第50話 給水所を止める前に、代わりの水を用意してください
古い地下排水路は、共同住宅六号棟の床下を通り、多くの住民が利用する無料給水所の近くへ続いていました。
給水所の水に異常が見つかれば、使用を止めなければなりません。
しかし、三百人以上が頼る水を、代替手段なしに突然止めることもできません。
直人たちは水質検査より先に、給水所を止めても住民の暮らしが止まらない準備を始めます。
王都南区の無料給水所には、朝から長い列ができていた。
石造りの貯水槽。
正面には六つの給水口。
利用者は持参した水壺や桶を置き、木製の栓を引いて水を受ける。
水源は井戸ではない。
王都外郭を流れる水路から、地下の導水管を通して供給されている。
第二共同井戸が使用停止になった今、周辺住民の多くがこの給水所へ集まっていた。
「通常は、一日二百人ほどが利用します」
南区水務局担当官のハイルが説明した。
「現在は、延べ四百人を超えています」
「延べ、ですか」
水務局書記官フィルが尋ねる。
「同じ人が朝夕二回来る場合があります」
「世帯数は?」
「正確には分かりません」
陶山直人は列を見る。
一人暮らし。
子ども連れ。
複数の壺を積んだ荷車。
飲食店の従業員らしい者もいる。
「家庭用と商売用が混ざっています」
「無料給水所なので、利用目的は分けていません」
「記録は?」
「給水量の総量だけです」
貯水槽へ入った量と、残った量。
一日に供給された水量は分かる。
だが、誰が何へ使っているかは分からない。
「給水所を止めた場合、代替水はどのくらい必要ですか」
地方監査官エルンが尋ねた。
「現在の利用量と同じだけ運ぶのは難しいです」
ハイルが答える。
「給水車は、第二共同井戸の代替で二台使用中です」
「追加で出せる車は?」
「王都本局に二台。北区に一台。ただし北区の車は治療院契約があります」
「最大四台?」
「一日だけなら」
「水運び人は?」
「御者と補助員を含め、二組不足します」
給水所を止めることは、札を掛けるだけでは終わらない。
水源。
車。
容器。
運ぶ人。
配る場所。
管理者。
費用。
先にそろえなければならなかった。
◇
「まず、給水所を使っている理由を分けます」
直人は、列の利用者へ短い聞き取りを始めた。
一人目。
六号棟の住民。
「飲み水と料理です」
「洗濯は?」
「灰色の生活用水が届く日は、そちらを使います」
二人目。
屋台の料理人。
「仕込み、食器洗い、手洗い」
「一日にどのくらい?」
「大壺六つ」
三人目。
染め物の下働き。
「工房へ運びます」
「飲用ですか」
「布の最後のすすぎ」
「工房の契約水は?」
「主人が高いと言って、ここから運ばせます」
ハイルの表情が変わる。
「無料給水を工房用に?」
「禁止表示はありません」
下働きの青年が答えた。
四人目。
老人。
「飲む分だけです」
「一日に?」
「小壺二つ。並ぶだけで疲れる」
五人目。
洗濯仕事の女性。
「顧客の衣服を洗います」
「商売用?」
「でも、家でやる仕事です」
家庭用と商業用。
簡単には分けられない。
「給水所を止めた場合、すべてを同じ優先度にはできません」
直人が言った。
「命に必要な飲用と料理を先にします」
「仕事の水がなければ、給金がなくなる」
洗濯仕事の女性が反論した。
「生活用水も必要です」
「では無料のまま全部運ぶのか」
ハイルが困った顔をする。
「飲用、手洗い、生活作業を分けます」
白。
飲用と料理。
青。
手洗い、幼児や病人の清拭。
灰。
洗濯や床清掃。
工房用水。
原則として各事業者が用意する。
「家内仕事は?」
セラが尋ねた。
「生活と商売が同じ場所です」
「最低生活分と、追加作業分を分けます」
「利用者が自分で申告する?」
「最初の三日間は、世帯人数を基準に生活水を配ります」
「洗濯仕事で追加が必要なら?」
「業務用申請として別記録」
「有料ですか」
「王都側が決めます」
直人はすぐに料金を約束しなかった。
◇
給水所の水質を調べる前に、代替給水計画が作られた。
対象区域。
