第5話 試作便器、盛大に漏れる
便器、水魔術師、陶工、汲み取り人。
必要な人材は集まりましたが、設備も材料も十分ではありません。
異世界最初の通水試験が始まります。
銀月亭の裏庭に、白い便器が置かれていた。
森から運び出されたそれは、古びた宿や傾いた便所小屋の中で、ひどく場違いに見えた。
ガルドは便器の周囲を何度も回り、縁を叩き、底を覗き込んでいる。
「継ぎ目が見えん」
「工場で型を使って成形したものです」
「型は分かる。だが、この曲面を同じ厚みで焼くのは簡単ではない」
ガルドは太い指で便器の側面をなぞった。
「ここは厚い。こっちは薄い。力がかかる場所だけ補強してあるのか」
「詳しい製造方法までは知りません」
「役に立たん男だ」
「便器の使い方なら役に立ちます」
「作れなければ使えんだろうが」
「だから、ガルドさんに来てもらったんです」
「まだ作るとは言っておらん」
口では拒みながらも、ガルドの目は完全に職人のものだった。
便器の形状を記憶しようとしている。
排水口の角度を測るため、木の棒まで差し込んでいた。
「それで、どこから水を入れるのですか?」
ミーナが杖を持ったまま尋ねた。
「本来は、この後ろにタンクが付きます」
直人は便器後部にある給水口を指した。
「タンクにためた水を、一気に便器へ流し込むんです」
「水を入れるだけなら、上から注げばよいのでは?」
「今日の試験では、それで構いません。ただし、ゆっくり注いだだけでは、うまく流れません」
「なぜですか」
「汚物を押し流すには、ある程度の量と勢いが必要だからです」
ミーナは納得していない様子だった。
「水は下へ流れます」
「少量でも、時間をかければ下へは行きます。でも、途中に物が残ります」
直人は便器の中へ、小さく丸めた布を置いた。
本物の汚物を使う必要はない。
流れ方を確認するだけなら、濡らした布や土の塊で代用できる。
「これを流してみます」
「布を便所へ捨てるの?」
リリアが顔をしかめた。
「試験用です。普段は布を流してはいけません」
「流せるものと流せないものがあるのね」
「あります。そこも使う人へ説明しないと、すぐ詰まります」
「面倒な器ね」
「道具は、使い方を守らなければ壊れます」
直人は便器の下へ古い木桶を置いた。
便器の排水口は、まだ配管へ接続されていない。
流れた水は、そのまま桶へ落とす。
「ボルグさん、下で受けてもらえますか」
「俺が?」
「排水の状態を一番近くで見てほしいんです」
「水を浴びろと言っているように聞こえるぞ」
「桶の位置が正しければ浴びません」
「正しくなかったら?」
「濡れます」
「正直すぎるだろう」
ボルグは悪態をつきながらも、桶の位置を調整した。
便器を直接地面へ置くと、底の排水口が塞がってしまう。
そこで直人は、左右に太い角材を置き、その上へ便器を載せていた。
本来の固定方法ではない。
試験のための仮置きだ。
「便器が動かないよう、押さえていてください」
ガルドが片側を持つ。
直人は反対側へ回った。
「どれくらい水を出せばよいのですか?」
ミーナが杖を構える。
「まずは少量で、便器内部の流れを見ます。桶一杯分ほどを、ゆっくりお願いします」
「桶一杯」
ミーナが杖の先を便器へ向けた。
透明な石が淡く光る。
空中に小さな水球が現れ、それが細い流れとなって便器の内側へ注がれた。
「おお……」
直人は思わず声を漏らした。
蛇口も水道管もない場所で、澄んだ水が流れている。
魔法を初めて実用的な設備として見た瞬間だった。
水は便器内の曲面を伝い、底へ集まった。
一定量を超えると、排水口へ吸い込まれるように消えていく。
ぼこり。
低い音がした。
便器の下に置かれた桶へ、水が落ちる。
「流れたぞ」
ボルグが覗き込んだ。
「布は?」
「まだ便器の中です」
丸めた布は、水に揺られて位置を変えただけだった。
「これでは足りません」
直人は言った。
「水は流れましたよ」
ミーナが不満そうに答える。
