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トイレ販売員、異世界で水洗便器を売る ~ウォシュレットを設置したら王妃と魔王から指名されました~  作者: たむ
第1章 異世界に、最初の便器を

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第7話 便器に座れない宿屋の娘

異世界で最初の水洗試験は成功しました。


しかし、流れることと、人が安心して使えることは別の問題です。


次に必要なのは、実際の利用者から意見を聞くことでした。

 異世界で最初の水洗便器は、誰も座れないまま夕方を迎えた。


 水は流れた。


 土と藁の塊も、きれいに排出できた。


 給水口からの逆流もなく、便器の固定も外れていない。


 それでも、銀月亭の裏庭に置かれた白い便器は、まだ完成品とは呼べなかった。


「これへ座れと言われても、無理よ」


 リリアは便器から三歩離れた場所で、きっぱりと言った。


「便座は付けました」


 直人が答える。


「そういう問題ではないわ」


 便器の上には、ガルドが急ごしらえで作った木製便座が載せられていた。


 二枚の板を円形に近く削り、中央に穴を開けたものだ。


 表面は丁寧に磨かれており、ささくれもない。


 後方には簡単な蝶番が取り付けられ、便座を持ち上げることもできる。


 短時間で作ったものとしては、十分な仕上がりだった。


 ただし。


 便器は、銀月亭の裏庭の中央にある。


 周囲には壁がない。


 屋根もない。


 通りから直接は見えないものの、厨房の窓や二階の客室からは丸見えだった。


「ここで使えとは言っていません」


 直人は説明した。


「まず座り心地と高さを確かめるだけです。服を着たままで構いません」


「それを先に言いなさいよ!」


「実際に使うと思ったんですか?」


「あなたが『最初に座ってください』と真顔で言うからでしょう!」


 リリアの声が裏庭へ響く。


 厨房の窓から、マルタが心配そうに顔を出した。


 ミーナは水壺の近くで口元を押さえている。


 笑っているのを隠しているらしい。


「何がおかしいの、ミーナ」


「何もおかしくありません」


「笑っているでしょう」


「リリアさんが、便器を前にして魔物より警戒しているので」


「魔物なら逃げるか戦うかできるわ。これは使い方が分からないのよ」


「昨日、穴へ座るだけだと言っていませんでしたか」


「これは穴というより、白い椅子みたいでしょう」


 リリアは便器を指した。


「しかも水がたまっている。間違って落ちたらどうするの?」


「便座より下へ落ちることはありません」


「本当に?」


「普通に座れば」


「普通の座り方が分からないのよ!」


 直人は、ようやく自分の説明不足に気づいた。


 元の世界では、洋式便器へどう座るかを成人へ説明する機会などほとんどない。


 幼い子どもや、和式便器しか使ったことのない高齢者へ案内する場合はあっても、基本的には見れば分かるものとして扱われていた。


 だが、この世界では違う。


 リリアたちは、床板に開いた穴の上でしゃがむか、便壺の上へ腰を浮かせて用を足してきた。


 便器へ体重を預けて座るという習慣がない。


「分かりました。最初から説明します」


 直人は便器の横へ立った。


「まず、こちらが前です」


 便器の先端を指す。


「こちらが後ろ。将来は背後に貯水槽を置きます」


「今は大壺があるわね」


「あれは試験用です。常設するなら、もう少し小さくして壁側へ設置します」


「前と後ろを間違える人がいるの?」


「初めて見るなら、いるかもしれません」


 直人はガルドの作った便座を持ち上げた。


「これは便座です。座る時は下ろします」


「持ち上げるのは、なぜ?」


「掃除をしやすくするためです。それと――」


 直人は一度言葉を選んだ。


「立って使用する人もいます」


「立って?」


 リリアだけでなく、ミーナとマルタも怪訝な顔をした。


「それは後で説明します」


「気になる言い方をしないで」


「今は座り方です」


 直人は便座を下ろした。


「便器へ背を向けて、ゆっくり腰を下ろします。椅子と同じです」


「見本を見せて」


「俺が?」


「作った本人でしょう」


「作ったのはガルドさんです」


「俺を巻き込むな」


 少し離れた場所で木管を調べていたガルドが、即座に拒絶した。


「ナオトが説明するべきです」


 ミーナも言う。


「開発担当なのに?」


「開発した設備を実演するのも、開発担当の仕事ではありませんか」


「便利な言葉として使っていませんか?」


「少しだけ」


 直人はため息をついた。


