第51話 鍋のそばへ、地下の汚水を通さないでください
無料給水所から漏れた水は、古い地下排水路を通って共同住宅六号棟の先へ流れていました。
その下流には、南区住民の食事を支える共同炊事場があります。
床下に異常があっても、炊事場を突然すべて閉めれば、多くの住民が食事を作れません。
直人たちは調査班を分け、危険な場所だけを止めながら炊事を続ける方法を探します。
王都南区の朝は、共同炊事場の煙、共同炊事場の煙から始まる。
三本の太い煙突。
三つの大釜。
共同住宅に暮らす住民たちは、薪代と利用札を持って炊事場へ集まり、家族ごとの鍋や食材を持ち込む。
自分で煮炊きする者。
管理人へ食材を預け、まとめて調理してもらう者。
日雇い仕事へ出る前に、昼食用の粥を受け取る者。
その数は、一日で二百人を超える。
第二共同井戸と無料給水所が停止した現在は、南区の食事を支える重要な施設になっていた。
「ここを全部止めたら、どうなりますか」
水務局書記官のフィルが尋ねた。
南区水務局担当官ハイルは、炊事場前の列を見た。
「自室に炉がない家庭が百世帯以上あります」
「酒場や屋台で食べる?」
「毎日買える住民は多くありません」
「パンだけで過ごす?」
「パンを買う費用も必要です」
陶山直人は、炊事場の煙突と建物裏側を見比べた。
「今日は二班に分かれます」
給水所外壁調査班。
直人。
地方監査官エルン。
石工ベッザ。
水務局技師二名。
地下排水路下流調査班。
セラ。
フィル。
南区大工組合の職人二名。
共同炊事場管理者。
「私は、炊事場の床を開けてよいのですか」
セラが尋ねた。
「構造部へ触れる前に、外観、臭い、湿り、床の打音だけ確認してください」
「危険が見つかったら?」
「該当区域を止めてください」
「炊事場全部ではなく?」
「危険範囲が特定できる場合は、その範囲だけです」
「床が沈んだ場合は?」
「全面退避」
「大きな料金や工事の約束は?」
「しないでください」
セラが笑った。
「町を出る前のリリアさんと同じことを言うようになりましたね」
「必要なので」
◇
共同炊事場の管理人は、デラという五管理人は、デラという五十代の女性だった。
腰には、利用札を入れる革袋。
頭には、灰色の布。
太い腕で、大鍋の蓋を一人で持ち上げている。
「水務局の調査だって?」
デラはセラたちを見る。
「今、止められたら困るよ」
「すぐ全面停止にするためではありません」
セラが答えた。
「床下へ古い排水路が通っている可能性があります」
「床下なら、鍋とは関係ない」
「床が沈んだという苦情は?」
「古い建物だから、多少は鳴る」
「どこですか」
デラは、建物奥を指した。
三つの炉。
正面から第一炉、第二炉、第三炉。
一番奥の第三炉は、野菜や食器を洗う水場に近い。
「第三炉の裏が、雨の日に湿る」
「臭いは?」
「生ごみと灰の臭いだ」
「便所に似た臭いは?」
「南区で、臭わない場所を探す方が難しいよ」
「床を修理したことは?」
「二年前に板を替えた」
「床下は?」
「大工が見た」
「記録は?」
「そんなものはない」
六号棟と同じ答えだった。
◇
炊事場内部の利用区域は、大きく四つに分かれていた。
入口側。
食材受付台。
中央。
第一炉と第二炉。
奥。
第三炉。
さらに壁際。
野菜、食器、調理器具を洗う水場。
炊事場へ供給される水は、無料給水所の停止後、迂回給水設備の白槽から運ばれている。
清潔な水そのものは確保されていた。
問題は、使った後の水だった。
「洗い水は、どこへ流れますか」
フィルが尋ねた。
デラは床の端にある石溝を示した。
「そこへ流している」
「出口は?」
「建物の裏」
「どの溝につながっていますか」
「昔からの排水穴だよ」
石溝の末端には、手のひらほどの四角い穴。