「水だけです。流したいものが残っています」
「では、もっと水を出します」
「次は一気に。俺が合図したら、桶二杯分くらいを数秒でお願いします」
「二杯分を数秒……」
ミーナは便器を見つめた。
「できます」
「無理はしないでください」
「水を出すだけなら問題ありません」
直人は便器の位置を再確認した。
角材の上でわずかに揺れている。
ガルドへ目を向ける。
「押さえていてください」
「分かっておる」
「ボルグさん、桶は?」
「排水口の真下だ」
「リリアさんたちは少し下がってください」
「そんなに危ないの?」
「仮置きですから」
「今になって言わないでよ」
リリアとマルタが数歩後ろへ下がった。
直人は手を上げた。
「お願いします」
ミーナが杖を振る。
先ほどより太い水の流れが、便器へ叩き込まれた。
水が内側を勢いよく旋回する。
丸めた布が浮かび上がり、排水口へ向かって動いた。
「いい流れです」
便器の中で、水位が一気に上がる。
布が排水口へ吸い込まれた。
ごぼっ。
重い音とともに、水が便器の奥へ消える。
「流れた!」
ミーナが声を上げた。
次の瞬間だった。
「止めてください!」
直人が叫んだ。
便器の後部から、水が勢いよく噴き出した。
「何だ、これは!」
ガルドが便器から手を離す。
支えを失った便器が、角材の上で大きく傾いた。
排水口の下に置かれた桶から外れ、水が地面へ直接落ちる。
「うわっ!」
下を覗いていたボルグの足へ、濁った水が降りかかった。
「止めろ! 水を止めろ!」
「止めています!」
ミーナはすでに杖を下ろしていた。
だが、便器内部に残っていた水が、後部の穴や底部から流れ続けている。
直人は便器を両手で支え、転倒を防いだ。
「ガルドさん、反対側を!」
「分かっておる!」
二人で便器を元の位置へ戻す。
ボルグは濡れた靴を脱ぎながら、低い声で言った。
「浴びないと言ったな」
「浴びないとは言っていません。正しく置けば浴びないと言いました」
「その言い訳で許されると思うか?」
「後で洗います」
「服もだ!」
「分かりました」
直人は便器の後部を確認した。
本来、タンクと接続する給水口が開いたままになっている。
上から注いだ水の一部が内部の水路へ入り、接続口から逆流したのだ。
「ここを塞ぐ必要がありました」
「先に気づけ」
ボルグの声が飛んでくる。
「申し訳ありません」
元の世界では、タンクか専用の部品が接続された状態で試験する。
便器単体へ上から大量の水を注ぐ機会など、ほとんどなかった。
構造を知っているつもりで、異なる条件を見落としていた。
「でも、布は流れました」
ミーナが便器の中を覗き込んだ。
「流れました。ただし、これでは実用になりません」
「水が漏れたから?」
「それだけではありません」
直人は地面へ落ちた水の跡を見た。
勢いよく流れたこと自体は成功だ。
だが、必要な水量は多い。
毎回ミーナが魔法を使わなければならない。
排水口の先もない。
便器を固定する床もない。
「もう一度やりますか?」
ミーナが尋ねた。
「接続口を塞いでからです」
「何で塞ぐ」
ガルドが聞いた。
直人は工具箱を開いた。
交換用のゴムパッキンと、短い給水ホースがある。
だが、この便器の後部を完全に塞ぐための専用部品はない。
木栓を削り、布か革を巻き、固定する方法が考えられる。
「仮の栓を作ります」
「木なら削れる」
ガルドが言った。
「ただし、水が漏れぬ形にするには見本が要る」
「この穴の内径を測ります」
直人はメジャーを取り出し、給水口の直径を確認した。
ガルドがそれを見て眉をひそめる。
「その細い帯で、長さが分かるのか」
「はい」
「貸せ」
「壊さないでください」
「俺を誰だと思っている」
「便器を作るのを断っている陶工です」
「まだ言うか」
ガルドはメジャーを受け取り、何度か引き出しては戻した。
内部のばねに驚いたらしく、目だけがわずかに見開かれる。
「面白い道具だ」