 作業着のまま便器の前に立ち、背を向ける。


 便座の位置を確認し、ゆっくり腰を下ろした。


 木製便座が、みしりと鳴った。


「今、音がしたわ」


 リリアが言う。


「木ですから、多少は」


「壊れない?」


「ガルドさん」


「お前程度の重さで壊れるようには作っておらん」


 ガルドは不機嫌そうに答えた。


「ただし、勢いよく座るな。蝶番は仮のものだ」


「だそうです」


 直人は便座に腰掛けたまま、足の位置を示した。


「足は地面につけます。体を無理に浮かせる必要はありません」


「便器へ全部の体重をかけるの?」


「そのために床へ固定します」


「動かない?」


「動きません」


 リリアは便器の台を見た。


 厚い板へ固定された便器を、直人とガルドが何度も揺らして確認している。


 それでも不安は消えないらしい。


「次はリリアさんです」


「マルタからでいいでしょう」


「お嬢様より先に、わたくしが使ってよろしいのでしょうか」


 マルタが真剣に尋ねた。


「順位は関係ありません」


 直人が答えると、リリアは小さく息を吐いた。


「分かったわ。私が座る」


「無理をしなくても」


「私の宿へ設置するのでしょう。客へ勧めるなら、宿の主人が試さなければならないわ」


 その言葉には、商売人としての覚悟があった。


 リリアは便器へ近づいた。


 便座を上から押して強度を確かめる。


 次に、便器の横を軽く蹴った。


「蹴らないでください」


「動くか確かめただけよ」


「手で揺らしてください」


「手で触る方が嫌なのだけれど」


「まだ誰も使用していません」


「あなたが座ったでしょう」


「服を着たままです」


「分かっているわよ」


 リリアは便器へ背を向けた。


 裾の長いスカートを押さえながら、恐る恐る膝を曲げる。


 腰が便座へ触れた瞬間、すぐに立ち上がった。


「冷たい!」


「木ですよ?」


「思ったより冷たいの!」


 ガルドが鼻を鳴らした。


「火で温めてから使えとでも言うのか」


「冬は必要になるかもしれません」


 直人は何気なく答えた。


「便座を温めるのですか?」


 ミーナが興味を示す。


「俺の世界には、温かくなる便座もありました」


「便所の椅子を?」


「寒い日に冷たい便座へ座るのはつらいですから」


「そこまで便所を快適にする必要があるの?」


 リリアが呆れた顔をする。


「一度慣れると、冷たい便座へ戻れなくなる人もいます」


「あなたの国は、便所へ情熱を注ぎすぎていない?」


「否定はしません」


「まさか、水で体を洗う便器まであるとは言わないでしょうね」


 直人は黙った。


 リリアが目を細める。


「あるの?」


「あります」


「どこから水が出るのよ」


「便座の下から小さなノズルが出て――」


「今は聞かない」


 リリアは片手を上げて説明を止めた。


「その話は、この普通の便器を使えるようにしてからにして」


「俺もそのつもりです」


 温水洗浄便座を再現するには、安定した給水圧、温度制御、細かな部品が必要になる。


 現在の仮設水洗便器より、はるかに難しい。


 だが、ミーナはすでに興味を持ったようだった。


「水で洗う……」


 杖の透明な石を見つめ、小さく呟いている。


 今は触れない方がよさそうだ。


「もう一度座ってみてください」


「冷たくても?」


「座り心地を確認しないと、便座の形を直せません」


 リリアは意を決したように、再び腰を下ろした。


 今度は便座へ完全に体重を預ける。


 木がわずかに鳴ったが、壊れない。


「どうですか?」


「高い」


「足は地面につきますか」


「つま先だけ」


 直人はリリアの足元を見た。


 確かに、踵が浮いている。


 持ち込んだ便器は、現代日本の成人向けだ。


 リリアは平均的な日本人女性より少し小柄だった。


 さらに便器を固定した厚い板の分だけ、高さが増している。


「このままでは使いにくいですね」


「子どもなら、もっと届かないわ」


「踏み台を置く方法があります」


「客が乗り降りするたびに?」


「便器を低くするには、本体から作り直す必要があります」


 ガルドが会話を聞きつけ、便器の横へ来た。


「この高さでは駄目なのか」


「リリアさんには少し高いです」


「足が届かなくても、座れるだろう」


「長く座ると不安定です。それに、立ち上がる時も力が入りにくい」


「なら、こちらの者に合わせて低く作ればよい」


「作ってくれるんですね」


「試すと言っているだけだ!」


 ガルドは便器を睨んだ。


「どれほど低くする」


「利用する人の身長を調べて決めます。大人用、子ども用で便座を分ける方法もあります」


