第6話 異世界で最初の洗浄音
最初の通水試験では、便器から水が噴き出し、ボルグが濡れる結果となりました。
それでも、水が汚物を押し流す仕組みは確認できました。
今度こそ、異世界で最初の水洗便器を動かします。
ガルドの工房は、町の西端にあった。
石造りの大きな建物で、入口の横には皿、壺、酒杯、花器が所狭しと並んでいる。
どれも形が整い、表面には複雑な模様が描かれていた。
奥には背の高い煙突があり、灰色の煙がゆっくりと空へ昇っている。
「便器を持ち込む場所には見えませんね」
陶山直人が言うと、ガルドは振り返りもせず答えた。
「当然だ。ここは町一番の陶工房だぞ」
「それなら、町一番の便器も作れそうです」
「作らん」
「まだ言っているんですか」
「俺は調べるだけだと言った」
白い便器を積んだ荷車を、工房の中へ運び入れる。
中では三人の若い職人が作業していた。
一人はろくろを回し、一人は乾燥させた皿の形を整え、もう一人は窯へ薪を運んでいる。
便器を見た瞬間、全員の手が止まった。
「親方、それは何です?」
「知らん」
「便器です」
直人が答える。
「便所で使う器です」
三人の職人は黙った。
視線が、便器からガルドへ移る。
「親方が焼くんですか?」
「焼かん!」
工房の壁が震えるほどの大声だった。
「仕事へ戻れ!」
若い職人たちは慌てて持ち場へ戻った。
ただし、全員が便器を横目で見ている。
直人には、その気持ちが分かった。
美しい食器や装飾品の並ぶ工房に、現代的な洋式便器が置かれている。
異物以外の何物でもない。
「作業台を借りるぞ」
ガルドは便器を工房中央の頑丈な台へ載せた。
「どこを塞げばよい」
「後ろの給水口です」
直人が円形の穴を示す。
持参した便器は、本来なら背面に洗浄用タンクを取り付ける形式だった。
タンクから流れ込んだ水は、便器内部の水路を通って縁へ回り、鉢全体を洗浄する。
前回はその接続口を開けたまま上から水を注いだため、一部が逆流した。
「まず、こちらの単位で寸法を測りましょう」
ガルドは木製の尺を取り出した。
直人のメジャーと並べ、目盛りの違いを比べる。
「この一尺が、俺の目盛りでは約三十……」
直人は言葉を止めた。
正確な換算値を決めるには、基準をそろえる必要がある。
「とりあえず、部品を作る間はこの尺を使います」
「最初からそうしろ」
「ただ、同じものを量産するなら、共通の寸法表が必要です」
「まだ量産の話をするのか」
「成功したら売れます」
「成功してから言え」
ガルドは細い木片を給水口へ当て、印を付けた。
木工道具を手に取ると、驚くほどの速さで削り始める。
陶工であっても、型や窯道具を作るために木工技術は必要らしい。
太い指からは想像できないほど、刃物の動きは細かい。
しばらくすると、先端がわずかに細くなった円柱形の木栓が完成した。
「これを入れればよいのか」
「木だけだと、水を吸って膨らむかもしれません」
「膨らめば、隙間が埋まる」
「抜けなくなります」
「なら、どうする」
直人は工具箱から予備のゴムパッキンを取り出した。
「これを使います」
「妙な革だな」
「ゴムです。弾力があり、水を通しにくい」
ガルドはパッキンを指で曲げた。
「同じものを作れるか?」
「材料があれば」
「この辺りで似たものなら、弾樹の樹液を固めた防水材がある」
「弾樹?」
「山地に生える木だ。馬車の車輪や瓶の栓に使う」
天然ゴムに近いものかもしれない。
直人の胸が少し高鳴った。
今あるパッキンを使い切れば終わりではない。
現地で代用品を作れる可能性がある。
「あとで見せてください」
「便器が動いたらな」
木栓へパッキンを巻き、給水口へ差し込む。
ガルドが木槌で軽く叩くと、隙間なく収まった。
「強く叩きすぎないでください。陶器が割れます」
「俺に陶器の扱いを教えるな」
「便器は一台しかありません」
「分かっておる」
直人は栓へ力をかけ、ぐらつかないことを確認した。
「次は貯水槽です」
「本当に壺では駄目なのか」
「壺でも構いません。ただし、底から一気に水を出せる必要があります」
ガルドは工房の隅から、口の広い陶器の水壺を運んできた。
高さは直人の腰ほど。
底に近い側面には、小さな穴が開いている。
「釉薬を塗る時に使う水壺だ。下の栓を抜けば水が出る」
木栓を抜くと、穴から水が勢いよく流れる構造らしい。
「使えそうです。ただし、便器より高い位置へ置きたい」
「なぜだ」
「高い場所から流した方が、水に勢いがつきます」
「ミーナの魔法では駄目なのか?」