「元の世界では普通です」
「この目盛りは?」
「長さです。ここからここまでが一センチ――」
「せんち?」
説明しかけて、直人は止まった。
この世界には、この世界の単位があるはずだ。
日本のセンチメートルで部品を作らせても、ガルドには通じない。
「こちらでは、長さを何で測りますか」
「指幅と尺だ」
「その尺を見せてもらえますか」
「工房にある」
「では、俺の目盛りと、こちらの単位を対応させましょう」
「面倒だな」
「寸法が合わなければ、水が漏れます」
「その程度、目で合わせられる」
「同じものを十個作っても、全部同じ形にできますか」
ガルドの目が鋭くなった。
「俺を試しているのか」
「量産するなら必要です」
「誰が十個も作ると言った」
「銀月亭で成功すれば、注文が来るかもしれません」
「来るわけがないでしょう」
リリアが口を挟んだ。
「便所へお金を払う人はいないわ」
「なら、まずは一台を成功させます」
直人は便器へ視線を戻した。
最初の試験では、水は流れた。
布も排出できた。
しかし、仮置きの便器は大きく揺れ、給水口から水が漏れ、排水は地面へこぼれた。
成功と呼ぶには程遠い。
「これで分かったことがあります」
「俺が水を浴びるということか」
ボルグが言った。
「それもです」
「それを最初に言うな」
「必要な水量と流し方は、おおよそ確認できました」
直人は指を折りながら整理する。
「まず、便器を動かないよう固定する床が必要です」
「銀月亭の中には置けんぞ」
ガルドが言った。
「床が腐っている部分は避けます。最初は裏庭へ仮設する方法もあります」
「雨の日は?」
リリアが尋ねる。
「小屋か屋根が必要です」
「夜は暗いわ」
「灯りも必要ですね」
「冬は寒い」
「そこまで一度には対応できません」
「客が使うのよ。使いにくければ意味がないでしょう」
直人は少し驚いてリリアを見た。
昨日まで便所に金を使う人はいないと言っていた彼女が、すでに利用者の立場で問題点を挙げ始めている。
「その通りです」
「何よ」
「宿の主人らしい意見だと思って」
「私は最初から宿の主人よ」
リリアは顔を背けた。
「次に、給水口を塞ぐか、貯水槽と接続する必要があります」
「水壺を上へ置くのでは駄目なのですか?」
ミーナが聞いた。
「試す価値はあります。ただし、壺の底に水を一気に出す弁が必要です」
「栓を抜けばよい」
ガルドが言う。
「毎回手を入れて抜くのは衛生的ではありません。紐やレバーで開けられる形にしたい」
「ればあ、とは何だ」
「少ない力で動かす棒の仕組みです」
「その程度なら鍛冶屋でも作れる」
「金属を使うと費用が上がります。まずは木で試したい」
「注文が多いな」
「工事は、考えることが多いんです」
直人は最後に、便器の下を見た。
「最大の問題は、排水です」
ボルグが濡れた靴を履き直す。
「このまま地面へ流すなよ」
「もちろんです」
「銀月亭の古い溜め穴へつなぐのも勧めん。壁が崩れ始めている」
「新しい処理場所が必要です」
「簡単に言う」
「場所の候補はありますか」
ボルグは裏庭を見渡した。
井戸。
便所小屋。
薪小屋。
宿の外壁。
隣家との境界。
「ここでは狭い」
「庭の外は?」
「裏の空き地なら、銀月亭の土地だ。ただし、雨が降ると水がたまる」
「低い土地ですか」
「そうだ」
「それだと処理槽からあふれる危険がありますね」
直人は手帳を開いた。
「少し離れても構いません。排水管に勾配をつけられる範囲で、高くて井戸から遠い場所を探したい」
「また、その勾配というやつか」
「水は自然に低い方へ流れます。ただし、下げすぎても駄目です」
「なぜだ。急な方が速く流れる」
「水だけ先に流れて、固形物が残る場合があります」
ボルグが顎に手を当てた。
「確かに、急な溝では重いものだけ引っかかることがある」
「だから、適度な傾きが必要です」
「その程度を、お前は分かるのか」
「測れます」
直人は小型水平器を取り出した。