その先は暗い。
「図面にありません」
フィルが区域図を見る。
「水が流れれば、それでいいだろう」
「流れた先を確認します」
「煮汁や油も流しますか」
「食べ残しは網で取る。細かいものは流れる」
「灰は?」
「炉の灰は、湿らせてから裏へ運ぶ」
「どこで湿らせます?」
「この水場」
「灰を洗い水へ混ぜる?」
「埃が立たないようにだ」
石溝の内側には、白灰色の固まり。
油。
野菜くず。
石けん草。
複数の物が付着している。
「詰まったことは?」
「棒を入れれば通る」
「どのくらいの頻度で?」
「月に二、三回」
「押し込むだけですか」
「水が流れれば、詰まりは取れたことになる」
その先で、どこへ詰まりが移るかは確認していない。
◇
セラは石溝へ触れず、白い確認紙を出口近くへ置いた。
水場の担当者が、野菜を洗う。
灰色の水が石溝を流れる。
出口近くで、一度水位が上がった。
そして。
ごぼっ。
低い音とともに、水が穴へ吸い込まれる。
「逆向きに空気が出ています」
セラが言った。
「地下に大きな空間がある?」
フィルが尋ねる。
「または、下流側で水がせき止められている」
石溝の縁。
白紙の一部に、細かな黒い飛沫が付いた。
「洗い水より色が濃いです」
「下から戻ってきた?」
「可能性があります」
デラが顔をしかめる。
「昔から、ごぼごぼ鳴る」
「逆流したことは?」
「大雨の夜に、黒い水が少し上がった」
「炊事は続けましたか」
「水場を雑巾で塞いだ」
「第三炉は?」
「使った」
「黒い水が床へ出た状態で?」
「鍋の中へ入ったわけじゃない」
セラは、第三炉と水場の距離を見る。
わずか二歩。
人が行き来する。
濡れた靴。
調理器具。
薪。
「床へ出た汚れは、人の足で広がります」
「毎朝洗っている」
「同じ排水穴へ流して?」
「そうだ」
床の汚れを、汚れが戻る可能性のある穴へ流していた。
◇
床の打音を確認する。
入口側。
硬い。
第一炉前。
硬い。
第二炉前。
大きな異常なし。
第三炉と水場の間。
鈍い。
水場の壁際。
さらに鈍い。
大工職人が長い棒で、床板の隙間を確認する。
「下地が柔らかい」
「床へ乗らずに確認できますか」
セラが尋ねた。
「第三炉の横へ渡し板を置けば、入口側の梁から荷重を逃がせる」
「人が入る?」
「最低限の確認だけだ」
「ナオトさんの合流まで、構造部を開けない約束です」
職人は肩をすくめた。
「なら、外側から見る」
建物裏へ回る。
第三炉の裏側。
壁の下部は、黒く湿っている。
古い地下排水路の推定線と一致。
さらに。
壁際の土から、細かな泡が出ていた。
「水が流れています」
フィルがしゃがみかける。
「近づきすぎないでください」
セラが止める。
長い棒。
湿った土。
浅い部分。
柔らかい。
さらに奥。
棒が急に入る。
「空洞があります」
「第三炉の下まで?」
「位置を測ります」
測定糸。
外壁。
炉の位置。
排水穴。
「空洞は水場と第三炉の境界近くです」
◇
「第三炉と水場を停止します」
セラが決めた。
デラが声を上げる。
「第三炉は昼の粥に使っている!」
「第一炉と第二炉は続けられます」
「三つでも足りないのに、二つでどうする」
「調理順を変えます」
「調査員が献立まで決めるのか」
「炊事場の責任者と一緒に、二炉で作れる量を計算します」
「今、中に入っている鍋は?」
第三炉には、大鍋。
麦粥。
すでに半分まで煮えている。
「火を消したら、全部無駄になる」
「炉自体が沈んでいる兆候は?」
大工職人が外側から測る。
「炉の石組みは、今のところ大きく傾いていない」
「床は?」
「炉の手前が危ない」
「鍋を取り出せますか」
「熱い。四人必要だ」
大鍋を持ち上げて移動すれば、熱湯による事故が起きる。