工房の入口で待っていたミーナが、わずかに表情を硬くした。
直人は首を振る。
「試験には協力してもらいます。でも、完成した便器はミーナさんがいなくても使えなければなりません」
「私がいない時も?」
「宿泊客が便所を使うたび、魔術師を呼ぶわけにはいきませんから」
「そうですね」
ミーナの声には、少しだけ安堵が混じっていた。
単なる水汲み役ではなく、仕組みを作る側として扱われたことが嬉しいのかもしれない。
「水壺を支える台も要りますね」
「木工屋へ頼め」
「今日中には難しいですか」
「工房に窯道具を置く棚がある。古いものなら使ってよい」
ガルドは裏口近くにあった木製棚を蹴った。
分厚い柱で組まれ、重い陶器にも耐えられそうだ。
高さは便器より一メートルほど上になる。
「十分です」
「本当に、あれを銀月亭へ持っていくのか」
「貸してもらえますか」
「壊したら買い取れ」
「成功したら、便器を作ってください」
「話をすり替えるな」
◇
銀月亭へ戻ると、ボルグが裏庭で穴を掘っていた。
古い便所小屋から離れ、井戸とは反対側の土地である。
「何をしているんです?」
「土地を見ろと言ったのは、お前だろう」
ボルグは土のついた鋤を地面へ突き立てた。
「この辺りは表面だけ高い。少し掘ると固い粘土が出る」
「水は染み込みにくい?」
「そうだ。だが、雨が降れば上にたまる」
穴の深さは膝ほどだった。
底には灰色がかった土が見えている。
ボルグは手で握った粘土を直人へ渡した。
湿っているが、水がすぐに抜けるような土ではない。
「処理槽を作るなら、水が染み込みすぎない方がいい。でも、雨水が入るのは困ります」
「屋根を付けるか、周りを高くする必要がある」
「最初の試験では、桶で受けましょう」
「また俺の足へ落とすなよ」
「今度は排水口に管をつなぎます」
直人は便器と一緒に転移した排水接続部品を取り出した。
便器底部の排水口と、床側の排水管を接続するための部品である。
ただし、接続先となる管がない。
「木の管なら作れる」
ガルドが言った。
「酒樽の職人に頼めば、短いものなら今日中に削れるだろう」
「水が漏れませんか」
「内側に樹脂を塗れば、しばらくは保つ」
「恒久的には使えませんね」
「最初から百年使えるものを求めるな」
その通りだった。
これは試験施工だ。
まず、水が便器から配管を通り、決めた場所まで流れることを確認する。
長期間使う材料は、成功後に検討すればいい。
「短い木管を一本、お願いします」
「俺が頼むのか?」
「ガルドさんの知り合いなら早いでしょう」
「人使いの荒い男だ」
「協力者が増えたと思っています」
「勝手に数えるな」
文句を言いながら、ガルドは弟子の一人を酒樽職人のもとへ走らせた。
◇
昼を過ぎる頃には、銀月亭の裏庭に奇妙な設備が組み上がっていた。
木製の台。
その上に置かれた大きな水壺。
水壺の下部から伸びる短い革管。
革管は便器後部の給水口へ接続されている。
便器は二本の角材の上ではなく、厚い板へ固定された。
現代の固定金具を使い、板の裏側からナットで締めてある。
排水口には短い木管を接続し、その先は大きな桶へ伸ばした。
常設設備には程遠い。
それでも、前回よりはるかに水洗便器らしい形になっていた。
「妙な姿ね」
リリアが腕を組んで眺めている。
「便器の上に大壺があるわ」
「試験用です。完成版では、もっと小さくします」
「壺が落ちてきたら?」
「台が壊れない限り大丈夫です」
「台が壊れたら?」
「危ないです」
「安心させる気はないの?」
「危険があるのに大丈夫とは言えません」
リリアはため息をついた。
直人は便器の縁へ水平器を置いた。
気泡がわずかに左へ寄っている。
固定板の下に薄い木片を差し込み、再び測る。
今度は中央に収まった。
「水平です」
ガルドが横から確認する。
「その程度の傾きが違いを生むのか」
「水の回り方が変わることがあります」
「細かい器だな」
「だから作りがいがあるでしょう」
「まだ作るとは言っておらん」
直人は接続部分を一つずつ確認した。
木栓。
ゴムパッキン。
革管の結び目。
便器の固定金具。
排水部品。
木管。
排水桶。
「ミーナさん、水壺へ水をお願いします」
「どれくらいですか」
「半分まで」
ミーナが杖を掲げる。
空中に水球が生まれ、澄んだ水が壺へ注がれた。
水位が徐々に上がる。
「便利ね」
リリアが呟く。
「毎日、井戸から汲み上げる必要がなくなるわ」
ミーナの肩がわずかに揺れた。
「ミーナさんが毎日ここへ来るわけにはいきません」
直人は言った。