透明な管の中に気泡が浮いている。
「これで水平を確認して、少しずつ高さを変えます」
ガルドが横から覗き込む。
「泡が中央に来れば平らということか」
「そうです」
「貸せ」
「さっきも聞きましたね」
「面白い道具を見れば触りたくなるのが職人だ」
ガルドは水平器を手に取り、便器の縁へ置いた。
気泡が片側へ寄る。
「傾いているぞ」
「仮置きですから」
「このまま試したから漏れたのではないか」
「給水口からの漏れとは別です。ただ、安定しなかった原因にはなっています」
「つまり、試験の準備が甘かった」
「その通りです」
直人は否定しなかった。
現場で失敗を隠せば、次の事故につながる。
「俺が元の世界の便器を知っているからといって、この世界でそのまま使えるわけではありませんでした」
材料が違う。
単位が違う。
水の供給方法が違う。
排水設備も存在しない。
魔法という未知の技術まである。
知識だけで押し切れる現場ではなかった。
「次は、どうするの?」
リリアが尋ねた。
「今日中に三つ確認します」
直人は手帳へ書き込んだ。
「一つ。ガルドさんの工房で、給水口を塞ぐ木栓と、仮の貯水槽を作れるか確認する」
「俺の工房を使うと決めるな」
「見るだけでも構いません」
「見るだけなら金を取るぞ」
「銀月亭の便壺も三つ注文する予定です」
「払えるのか」
リリアの顔が引きつる。
直人は続けた。
「二つ。ボルグさんと一緒に、処理場所を探します」
「俺は濡れた服を着替えたい」
「その後でお願いします」
「当然だ」
「三つ。ミーナさんには、先ほど流した水の量を再現できるか試してほしい」
「また便器へ流すのですか」
「今度は桶へ出してください。必要な水量を測りたいんです」
「私の魔法を測る?」
「誰が使っても同じ結果になる仕組みを作るためです」
ミーナは杖を見つめた。
「魔法を、道具の一部にするのですね」
「魔法に頼りきるのではなく、魔法の長所を設備へ組み込みたい」
「できるでしょうか」
「分かりません」
直人は白い便器へ目を向けた。
「だから試します」
最初の試験は、盛大に漏れた。
ボルグは水を浴び、庭は濡れ、便器は倒れかけた。
それでも、何も得られなかったわけではない。
水がどう流れるか。
どこから漏れるか。
何が足りないか。
一度失敗したからこそ、次に作るべきものが見えた。
ガルドが白い便器を軽く叩く。
「もう一度だけだ」
「何がですか」
「俺の工房へ持ってこい。この器の形を、もう少し調べる」
「作ってくれるんですか」
「調べるだけだと言っておる」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。気が変わる」
ボルグが濡れた裾を絞りながら言った。
「俺は先に着替える。戻ったら土地を見るぞ」
「お願いします」
ミーナも杖を構え直した。
「桶二杯分でしたね」
「まずは一杯ずつ正確に測りましょう」
「正確に」
「毎回同じ量を出せるかが大切です」
リリアは三人を順に見てから、直人へ視線を戻した。
「失敗したのに、皆、帰らないのね」
「失敗したからです」
「どういうこと?」
「何が難しいか分かった。職人は、難しいものを見ると放っておけないんです」
「あなたも?」
「もちろんです」
直人は工具箱を閉じた。
試作便器は盛大に漏れた。
だが、異世界最初の水洗便器は、確かに一度、布を流した。
小さな一歩だった。
しかし、ゼロと一の間には、何より大きな違いがある。
次は漏らさない。
固定する。
水をためる。
排水先を作る。
そして、誰でも安全に使える形にする。
直人の最初の施工は、失敗とともに本格的に始まった。
異世界最初の通水試験では布を流すことに成功しましたが、開いた給水口から水が噴き出し、便器も倒れかけました。
失敗によって、固定床、貯水槽、弁、排水先が必要だと判明します。
次回はガルドの工房を訪れ、現代の便器を異世界の技術で再現する方法を探ります。