「鍋を動かしません」
セラが言った。
「第三炉周辺を立入禁止。火を弱め、調理完了後に使用停止します」
「火番は?」
「安全側の一人だけ。渡し板から近づく」
「水を足す場合は?」
「清水を小桶で渡す。水場は使わない」
「調理終了まで限定運用?」
「はい」
危険が差し迫っているなら、即時停止。
しかし、炉自体の傾きはなく、床の危険区域を踏まずに火番ができる。
「終了時刻を記録してください」
赤札ではなく、黄色札。
第三炉 調理中のみ限定運用。
終了後停止。
◇
一方。
直人たちは無料給水所の南側で、外壁調査を始めていた。
既存貯水槽には、まだ水が残っている。
住民への給水は、仮設白槽へ迂回済み。
「内水位と外地下水位の差を測ります」
直人が説明する。
槽内。
満水線から指二本下。
外側調査口。
地表から指十五本下に水。
「外側の方が低い」
フィルの代わりに同行した水務局技師が言う。
「今は、内側から外へ漏れやすい状態です」
「水位を下げれば差が小さくなる」
「はい」
「さらに下げれば、外から入る」
「その前に止めます」
段階排水。
まず全体の一割。
水は飲用へ回さない。
底近くで腐敗物反応が出ているため、清掃用の回収槽へ入れる。
「捨てないのですか」
給水所管理人ラウムが尋ねる。
「汚染の可能性がある水を、地面へ流せません」
「大槽一杯分を全部運ぶ?」
「検査結果で分けます」
「上の水は透明だ」
「上層水と底層水を分けて排水します」
上層。
比較的反応が弱い。
別の槽。
底層。
強い反応。
汚水槽。
「水を抜く順番まで分けるのですか」
「混ぜれば、全部を強い汚染水として扱います」
◇
一割排水。
槽内水位低下。
外壁南側の湿り。
少し減る。
「内側から漏れていたことは確かです」
エルンが言った。
「目地の位置を確認します」
石積み外側の土を、一度に大きく掘らない。
上から段階的に外す。
支え材。
受け桶。
白紙。
やがて、横長の石が見えた。
石の中央。
古い目地材が抜けている。
その隙間へ、木製の筒が差し込まれていた。
「これは何ですか」
技師が尋ねる。
ベッザが土を少しずつ外す。
木筒は、貯水槽外壁から斜め下へ伸びている。
「溢れ水を逃がす管だ」
ラウムが言った。
「図面にはありません」
「前の管理人が付けた」
「いつですか」
「十八年ほど前」
「なぜ?」
「雨の多い年、槽が溢れたからだ」
「本来の溢流口は?」
「詰まっていた」
「詰まりを直さず、別の管を付けた?」
「早く水を逃がす必要があった」
「出口は?」
「古い排水穴へつないだと聞いた」
直人とエルンが顔を見合わせる。
古い地下排水路。
第二便所。
第二共同井戸。
六号棟。
共同炊事場。
そこへ、無料給水所の溢れ水まで接続されていた。
◇
「現在も、この木筒は使われていますか」
直人が尋ねた。
「満水になれば、そこから水が出る」
「通常の水位でも漏れています」
「目地が傷んだのだろう」
「管の周囲に隙間があります」
木筒は収縮している。
石と木の間。
黒い泥。
内側から外へ清水が漏れる。
水位を下げれば。
外側の汚染水が、同じ隙間から槽内へ戻る可能性がある。
「底近くの腐敗物反応は、ここから入った水の影響かもしれません」
「溢れ水を出す管なのに、汚れが戻る?」
ラウムが尋ねる。
「逆流防止がありません」
「水は外へ出るものだ」
「槽内水位が高い時は」
「低い時は?」
「外側の水位が高ければ、内側へ入ります」
「毎年、槽を空にして清掃していた」
「その時が最も入りやすい状態です」
清掃のために空にした貯水槽。
外側には、古い排水路の汚染水。
木筒周囲の隙間。
そこから汚れが内部へ入る。
「清掃した翌日に、水が少し濁ることはありませんでしたか」