「完成後は、井戸から汲むか、別の給水方法を考えます」
「でも、水魔術師が設備へ水を補充する仕事は作れるかもしれない」
リリアはミーナへ目を向けた。
「町の宿や店に便器が増えたら、毎朝決まった量を補充して回る仕事になるでしょう?」
「水を売るのですか」
「魔法ではなく、設備を動かすための水を提供するの。井戸が遠い家なら必要とされるかもしれないわ」
ミーナは驚いた顔でリリアを見た。
直人も感心した。
商売人の視点だ。
便器を設置すれば、新しい仕事も生まれる。
ただし、魔術師一人へ過度な負担をかける仕組みは避けたい。
それでも、初期の給水手段としては現実的だった。
「水が入りました」
ミーナが杖を下ろす。
水壺は半分ほど満たされている。
水圧で革管がわずかに膨らんでいた。
しかし、接続部分からの漏れはない。
「試験用のものを入れます」
直人は濡らした土と藁を丸め、便器の中へ置いた。
「本物を使わないのか」
ボルグが言う。
「最初から本番にする必要はありません」
「便所の試験なのに」
「流れれば、次に進みます」
水壺の栓には紐が結ばれている。
紐を引けば栓が持ち上がり、水が革管を通って便器へ流れ込む。
直人は全員に下がるよう合図した。
「今度は、誰も便器を押さえないの?」
リリアが尋ねる。
「固定しました」
「本当に?」
「揺らして確認しました」
「絶対に?」
「現場で絶対とは言いません」
「不安になるわ」
「問題が起きたら、すぐ止めます」
直人は紐を握った。
少し緊張していた。
便器を設置するだけなら、これまで何百台も経験している。
だが、今は水道も下水道もない異世界だ。
木と陶器と革と魔法で、現代の水洗機構を再現しようとしている。
失敗して当然の条件だった。
それでも、成功させなければ先へ進めない。
「開けます」
直人が紐を引いた。
水壺の栓が持ち上がる。
ごうっ。
水が革管を駆け下り、便器へ流れ込んだ。
前回とは違う。
便器内部の水路を通った水が、縁の下から均等に現れた。
鉢の表面を回りながら、中央へ集まっていく。
土と藁の塊が浮いた。
水位が上がる。
一瞬、便器の中で止まったように見えた。
「詰まったの?」
リリアが声を上げる。
「まだです」
直人は便器から目を離さなかった。
水位が一定の高さを超えた。
その瞬間。
ごぼん。
低く、力強い音がした。
便器の中の水が、土と藁を巻き込みながら一気に消えた。
続いて、木管の中を水が走る音。
ざあっ。
排水桶へ濁った水が流れ込む。
土も藁も、便器には残っていない。
給水口からの逆流もない。
床への水漏れもない。
便器も動かなかった。
誰も言葉を発しなかった。
ただ、便器の底には新しい水が残り、排水口を覆っていた。
直人はしゃがみ込み、接続部へ手を当てる。
乾いている。
木管の下も確認する。
わずかな湿りはあるが、前回のように水が噴き出してはいない。
「流れました」
ミーナが小さく呟いた。
「全部……消えました」
「桶の中にある」
ボルグが指摘する。
「消えたわけではない」
「分かっています」
ミーナは頬を赤くした。
それでも、その目は便器へ釘付けになっている。
「もう一度できますか?」
「水を補充すれば」
「同じ量を?」
「壺の中の水位を同じにすれば、ほぼ同じになります」
「魔法ではなく、壺が水を流した……」
「設備とは、そういうものです」
直人は立ち上がった。
「誰かが毎回、量や勢いを考えなくても、仕組みが同じ結果を出す」
ガルドは便器の内側を覗き込んでいた。
水で洗われた表面には、土も藁もほとんど残っていない。
「なぜ、底に水が残る」
「臭いを止めるためです」
「排水口を水で塞ぐのか」
「はい。下から上がってくる臭いと虫を、水で遮ります」
「水が栓になる……」
ガルドの目つきが変わった。
それはもう、尻の下に置く器を嫌う職人の顔ではない。
未知の技術を前にした陶工の顔だった。
「もう一度流せ」
「木管の状態を確認してからです」
「一度動いたのだろう」
「一度動いたことと、安全に使い続けられることは別です」
「面倒な男だ」
「ガルドさんに言われたくありません」
ボルグは排水桶の中を棒でかき混ぜた。
「水が多いな」
「やはり、そう思いますか」
「宿の客が十人使えば、この桶が何杯必要になる」
「今の量のままでは多すぎます」
「処理する側の負担は減っていない」
「便壺を何度も運ぶよりは安全になります。でも、排水量を減らす改良は必要です」
成功したからといって、問題が消えたわけではない。
むしろ、動いたことで次の課題が見えた。
