第62話 濡れた石壁を、地下水だけのせいにしないでください
第三便所横の地下貯蔵穴では、腐食した中央梁の交換工事が始まりました。
ところが、切り離したはずの旧排水口付近で、石壁が再び濡れています。
地下だから湿っている。
雨が降ったから染みた。
そう決めつければ、試験便器の床下へ別の排水を残すことになります。
直人たちは、何を止めた時に水が止まり、どこへ流した時に再び濡れるのかを確かめながら、水の入口を一つずつ絞ります。
第三便所横の物置。
地下穴の床蓋は開いたまま。
周囲には木柵。
赤い作業停止札。
送風袋だけが、一定の間隔で地下へ空気を送っていた。
「全員、上がっています」
南区大工組合の親方が言った。
「一本目の梁は固定済み。二本目は仮支えのままだ」
陶山直人は長い鏡を床蓋の縁から差し入れた。
反射光の先。
地下穴南壁。
石目地から、細い濡れ筋が伸びている。
「昨日より広がっています」
フィルが記録を確認した。
「床水位も少し上がっています」
酒場主人モルドが腕を組む。
「地下なんだから、水くらい染みるだろう」
「外側の地下水位は?」
直人が尋ねる。
「昨日とほぼ同じです」
エルンが測定棒を確認した。
「昨夜も小雨です」
地下水位は上がっていない。
それなのに。
地下穴だけが濡れている。
「地下水だけが原因なら、外側の水位にも変化が出るはずです」
直人は濡れ筋へ長い吸水布を当てた。
弱い油。
わずかな石けん草。
「生活排水が混じっている可能性があります」
モルドの表情が変わる。
「うちの厨房排水は中央通りへ流しているぞ」
「では、まず酒場の排水を止めます」
「それで何が分かる」
「酒場の水が原因なら、止めた後に濡れの広がりも止まるはずです」
◇
酒場から裏庭の排水枡へ入る水を、一度まとめて止めた。
食器洗い。
酒杯洗い。
樽栓洗い。
二階洗面。
同じ系統へ流れる水は、灰色回収桶へ受ける。
「一つずつ調べないのか」
モルドが尋ねた。
「今は水場ごとの差ではなく、酒場排水全体が関係しているかを見ます」
直人は地下穴南壁へ炭で印を付けた。
現在の濡れの端。
そこから先へ広がるかどうか。
半刻。
新しい濡れは出ない。
「止まりました」
フィルが言う。
「これで酒場排水が関係している可能性が高くなりました」
エルンが現在図を見る。
「でも、この図だと酒場排水は中央通りへ向かいます」
「そうです」
直人が答えた。
「酒場の水を止めると地下穴の濡れが止まる。でも、現在図の管は地下穴へ向かっていない」
「どこかに、図面にない経路がある?」
「それを次に探します」
◇
酒場の現在図と。
第三便所周辺の古い配置図を並べる。
現在の第三便所。
裏庭。
厨房。
地下貯蔵穴。
古い便所位置。
さらに。
古い図にだけ残る短い線。
「昔の便所は、今より裏庭側だったんですね」
フィルが言った。
「俺が生まれる前だ」
モルドが答える。
「この線は?」
「知らん」
短い線は。
現在の排水とは違う方向へ伸び。
途中で消えている。
「今日はこれを追いますか」
「いいえ」
直人は印だけ付けた。
「今見ているのは酒場排水です。まず、その経路を終わらせます」
◇
裏庭の排水枡。
石蓋を少し開け。
鏡を入れる。
太い石管。
中央通り方向。
「現在図どおりです」
フィルが言った。
「でも、これだけなら地下穴が濡れた理由がありません」
直人は枡の反対側を見る。
地下穴方向。
泥の一部だけ。
細長くえぐれている。
「ここは?」
石工ベッザが長棒を当てる。
「水が流れた跡だな」
「壁なのに?」
「泥で何かが埋まっているかもしれん」
泥を奥へ押さず。
少しずつ手前へ掻き出す。
石の縁。
小さな横穴。
「旧枝です」
フィルが言った。
「まだ決めません」
直人は穴を見る。
「次は、この穴が地下穴へ本当につながっているか確認します」
◇
「試験の順番を決めます」
直人が言った。
「まず旧枝へ水を流す」
「地下穴が濡れたら?」
「旧枝と地下穴がつながっている証拠になります」
「次は?」
「現在使っている中央通り側へ同じように流す」
「地下穴が濡れなければ?」
「二つの経路を分けて考えられます」
一度だけ。
少量の清水。
旧枝へ。
フィルは地下穴南壁を見ていた。