ラウムが黙る。
「ありました」
「どうしました?」
「最初の水を捨てた」
「どこへ?」
「床の排水穴へ」
「同じ古い排水路へ戻した?」
「そうなる」
汚れが入り。
捨てた水が地下へ流れ。
また外側へ集まる。
◇
「本来の溢流口を確認します」
貯水槽上部。
石の穴。
外側は、土と木片で塞がれている。
「十八年前から、そのまま?」
「木筒を付けた後は使っていない」
「清掃すれば戻せますか」
ベッザが石を確認する。
「穴の周りは健全だ。外側の排水先を作り直せば使える」
「どこへ流す?」
エルンが尋ねる。
「雨水用の地上溝へ」
「現在の古い地下水路へは戻しません」
直人が言った。
「水が見える経路にします」
「地上を流したら邪魔だ」
ラウムが言う。
「溢れる時だけです」
「冬に凍る」
「勾配と排水先を設計します」
「地下管の方が見た目は良い」
「点検口と図面がある新しい管なら検討できます」
「古い水路へつなぐのが駄目?」
「出口と管理者が分からないからです」
◇
木製溢流管を、すぐ引き抜くことはしなかった。
穴を外せば、貯水槽内の水が流れ出す可能性がある。
「内側水位を、管より下まで下げます」
「全部抜く?」
「段階的に」
二割。
三割。
外側地下水位との差を確認。
管の高さまで、あと指三本。
外側調査口の水位は、変化なし。
「外側の方なし。
「外側の方が高くなる前に、仮栓を準備します」
木栓。
柔らかい封止材。
外側支え板。
「管を外した瞬間、外から水が入ったら?」
「受け樋で回収。仮栓を入れる」
「内側から作業員が押さえる?」
「槽内へは、まだ入りません」
「外側だけで?」
「木筒を短く切り、内部側を残して一時閉鎖します」
完全撤去は、槽内清掃と外壁補修の時。
今日の目的は。
漏水経路を止める。
外側からの逆流を防ぐ。
貯水槽の構造を崩さない。
◇
その頃。
共同炊事場では、第三炉の麦粥が完成した。
「火を落とします」
デラが声を上げる。
大鍋は動かさない。
炉の前に受け取り台を置く。
長柄の柄杓で、別の小鍋へ移す。
住民は危険区域へ入らない。
「通常より時間がかかります」
フィルが記録する。
「鍋ごと運ぶより安全です」
セラが答える。
最後の粥を移し終えた。
第三炉。
赤札。
使用停止。
水場。
赤札。
排水穴。
木板と封印。
「これで、洗い物はどうする」
デラが尋ねる。
「第一炉側の前庭へ、仮洗浄台を作ります」
「排水は?」
「灰色の密閉槽へ回収」
「鍋も食器も全部?」
「油の多い物は、先に布やへらで拭き取ります」
「布は?」
「汚染布箱」
「洗浄水が増える」
「一度目とすすぎを分けます」
「便壺洗浄場と同じだね」
「考え方は似ています」
濃い洗い水。
薄いすすぎ水。
食器用であるため、便壺洗浄設備とは容器も場所も完全に分ける。
「同じ赤帯では混乱します」
フィルが言う。
「炊事場は茶帯にします」
油と食べ物を含む濃い洗浄水。
茶帯。
すすぎ水。
灰帯。
手洗い。
青。
飲用・調理。
白。
「色が増えました」
「場所ごとに意味表を出します」
「王都全体で統一しないのですか」
「赤を汚物系、茶を食品油系として分ける案を作れます」
「標準化?」
「試験後です」
◇
仮洗浄台を作る前に、炊事場の運用量を減らす必要があった。
三炉から二炉。
水場も停止。
同じ数の料理を作ろうとすれば、作業が詰まる。
「今日の夕食は、献立を減らします」
デラが住民へ説明した。
通常。
粥。
豆煮。
野菜煮。
肉汁。
焼き物。
今日。
粥。
豆と野菜を一つにした汁。
パン。
「肉は?」
「明日へ回す」
「買った肉が傷む!」
食材を持ち込んだ住民が声を上げる。
「冷蔵設備はありません」
セラが言った。