水の使用量。
貯水槽への補充。
排水の処理。
木管の耐久性。
冬の凍結。
利用者への説明。
そして、実際に座るための便座。
「それでも、流れたのね」
リリアが便器へ近づいた。
「触っても?」
「まだ座らないでください」
「座らないわよ」
「本当ですか」
「そんなに疑わなくてもいいでしょう」
リリアは便器の内側を覗いた。
「臭いがしない」
「まだ汚物を流していませんから」
「でも、穴が開いているのに、下から臭ってこないわ」
「底に残った水が止めています」
「昨日まで、この宿の便所は、近づいただけで息を止めたくなるほど臭かった」
リリアは水面を見つめた。
「これなら、宿の中に置いても大丈夫なの?」
「排水管と処理槽が正しく作られていれば」
「客室から便壺をなくせる?」
「最終的には」
リリアがゆっくり顔を上げた。
「作って」
「試験用は動きました」
「違うわ」
彼女は銀月亭を指した。
「お客様が使える便所を、この宿に作って」
昨日まで、便所へ金を使う客などいないと言っていた。
そのリリアが、自分から依頼した。
直人は白い便器を見た。
異世界へ来て初めて受けた、正式な施工依頼だった。
「見積もりが必要です」
「みつもり?」
「必要な材料と人手と費用を整理します」
「先に言っておくけれど、お金はほとんどないわ」
「知っています」
「それでも作れる?」
「今あるものを使って、最小限から始めます」
直人は答えた。
「ただし、安全に関わる部分は省けません」
「分かったわ」
「完成しても、使い方を守ってください」
「分かった」
「布やごみを流さない。水が出なくなったら使わない。異常な音がしたら――」
「まだ完成していないのに、説明が長いわ」
「先に伝えておきたいんです」
リリアは呆れたように笑った。
その後ろで、マルタが目元を押さえていた。
「どうしました?」
直人が尋ねる。
「いいえ」
マルタは首を振った。
「朝になるたび、二十もの壺を運んでいた頃を思い出しまして」
満室だった銀月亭。
二階から重い壺を下ろす。
こぼさないよう、臭いに耐えながら裏庭まで運ぶ。
それが、この世界では当然だった。
「これができれば、もう運ばなくてよくなるのでしょうか」
「全部をすぐになくすことはできません」
直人は正直に答えた。
「最初は共同便所を一つ作ります。客室の便壺を減らすのは、その後です」
「それでも、十分でございます」
マルタは便器の底に残った澄んだ水を見つめた。
直人も耳を澄ませた。
もう水は流れていない。
しかし、先ほどの音が耳に残っている。
ごぼん、と水と空気が入れ替わる音。
元の世界では、毎日のように聞いていた。
誰も気に留めない、ごく普通の洗浄音。
その音が今、剣でも魔法でもなく、一つの宿屋の未来を変えようとしている。
異世界で最初の水洗便器は、まだ仮設だった。
排水は桶へ流れただけ。
水も人の手で補充しなければならない。
だが、確かに動いた。
ゼロだった場所に、一つの仕組みが生まれた。
「次は、実際に使える形へ仕上げます」
直人が言うと、ガルドが鼻を鳴らした。
「便座がないぞ」
「作ってくれるんですか」
「座る板くらいならな」
「便器本体は?」
「まだだ」
「流れるところを見ても?」
「だからこそ、簡単には作れんと分かった」
ガルドは白い便器を軽く叩いた。
「この器は、形そのものが仕組みだ。見た目を真似ただけでは流れん」
「その通りです」
「一台目を作るなら、失敗するぞ」
「何台くらい?」
「知らん。五台か、十台か」
「それでも、作るんですね」
「試すだけだ!」
ガルドの怒声に、リリアとミーナが笑った。
ボルグだけは排水桶を見たまま、真剣な表情をしている。
「便器が増えれば、この水も増える」
「はい」
「流した先を決めろ。そうでなければ、壺から溝へ捨てるのと変わらん」
「分かっています」
直人は手帳を開いた。
次に作るものは決まった。
銀月亭の共同水洗便所。
安全な床。
雨風を防ぐ小屋。
使用できる便座。
必要量だけを流す貯水槽。
臭いを止める排水管。
汚水を一時的にためる処理槽。
そして、清掃と保守の方法。
水洗に成功したことは、工事の終わりではない。
ようやく、工事を始める資格を得たにすぎなかった。
木製の台、陶器の水壺、革管、木製排水管を組み合わせ、異世界最初の水洗試験が成功しました。
洗浄後に便器内へ残る水が、臭いを防ぐ仕組みであることも示されます。
次回は、リリアたちが初めて水洗便器の使用方法を学び、実際に誰が最初に座るのかを巡って騒動になります。