「一つの器で全員が使えるのではないのか」


「使えます。でも、使えることと、使いやすいことは別です」


 リリアが便座に座ったまま、前後へ少し体を動かした。


「座る場所が分かりにくいわ」


「前へ寄りすぎると使いにくいです」


「どこが正しいの?」


「自然に腰を下ろして、安定する位置です」


「それでは、客へ説明できないでしょう」


「確かに」


 直人は便座の形を見る。


 ガルドは便器の外周に合わせて板を削ったが、前後の幅がほぼ同じだった。


 現代の便座は、人体に合わせてわずかに形状が調整されている。


「便座の後ろ側を少し広くして、座る位置が自然に決まるようにしましょう」


「俺の便座が悪いと言うのか」


「試作品としては十分です。実際に座ったから改善点が分かったんです」


「お前が座った時には分からなかったのか」


「俺には高さも幅も合っていたので」


「やはり、使う者によって違うのだな」


 ガルドは顎髭を撫でた。


 口調は不機嫌だが、目は真剣だった。


 便器本体だけでなく、便座の形状にも興味を持ち始めている。


「ほかに気になるところは?」


 直人が尋ねると、リリアは自分の左右を見た。


「少し怖いわ」


「何がですか」


「背中に何もないから」


「壁側へ設置すれば、後ろに壁があります」


「それでも、立つ時につかまる場所がほしい」


「手すりですね」


「手すり?」


「手で握って、立ち座りを助ける棒です」


「私は自分で立てるわ」


「今は体調が悪いから、不安に感じるんでしょう」


 直人はリリアが森で倒れていたことを思い出した。


 体力が戻っていない。


 元気な時なら問題なくても、病気や怪我をした人、高齢者には支えが必要になる。


「治療院や高齢者が利用するなら、最初から付けた方がいいですね」


「また話が大きくなっているわ」


「使ってもらうと、必要なものが見えてきます」


 リリアは便座から立ち上がった。


 今度は慎重に体を前へ傾け、地面へ足をつく。


「立つ時に、便器が少し動いた気がする」


「本当ですか?」


 直人はすぐに便器の横へしゃがんだ。


 固定板を揺らす。


 便器本体は動かない。


 しかし、板の下に入れた高さ調整用の木片が、わずかにずれていた。


「便器ではなく、台が動いています」


「危ないの?」


「このまま常設はできません」


「成功したと言っていたでしょう」


「水を流す試験は成功しました。人が使う試験では、改善が必要です」


「成功が細かく分かれているのね」


「一つずつ確認しないと、事故になります」


 直人は高さ調整用の木片を戻した。


 試験のたびに新しい問題が見つかる。


 水平にするための板が、人の立ち座りでずれた。


 常設時には、しっかりした床を作り、固定板そのものが動かないようにしなければならない。


「次は、実際に水を流す操作を試します」


 直人は水壺から下がった紐を示した。


「用を足した後、この紐を引きます」


「座ったまま?」


「立ってからで構いません」


「後ろを向いて引くの?」


「今の位置だと、そうなりますね」


「使いにくいわ」


「紐を横へ延ばしましょう」


 リリアが実際に使う様子を想像したことで、操作位置の問題も見つかった。


 水壺の栓から真下へ垂らしただけでは、便器の背後へ手を伸ばす必要がある。


 右か左の壁へ紐を通し、座った位置からでも届くようにした方がいい。


「左右のどちらが使いやすいですか」


「右側」


「左手を使う人もいます」


「両側に付けるの?」


「一つの紐を前へ回せば、どちらからでも引けます」


「子どもが引っ張って遊びそうね」


「……あり得ます」


 必要以上に水を流されれば、水壺がすぐ空になる。


 使用者以外が誤って操作しない仕組みも必要だ。


「紐は、少し高い位置に固定しましょう。使用する時だけ外せるようにします」


「それでは子どもが使えないわ」


「子どもが使う場合は、大人が手伝うか、低い位置にも取っ手を――」


 直人は途中で止まった。


 すべてを一台へ盛り込めば、複雑になる。


 最初の設備は、銀月亭の宿泊客向けだ。


 利用者の大半は成人。


 子ども用は後から追加すればいい。


「まず、成人が安全に使える形を完成させます」


「ようやく、全部を一度に作るのを諦めたのね」


「俺が広げたんですか?」


「さっきから、あなたが高齢者や子どもの話を増やしているでしょう」


「気づくと、対応したくなるんです」


「悪い癖ね」


「職業病です」


          ◇


 便器へ座る試験を終えた後、直人たちは銀月亭の食堂へ移動した。


 机の上には、直人が描いた簡単な配置図が広げられている。