「肉は、今日のうちに調理する必要があります」
「二炉で?」
デラが考える。
「第一炉で粥。第二炉で肉と野菜の汁。豆は明朝へ回す」
「豆を水へ浸したままにしてよい?」
「水を替え、涼しい場所へ」
「清水が必要です」
「食材保存分は調理用として確保します」
簡素な献立。
洗う器具を減らす。
同じ鍋で複数の食材を煮る。
だが、食物アレルギーや宗教上の制限はないか確認する必要がある。
「肉を食べられない世帯は?」
デラが答える。
「五世帯ある」
「別鍋を一つ用意します」
「炉が足りない」
「小型炉を外の乾燥した場所へ」
「火気許可は?」
「王都警備隊と消防担当へ確認」
「夕食までに間に合わない」
「第一炉で先に肉なし分を作り、別容器へ移す。その後に肉を入れます」
「器具を洗う必要がある」
「肉を入れる前なので、同じ鍋を使えます」
設備が減れば、献立と調理順まで変わる。
◇
仮洗浄台が完成した。
食器から固形物を取る。
残飯容器。
油を拭う。
汚染布箱。
一度目の洗浄。
茶帯槽。
すすぎ。
灰帯槽。
最後に、清水を少量流す。
「清水の最後のすすぎも、灰帯へ?」
「食器へ触れた後の水なので」
「床へ捨てない」
「はい」
炊事場作業員は、これまで石溝へ流していた水量を目で見て驚いた。
「半刻で、大桶一杯になる」
フィルが記録する。
「これが全部、地下へ流れていた?」
「一日では数杯になります」
「雨の日だけ床下が湿ると思っていました」
「毎日の炊事水もあります」
デラが腕を組む。
「排水穴を使わないなら、毎日運ぶ人が必要だ」
「恒久排水が完成するまでです」
「誰が運ぶ」
「二人一組」
「炊事場の仕事が止まる」
「臨時運搬員を雇います」
「水務局が?」
「三日間の緊急措置を申請します」
「四日目から?」
フィルが先に答えた。
「管理者、建物所有者、町の仮負担を協議します」
「あなたも覚えましたね」
セラが笑った。
◇
炊事場裏側の外部調査口から、灰色の水を採取する。
臭い。
食用油。
灰。
石けん草。
その奥に、腐敗臭。
「炊事場の排水だけではありません」
セラが言った。
「上流から来た水が混ざっています」
「第二便所の処理槽水?」
「反応を比べます」
試験液。
腐敗物反応。
陽性。
石灰反応。
弱い陽性。
油分。
明確。
「六号棟床下水より、油が多いです」
フィルが言った。
「炊事場排水が加わっています」
「上流の汚水と、炊事場の油水が同じ空洞で混ざる」
「その結果、下流でさらに詰まりやすくなります」
「油が冷えて固まる?」
「灰や泥と固まります」
石溝の詰まりを棒で押す。
詰まりは消えず、地下へ移る。
古い木樋。
腐った板。
油と灰の固まり。
水の流れが狭くなる。
上流側へ水が戻る。
「ごぼごぼ音は、下流閉塞の合図だった可能性があります」
セラが言った。
「何年も鳴っていた」
デラが呟く。
「報告しましたか」
「排水穴は、音がするものだと思っていた」
「正常時の音を記録していなければ、異常音と分かりません」
◇
直人が共同炊事場へ合流したのは、昼を過ぎた頃だった。
「第三炉と水場を停止。第一炉、第二炉は継続」
セラが報告する。
「床沈下は?」
「外側土中に空洞。第三炉基礎の大きな傾きは未確認」
「限定運用の第三炉は?」
「粥調理完了後、停止しました」
「洗い水は?」
「仮洗浄台と回収槽」
「料金や工事の約束は?」
「三日間の緊急措置を申請するところまで」
「ありがとうございます」
直人は床を確認した。
入口側の梁。
第一炉。
第二炉。
大きな異常なし。
第三炉と水場の境。
外側調査穴。
古い排水路の空洞。
「第三炉の基礎を支える土が、一部流されています」
「炉そのものを壊す?」
デラが尋ねる。
「今は使いません」
「修理で済む?」