「来ました」
炭線の外側。
新しい濡れ筋。
「旧枝と地下穴はつながっています」
続いて。
中央通り側へ清水。
下流点検口へ到達。
地下穴側。
変化なし。
「現在排水は中央通りへ」
エルンが言う。
「旧枝だけが地下穴へ」
「はい」
直人は図面へ二本の線を引いた。
これで。
最初の現象がつながった。
酒場排水を止める。
地下穴の濡れが止まる。
旧枝へだけ水を流す。
地下穴が再び濡れる。
「厨房排水の一部が、この旧枝へ回っていた」
フィルが言った。
「それが、地下穴を濡らしていた」
「その可能性がかなり高くなりました」
◇
「でも、なぜ今になって?」
モルドが尋ねる。
「最近、酒場の利用が増えています」
調査関係者。
工事関係者。
役人。
職人。
厨房排水量も増えた。
「太い現在管へ流れきらない分が、残っていた旧枝にも入った」
エルンが言う。
「それで地下穴の湿りが目立つようになった?」
「流量増加との時期も合います」
原因候補。
流入経路。
発生時期。
三つがつながった。
「では旧枝を止めます」
◇
旧枝へ仮栓。
厨房排水は中央通り側だけへ戻した。
「ここから何を見る?」
フィルが尋ねる。
「さっきとは逆です」
「逆?」
「酒場を通常営業へ戻しても、地下穴が濡れなければ、旧枝を切った効果が確認できます」
「つまり」
「排水量が戻っても、旧枝を塞いだ状態なら濡れないかを見る」
モルドが頷く。
「原因を止めたつもりではなく、止まった結果を見るんだな」
「はい」
◇
初日夕方。
厨房。
通常量へ戻る。
南壁。
乾き始める。
床水位。
低下。
翌朝。
石目地の一か所だけ。
小さく光った。
「また来た?」
フィルの表情が固まる。
「印を付けます」
直人は炭線を引いた。
半刻。
広がらない。
さらに半刻。
光りは消えた。
「残留水の可能性があります」
「仮栓が効いていない可能性は?」
「だから三日見ます」
◇
二日目。
厨房。
通常営業。
新しい湿り。
なし。
三日目。
南壁。
乾燥。
床水位。
外部地下水位とほぼ同じ。
仮栓。
漏れなし。
エルンが記録を確認する。
「酒場排水量を戻しても再発しない」
「旧枝を塞いだ効果が確認できました」
直人が答えた。
「これで本切離しへ進めます」
◇
古い横穴。
腐った木片と泥を手前へ除去。
防水栓。
石詰め。
仕上げ。
点検位置だけ残す。
「全部埋めない?」
モルドが尋ねる。
「再び地下穴が濡れた時、今回の切離しが維持されているか確認できます」
「点検口だな」
「はい」
「もう覚えた」
責任範囲も整理した。
厨房から裏庭排水枡まで。
酒場。
排水枡から中央通り側。
水務局。
廃止旧枝。
水務局台帳。
◇
地下工事を戻す。
再開前。
仮支え。
一本目の新梁。
二本目の仮置き。
換気。
南壁。
まとめて確認する。
「湿りなし」
エルンが言った。
「仮支えも問題なし」
大工親方が続ける。
「再開してください」
◇
二本目の梁。
定位置へ。
木槌。
一打。
二打。
三打。
楔。
一つ。
二つ。
最後の楔。
コッ。
「動くな!」
親方が叫んだ。
「二人とも上へ」
直人も即座に言う。
作業員二人を地上へ戻す。
新梁。
基準印。
変化なし。
古い仮受け。
わずかに沈み。
「新梁へ荷重が移った時に、仮受けの楔が座った」
親方が言った。
「締め直します」
新しい楔。
再確認。
段階荷重。
軽い砂袋。
便器重量。
給水設備。
利用者一人。
清掃時二人分。
一刻。
「変化なし」
二刻。
「南壁も乾いたままです」
「支持床へ進めてください」
◇
第三便所試験便器。
地下穴。
旧排水切離し済み。
中央梁。
交換完了。
荷重試験。
合格。
支持床。
本施工へ。
次の工程は。
地上回収槽だった。
◇
その前に。
直人は王都窯へ向かった。
WC-RC-001。
王都で最初に成形された水洗便器。
赤土混合の薄い茶灰色。
「乾燥筋はここだ」
ヴァルハが便鉢内側を示した。
「三日間、広がった?」
「広がっていない」
同じ厚みの小型試験体。
同様の表面筋。
切断。
内部まで届かず。
「厚みのある部分だけ乾燥差が出ています」
直人が言った。
「なら焼くぞ」
「一号は素焼きへ進めます」
「二号は?」