 裏庭のどこへ共同便所を建てるか。


 水壺をどこへ置くか。


 排水管をどの方向へ延ばすか。


 処理槽をどこへ作るか。


 利用者が夜でも安全に移動できる道をどう確保するか。


「客室の中に置けないの?」


 リリアが尋ねた。


「いずれは可能です。ただ、今は床下の汚染と腐食を直さなければなりません」


「共同便所を一つ作る方が早い?」


「はい。一か所なら、給水と排水も集中できます」


「でも、夜中に外へ出るのは危ないわ」


「宿の建物から直接入れる小屋にしましょう」


 直人は一階の廊下から裏庭へ続く位置へ線を引いた。


「壁に扉を作る必要がありますが、雨に濡れず移動できます」


「壁を壊すの?」


「必要な部分だけです」


「簡単に言うわね」


「木工職人へ相談します」


「今度は木工職人まで必要なの?」


「便器一台を置くだけなら必要ありません。でも、客が使える便所を作るなら必要です」


 リリアは帳簿を開いた。


 古びた紙へ、数字が細かく記されている。


「職人を何人も雇える金はないわ」


「現金以外で払えるものは?」


「宿泊と食事。あとは、今後お客様が戻った時に分けて払うくらい」


「職人がそれを受け入れますか」


「分からない」


「商会や組合は?」


「木工職人は職人組合に入っている。勝手に安く働けば、ほかの職人から嫌われるわ」


 異世界にも相場と業界の仕組みがある。


 善意だけで工事を進めれば、既存の職人たちと対立しかねない。


「値下げを頼むのではなく、試験設備への協力として契約できませんか」


「試験設備?」


「完成後、この便所を見本として職人へ公開します。次の注文が入ったら、同じ職人へ仕事を依頼する」


 リリアの目が細くなった。


「将来の仕事を条件に、最初の工事を安くしてもらうのね」


「無償にはしません。支払える分は支払う。残りは分割か、次の売上から払う」


「次の注文が来なかったら?」


「銀月亭の売上から返します」


「それができないから困っているのだけれど」


「なら、便所で客を呼び戻します」


 リリアはしばらく直人を見つめた。


「本気なのね」


「俺の世界では、清潔なトイレは宿を選ぶ理由になります」


「でも、この町の人は、便所に期待していない」


「期待していないから、差になります」


 新しい宿が香草を便壺へ入れ、臭いを隠して評判を得ている。


 それなら、臭いの少ない水洗便所は、さらに大きな強みになる。


「最初は見物だけでもいいんです」


「見物?」


「異国から来た職人が、不思議な水洗便器を作った。そう宣伝してください」


「便所を見せ物にするの?」


「設備が珍しい間は、体験そのものが宣伝になります」


 リリアは帳簿を閉じた。


 宿屋の主人として、利益を計算している顔だった。


「宿泊していない人にも見せる?」


「最初の数日だけです。説明役を付けて、勝手に触られないようにします」


「体験料を取れるかしら」


「いきなり取ると、誰も来ないかもしれません」


「でも、水も清掃も無料ではないわ」


「利用者から少額を受け取る方法は、将来的には必要です」


 共同便所の維持には費用がかかる。


 清掃する人の賃金。


 水。


 壊れた部品。


 汚物処理。


 無料で提供し続ければ、誰かの負担になる。


「まず宿泊客は無料。見学者は最初だけ無料。その後、利用する人から銅貨一枚ではどうですか」


「銅貨一枚なら、払う人はいるかもしれない」


 リリアは紙へ書き込んだ。


 便所へ金を払う者はいないと言っていた彼女が、すでに料金を考えている。


「商売になりそうですか?」


 直人が尋ねる。


「まだ分からない」


 リリアは答えた。


「でも、少なくとも香草を壺へ入れるよりは、話題になるわ」


「なら、進めましょう」


「その前に」


 リリアが指を一本立てた。


「便座を低くして」


「踏み台では駄目ですか」


「私が使いにくいものを、お客様に出せないわ」


「便器本体の高さは変えられません」


「床を少し下げれば?」


 直人は配置図を見た。


 便器を設置する部分だけ床を低くし、周囲との段差を作る。


 しかし、夜間に段差でつまずく危険がある。


「床を下げるのは危ないです。代わりに足置きを固定しましょう」


「動かないものなら?」


「便器の前へ広い台を設置します。靴を履いたままでも滑らないようにする」


「それなら、試してみるわ」


「あと、手すりも付けます」


「私はいらないと言ったでしょう」


「体調が悪い時、怖かったんですよね」


「少しだけよ」


「宿泊客にも体調の悪い人がいるかもしれません」


「……分かったわ」


 リリアは渋々うなずいた。