「基礎石の下へ支えを入れ、空洞を埋める必要があります」
「水を止めてから?」
「はい」
「もう排水穴は塞いだ」
「上流からの水もあります」
「給水所の漏れは?」
「木製溢流管が古い排水路へ接続されていました」
「給水所の清水も、ここへ来ていた?」
「可能性が高いです」
「清水なら、床下を洗ってくれたのでは?」
「汚れを下流へ押し、土も運びます」
「水は、水だと思っていた」
デラが言った。
「流す場所で、危険になります」
◇
古い排水路の下流側を確認する。
共同炊事場の排水穴から。
さらに東へ。
区域図上では、雨水溝へ出るはず。
しかし、地面の湿りは南東へ曲がっている。
「また図面と違います」
フィルが言う。
「共同炊事場を建てた時に、排水経路を変更した可能性があります」
炊事場の古い改修記録。
二十六年前。
炉を二基から三基へ増設。
水場を拡張。
排水工事。
施工者欄。
空白。
「誰が工事したのですか」
デラが答える。
「前の管理人が、近くの職人を集めたと聞いている」
「正式な工事届は?」
ハイルが首を振った。
「ありません」
「古い水路へ接続しただけ?」
「一番安かったのだろう」
エルンが言った。
「また費用を抑えるための未記録接続です」
「当時は、みんな使っていた水路だった」
デラが反論する。
「今も使えるか確認されていません」
直人が答える。
◇
「第三炉を止めたまま、二炉で何日続けられますか」
直人がデラへ尋ねた。
「献立を減らせば三日ほど」
「それ以上は?」
「利用時間を朝から夜まで延ばす」
「作業員の勤務は?」
「交代制にする」
「追加人員は?」
「必要だ」
「夜間の火気安全は?」
「消防見張りも」
「二炉を長時間使うと、炉や煙道への負荷が増えます」
「休止時間を入れる」
「食事時間が遅れる世帯は?」
「順番札を作る」
炊事場の能力を、炉の数だけで考えない。
稼働時間。
作業員。
薪。
水。
洗浄。
安全確認。
「三日間の縮小献立表を作りましょう」
直人が言った。
「商会が献立を?」
「設備能力に合わせる部分だけです」
朝。
粥。
昼。
パンと前夜の汁。
夜。
大鍋二種類。
個別の焼き物は禁止。
油の多い料理を減らす。
洗浄水を減らす。
「住民から不満が出る」
「理由を表示します」
第三炉と排水設備の安全調査中。
二炉運用のため、三日間は簡易献立。
食事量は減らさない。
「量まで約束できますか」
フィルが尋ねる。
「食材在庫と炉能力を計算します」
デラが答えた。
「味は約束しないよ」
◇
給水所の木製溢流管は、午後に仮閉鎖された。
管の高さより下まで、槽内水位を段階的に下げる。
外側水位。
内側水位。
逆流が起きない差を維持。
木筒の外側を短く切る。
汚れた水が入らないよう、受け樋。
木栓。
封止材。
支え板。
「仮閉鎖完了」
エルンが記録する。
「漏れは?」
白紙。
外側。
滴なし。
「内側確認は、槽清掃時です」
「本来の溢流口は?」
「外側排水路完成後に再開」
「それまで、槽を満杯にしない?」
「はい」
「仮設給水を使うので、既存槽は停止継続」
ラウムは、赤札を見た。
「この給水所は、もう使えないのか」
「補修と清掃後に再検査します」
「何日?」
「最低でも数日」
「仮設白槽が壊れたら?」
「予備給水車があります」
「予備水を配らないと、住民から怒られている」
「故障時の水です」
「目の前にあるから、納得しない」
「住民代表を含めて、封印記録を公開します」
◇
木製溢流管を閉鎖してから二刻後。
六号棟側の旧排水路仮回収槽。
流量が減少。
共同炊事場裏側。
空洞内の水位も低下。
「給水所からの漏水が、ここまで来ていました」
フィルが言った。
「時間差も一致しています」
「これで原因確定?」