「厚みと乾燥条件を修正して並行成形します」
◇
WC-RC-001。
乾燥重量。
排出口寸法。
固定穴。
内部水路。
記録。
窯位置。
中央。
「入れるぞ」
「お願いします」
便器が窯へ運ばれる。
「割れるなよ」
ヴァルハが呟いた。
フィルが笑う。
「職人も話しかけるんですね」
「便器屋もやるだろう」
直人は否定しなかった。
◇
交換壺側。
合格。
二十七個。
黄色札。
三個。
低床台車T-P03。
改良済み。
「黄線重量試験は?」
「明日」
「今日は?」
「組んだ直後に最大荷重を掛けません」
急いで一日縮めるより。
壊れて数日失う方が大きい。
◇
翌日。
地上回収槽の基礎位置確認。
直人は前半で印を付けた古い配置図を開いた。
旧便所側・用途不明線あり。
裏庭の杭。
「これを確認します」
満水の回収槽を置く前に。
下へ空洞や古い管がないかを見る。
四隅を試掘。
一つ目。
土。
二つ目。
砂利。
三つ目。
古い瓦片。
四つ目。
コン。
石工ベッザの手が止まった。
「石だ」
周囲を必要な分だけ払う。
曲面。
継ぎ目。
「石管です」
フィルが古い図を見る。
「用途不明線の近くです」
◇
「厨房旧枝ですか」
「違います」
直人は図面を重ねた。
厨房旧枝。
現在排水。
新しく見つかった石管。
位置が違う。
方向も違う。
「どちらへ向いている?」
ベッザが確認する。
「第三便所の処理槽側だ」
さらに。
水準棒。
勾配。
「第三便所側の方が高い」
「つまり?」
「今の勾配なら、第三便所側からこっちへ流れる」
フィルが眉を寄せた。
「古い便所の排水管なら、向きがおかしくないですか」
「今見えている範囲では、そうです」
◇
石管の継ぎ目へ。
長い柄の吸水布。
湿っている。
腐敗臭。
「便所の臭いだ」
ベッザが言った。
「何十年も前の廃管なら、なぜまだ湿っているんでしょう」
フィルが尋ねる。
「それを次に確認します」
直人は回収槽予定杭のうち、石管側の二本を抜いた。
「この上には載せません」
◇
工程表。
回収槽基礎 保留。
地下支持床 継続。
旧便所石管 接続先確認。
「全部止めない?」
モルドが尋ねる。
「梁と床は合格しています」
「石管だけ?」
「はい」
安全が確認できたところまで。
また戻る必要はない。
◇
夜。
石管の正体を確認するため。
三つを同じ時刻で記録することになった。
第三便所利用回数。
現在処理槽水位。
石管の湿り。
「何を見るんですか」
フィルが尋ねた。
「第三便所を使った後に、処理槽水位と石管の湿りが同じように変化するかです」
「同時に増えたら?」
「現在設備との接続を疑います」
「変わらなければ?」
「旧管側に別の入口がある可能性を残します」
◇
夕食後。
第三便所。
利用回数。
増加。
現在処理槽。
水位。
わずかに上昇。
石管。
継ぎ目の下。
新しい湿り。
フィルが記録紙を握る。
「三つとも動きました」
「一回では決めません」
直人は紙へ時刻を書いた。
「でも、次に調べる順番は決まりました」
古い図では。
廃止された便所設備。
現地では。
今も湿る石管。
そして。
現在の第三便所利用と。
同じ時間帯に変化した。
昔の管が。
ただ残っているだけなのか。
今の処理槽から漏れているのか。
それとも。
新旧二つの設備が。
地下でまだつながっているのか。
次に追うべき水は。
もう。
厨房排水ではなかった。
排水試験の因果関係を、
仮説 → 操作 → 観察 → 判定 → 次の操作
の順に整理しました。
酒場排水を止めると地下穴の濡れが止まるため、まず「酒場排水が関係している」と判断。
しかし現在の排水図では中央通りへ流れるため、「図面にない別経路がある」と考えて排水枡を調査し、旧枝を発見します。
次に旧枝へだけ水を流すと地下穴が濡れ、現在管へ流しても地下穴は変化しないことから、旧枝が流入経路だと切り分けます。
さらに旧枝を仮栓した状態で酒場を通常営業へ戻し、それでも地下穴が再び濡れないことを三日間確認して、本切離しを決定します。
終盤の新しい石管についても、第三便所利用回数・現在処理槽水位・石管の湿りを同時に記録し、三つが同じ時間帯に変化することで、次話の「現在設備との接続確認」へ自然につながる構成にしました。