「ただし、便所らしくない見た目にして」


「便所なのに?」


「宿の商品にするのでしょう。汚く見えるものでは困るわ」


 直人は少し考えた。


 機能を優先するあまり、見た目を後回しにしていた。


 宿屋では、清潔に見えることも重要だ。


「壁は明るい色。床は掃除しやすい材料。灯りを置き、換気口を付けます」


「花を置いてもいい?」


「汚水がかからない場所なら」


「香草も」


「臭いをごまかすためではなく、雰囲気を良くするためなら」


「注文が多いわね」


「リリアさんもです」


 二人は同時に口を閉じた。


 ミーナが小さく笑う。


「少し似ていますね」


「どこが?」


 リリアと直人の声が重なった。


「より良いものにしようとして、話を増やすところです」


 否定できなかった。


          ◇


 その夜。


 銀月亭の食堂では、工事に必要な材料が整理された。


 床材。


 柱。


 壁板。


 屋根材。


 手すり。


 固定式の足置き。


 貯水用の壺。


 給水用の革管。


 木製排水管。


 接続部の防水材。


 処理槽に使う石と粘土。


 換気用の筒。


 灯り。


 木製の扉。


 直人は手帳を見ながら、必要な数量をまとめていく。


 ガルドは便座を持ち帰り、リリアの意見を反映して削り直すことになった。


 ボルグは翌朝、処理槽の位置と大きさを決める。


 ミーナは、毎回同じ量の水を壺へ補充できるか試験する。


 リリアとマルタは、宿に残っている材料と、食事や宿泊で協力を頼める職人を探す。


 少しずつ、役割が決まっていく。


「ナオト」


 皆が帰った後、リリアが声をかけた。


「何ですか」


「便器に座った時、少しだけ安心した」


「怖いと言っていましたが」


「最初はね」


 リリアは窓の外を見た。


 裏庭には、布をかけられた白い便器が置かれている。


「穴へ落ちる心配がない。足元の板が腐っているか、毎回確かめなくてもいい。壺を倒すこともない」


「完成すれば、さらに安全になります」


「お母様が生きていた頃、夜中に便壺を運んで階段から落ちたことがあるの」


 直人は手を止めた。


「怪我を?」


「腕を折った。それでも、翌朝には厨房へ立っていたわ。宿の仕事だから仕方がないと言って」


 リリアは淡々と話した。


 だが、指先は帳簿の端を強く握っている。


「マルタも、何度も腰を痛めている。私も子どもの頃から、壺を運ぶのを手伝った」


「だから、便所を変えたいと思ったんですか」


「まだ、便所へ大金を使うのが正しいとは思っていないわ」


 リリアは直人へ向き直った。


「でも、壺を運ばなくてよくなるなら、それだけでも意味がある」


「あります」


「お客様のためだけではないのね」


「使う人も、掃除する人も、運ぶ人も含めて設備です」


 便器に座る客だけが利用者ではない。


 清掃する人。


 修理する人。


 汚物を回収する人。


 水を運ぶ人。


 全員が、設備の影響を受ける。


「必ず完成させて」


 リリアが言った。


「はい」


「それと、私が最初に使う」


「実際に?」


「宿の主人として当然でしょう」


「怖くないんですか」


「怖いわよ」


 リリアは即答した。


「だから、あなたが外で待っていて」


「何か故障した時に対応できる距離にはいます」


「近すぎるのは駄目」


「分かっています」


「音を聞くのも駄目」


「洗浄音は確認しないと――」


「絶対に駄目!」


 直人は少し考えた。


「では、使い終わって呼ばれた後に確認します」


「最初からそうして」


 リリアは頬を赤くしたまま、食堂を出ていった。


 直人は手帳へ新しい項目を書き加えた。


 利用者のプライバシー。


 安全。


 機能。


 清掃。


 保守。


 そして、人に見られず、安心して使えること。


 便器だけを見ていたのでは、気づけない条件だった。


 水を流すだけなら、第六話で成功した。


 だが、本当の意味でトイレを完成させるには、まだ足りないものが多い。


 だからこそ、実際に使う人の声が必要になる。


 直人は裏庭へ目を向けた。


 明日から、便所小屋の施工が始まる。


 異世界最初の水洗便器が、試作品から商品へ変わるための工事だった。

リリアが試作便器へ座ったことで、高さ、便座の形、足置き、手すり、操作紐、プライバシーなど、新たな改善点が見つかりました。


便器は、ただ汚物を流せればよい設備ではありません。


次回は銀月亭の水洗便所工事が始まりますが、完成直前に予想外の詰まりが発生します。

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