「入口の一つとして強い根拠です」
「第二便所の処理槽水も?」
「そちらも流量へ影響しています」
「炊事場の洗い水も?」
「はい」
「結局、全部?」
デラが尋ねた。
「複数の水が同じ古い排水路へ入っています」
「誰が一番悪い」
「量と期間と管理責任を調べます」
デラは不満そうだった。
「料理を作るだけで、地下の水路まで責任を持てと言われても困る」
「炊事場管理者一人へ責任を負わせません」
「でも、排水穴へ流したのは、うちだ」
「設備を作った人。維持管理を決めた人。図面を残さなかった側。利用を続けた側。それぞれです」
◇
夕食の時間。
二炉運用の共同炊事場には、通常より長い列ができた。
だが、入口で順番札が配られている。
高齢者。
幼児世帯。
病人。
仕事へ出る夜勤者。
優先時間。
「便所だけでなく、食事にも優先列ですか」
フィルが言った。
「全員が同じ時間に食べられないからです」
直人が答える。
「不公平だと言われませんか」
「基準を公開します」
「健康な人は遅くなる」
「食事を失うわけではありません」
第一炉。
麦粥。
第二炉。
肉なし汁を先に取り分け。
その後、肉を追加。
同じ鍋を使い、洗浄回数を減らす。
仮洗浄台。
茶帯汚水槽。
灰帯すすぎ槽。
手洗い。
青槽。
調理水。
白槽。
「以前より、水の行き先が見えます」
デラが回収槽を見た。
「見えると、こんなに使っていたのかと思う」
「地下へ流していた時は、消えたように見えました」
「明日から、ずっと回収する?」
「恒久排水ができるまでです」
「処理先は?」
「油分を分けられる処理場へ」
「便所汚水とは別?」
「炊事場単独の水は別にします」
「地下で混ざっていた分は?」
「汚物系として扱います」
◇
夕食提供。
遅れ。
通常より半刻。
食事量不足。
なし。
火傷。
なし。
床転倒。
なし。
洗浄水。
通常推定量より三割減。
「献立を減らした効果です」
デラが言う。
「油を先に拭ったことも」
「布ごみが増えた」
「処理費との比較が必要です」
「水を使うか、布を使うか」
「再利用可能な布は、別洗浄を検討します」
「また洗う水が必要になる」
「だから、全体費用を比較します」
何かを減らせば、別の作業が増える。
水。
布。
人。
処理費。
どれか一つだけを見て、安いとは決められない。
◇
夜。
二班の調査結果が南区支所へ集められた。
無料給水所。
未届けの木製溢流管。
旧地下排水路へ接続。
管周囲から清水漏出。
槽内水位低下時に汚染水逆流の可能性。
本来の溢流口は閉塞。
仮閉鎖完了。
共同炊事場。
第三炉下部に空洞。
洗い場排水が旧地下排水路へ接続。
油、灰、腐敗物が混合。
排水逆流の履歴。
第三炉と水場停止。
二炉限定運用。
「古い排水路へ接続していた設備は、いくつになりましたか」
フィルが数える。
「第二便所の床清掃樋」
「第二共同井戸横の便壺洗い場」
「第二便所副処理槽の漏水」
「無料給水所の溢流管」
「共同炊事場の洗い水」
「六号棟住民の一部生活排水」
六つ。
さらに雨水。
「一つの古い水路へ、皆が別々に水を入れていた」
セラが言った。
「下流の状態を誰も管理していない」
「入口ごとに所有者が違う」
エルンが答える。
「出口は?」
直人が区域図を見る。
共同炊事場の先。
古い図面では、南区外縁の雨水溝。
だが現地の湿りは、南東へ続いている。
「下流を、まだ確認できていません」
「明日、追いますか」
「給水所外壁補修と炊事場基礎調査もあります」
「班をさらに分ける?」
「危険な構造調査へ、私が必要です」
「では、下流はセラさん?」
「聞き取りと地表調査まで」
セラが答えた。
「勝手に床は開けません」
◇
その時。
王都水務局本局から、封書が届いた。
