。
机には、銅貨が残された。
リリアが一枚を指先で持ち上げる。
「便所のために、初めてお金が置かれたわ」
「修理代ではありません」
「それでも、この設備に価値を感じたからでしょう」
直人はうなずいた。
完成初日に詰まった。
成功とは言いにくい。
だが、詰まりを直し、原因を説明し、利用者の信頼を完全には失わずに済んだ。
施工担当者の仕事は、設置した瞬間に終わるものではない。
壊れた時こそ、本当の評価が決まる。
「明日の朝、使い方の説明を作り直します」
直人が言うと、リリアは呆れた顔をした。
「まだ働くの?」
「忘れないうちに原因を書いておきます」
「少しは休みなさい」
「記録だけです」
「それを働くと言うのよ」
リリアは直人の手帳を取り上げた。
「今日はもう終わり。続きは朝」
「でも――」
「宿の主人の命令です」
直人は反論しようとした。
だが、体が急に重くなった。
床下調査から工事、通水試験、夜中の詰まり修理まで、休まず動いている。
「分かりました」
「素直でよろしい」
「ただし、便所は朝まで使用禁止にしてください」
「はいはい」
「貯水槽の栓も――」
「私が確認する」
「床の清掃は――」
「マルタと終わらせる」
「処理槽側は――」
「ボルグが見てくれる」
リリアは手帳を胸元へ抱えた。
「あなた一人で、全部やらなくてもいいの」
直人は食堂に残った仲間たちを見た。
水を扱うミーナ。
陶器を作るガルド。
汚物処理を知るボルグ。
木工を担うロッカ。
宿を運営するリリアとマルタ。
確かに、一人ではない。
「おやすみなさい」
直人はようやく席を立った。
「おやすみ、ナオト」
異世界初の水洗便器は、完成初日に詰まった。
しかし、壊れて終わりにはならなかった。
直して、原因を調べ、次に同じことが起きないようにする。
その繰り返しが、設備を本当に使えるものへ変えていく。
銀月亭の水洗便器は、営業初日の夜に詰まりました。
原因は利用者が落とした布だけでなく、施工時に排水管内へ残っていた木くずにもありました。
直人は利用者だけを責めず、説明方法、完成検査、修理体制を見直します。
次回は、銀月亭で水洗便所の正式運用を始めるため、使用方法と点検制度を整えます。