差出人。
王都水務局副局長。
内容。
翌日の都市衛生評議会へ、南区改善計画を提出すること。
特に。
一か月以内に設置可能な水洗便器の台数。
必要予算。
完成時期。
「一か月以内?」
フィルが驚く。
「調査は、まだ終わっていません」
エルンが封書を読み直す。
「評議会では、南区へ水洗便器を導入すると発表したいのでしょう」
「何台と答えますか」
直人は区域図を見た。
安全な排水先。
未確定。
処理槽。
漏水。
給水。
仮設運用中。
古い地下排水路。
下流未確認。
「現時点で、設置を確約できる台数はゼロです」
ハイルが息を呑む。
「ゼロと出せば、評議会は怒ります」
「一台も置けないのですか」
「置くことだけなら可能です」
「使えない?」
「流した先の安全を保証できません」
「試験用一台は?」
「排水を完全回収できる仮設なら検討できます」
「水洗便器を置いた実績が欲しいだけなら?」
「実績のために、住民へ危険を増やしません」
エルンは、しばらく黙ってからうなずいた。
「では、ゼロではなく条件付きで出しましょう」
「条件?」
「恒久水洗便器。現時点で確約ゼロ」
「回収式試験便器。条件を満たせば一台」
「緊急仮設便所。増設可能数を別に提示」
「水洗と仮設を混ぜない」
「はい」
評議会が欲しい数字。
現場が出せる数字。
同じ一台でも、意味が違う。
◇
直人は報告書の最初の一文を書いた。
便器の設置台数は、陶器の生産能力だけでは決まりません。
安全な給水、排水、処理、清掃、管理者、利用料金、故障時の代替手段がそろった設備だけを、使用可能な一台として数えます。
「長い」
フィルが言った。
「評議会は、台数を先に見ます」
「だから、台数の意味を先に書きます」
「恒久水洗、ゼロ」
「条件付き試験、一」
「仮設交換式は?」
「木工と交換壺の供給次第。七日で六台追加の可能性」
「処理能力は?」
「汲み取り組合と契約できた場合」
「条件ばかりです」
「条件なしに数字を出せません」
鍋のそばへ、地下の汚水を通さない。
給水所の水を、壊れた排水路へ流さない。
便所の水を、雨水路へ流さない。
すべて当たり前のことに見える。
だが王都南区では、別々の時代に作られた設備が、誰にも全体を見られないまま一つの古い水路へ接続されていた。
白い便器を一台置けば、見た目は変わる。
だが流すたびに、地下の汚染を押し広げるなら。
それは改善ではない。
新しい問題の入口である。
「明日の評議会へ、私も出ます」
直人が言った。
「調査班の範囲を超えませんか」
エルンが尋ねる。
「調査結果の説明だけです」
「契約や台数の約束は?」
「しません」
セラが笑う。
「リリアさんへ、報告できる答えですね」
王都南区の現場では、まだ水が地下を流れている。
その上で。
明日は、便器を何台置けるのかと問われる。
直人が答えなければならないのは、置ける便器の数ではない。
安全に使い続けられる便器を、何台作れるのかだった。
無料給水所では、十八年前に追加された未届けの木製溢流管が、古い地下排水路へ接続されていました。
貯水槽が満水の時には清水が外へ漏れ、清掃で水位を下げた時には、外側の汚染水が槽内へ逆流した可能性があります。
共同炊事場でも、第三炉と水場の下に空洞が見つかり、油、灰、洗浄水が上流から来た汚水と混ざっていました。
第三炉と水場を停止し、二炉で簡易献立を提供しながら、洗浄水を密閉回収する運用へ切り替えます。
その夜、王都水務局本局から「一か月以内に設置可能な水洗便器の台数」を翌日の評議会へ提出するよう求められました。
次回は都市衛生評議会で、直人が「設置できる便器」と「安全に使える便器は違う」と説明し、十台の即時導入を求める王都側と対立します。