六号棟を含む共同住宅七棟。
登録住民三百二十人。
未登録の短期滞在者。
推定三十人から五十人。
「三百七十人で計算します」
フィルが言った。
「少し多めに見ます」
「実際に三百二十人しかいなければ余る」
「余った飲用水は、治療所と共同炊事場へ回せます」
「足りないよりよい?」
「無制限に多く運ぶわけではありません」
最低飲用・料理水。
一人につき、小壺二つ。
乳幼児、病人、妊婦。
追加枠。
共同炊事場。
世帯へ個別配水するより、料理分をまとめる方法も検討。
「全世帯が自室で料理するわけではありません」
ハイルが言った。
「共同炊事場を使う人が多い」
「では、料理用の一部を共同炊事場へ直接入れます」
「家庭配水量を減らせる?」
「減らすのではなく、重複を避けます」
飲み水を家庭へ配り。
同じ家庭が料理用として共同炊事場でも受け取れば。
二重になる。
「世帯札と炊事場記録を分けます」
直人が言った。
「複雑です」
「三日間の緊急運用だけです」
「四日目以降は?」
「検査結果と給水所の補修状況で見直します」
◇
配水場所は一か所にしなかった。
給水所の前だけへ代替水を置けば、現在より長い列ができる。
第一配水所。
南区水務局支所前。
第二配水所。
六号棟前。
第三配水所。
第四便所周辺の仮回収拠点横。
「便壺回収場所の横へ、飲用水を置くのですか」
フィルが驚いた。
「横には置きません」
直人は区域図へ線を引いた。
便壺回収台は西側。
飲用水は東側の空き地。
距離。
三十歩。
間には木柵。
運行時間も分ける。
「飲用水車は朝と夕方」
「便壺運搬車は昼前と日没前」
「路地の入口で交差しないよう、進入方向も分けます」
「給水車は北から入り、東へ出る」
「便壺車は南から入り、同じ道を戻る」
「道路を一時的に一方通行にする?」
「配水時間だけです」
王都警備隊へ、通行整理の協力を求める。
「便所と水のために、道まで変えるのですか」
フィルが言った。
「水車と汚物車が接触する方が問題です」
◇
水を置く台も必要だった。
地面へ直接容器を置けば。
泥。
動物。
汚れた靴。
子どもの手。
給水口へ近づく。
「高さのある台を作ります」
南区大工組合へ依頼。
「今日中に三台?」
大工の親方が声を上げた。
「本設ではありません」
「だからといって、板を載せるだけでは壊れる」
「大壺の重量へ耐える必要があります」
「水を満杯にした大壺は、砂袋何個分だ」
「使用容器で試験します」
台の高さ。
腰より低い。
高すぎれば、重い壺を持ち上げられない。
低すぎれば、給水口が地面へ近づく。
「子どもが栓を開けないよう、管理者側へ向けます」
「利用者自身が取れない?」
「担当者が注ぎます」
「列が遅くなる」
「清水槽へ、各家庭の容器を直接入れさせません」
持参容器の外側が汚れている可能性がある。
給水口から少し離して注ぐ。
接触させない。
「一世帯ごとに容器を拭く?」
「飲用容器の外側に、汚物や染料が付いている場合だけ清掃台へ」
「誰が判断する?」
「受付担当」
管理者の訓練も必要になる。
◇
「給水所は、いつ止めますか」
エルンが尋ねた。
直人は答えた。
「代替配水所が一つ以上動いた後です」
「三か所すべて完成するまで待たない?」
「水質に明確な異常が見つかった場合は、一つでも先行停止します」
「まだ検査していません」
「だから、先に一か所だけ準備します」
「六号棟前?」
「最も影響が大きく、床下汚染が確認された場所です」
六号棟前の配水台を最優先。
王都本局から白い飲用槽二つ。
手洗い用青槽一つ。
生活用灰槽は、午後。
「給水所の調査中も、完全停止ではなく一部供給を続ける方法はありませんか」
ハイルが尋ねた。
「貯水槽そのものを使わず、流入水を別の清潔な槽へ迂回できれば」
「水路を切り替える?」
「仮の迂回給水です」
直人は給水所の裏側へ回った。
◇
石造りの貯水槽へ入る水は、背面上部の導水口から流れ込んでいた。
地下水路から一度石枡へ上がり。
木製の導水樋を通り。
貯水槽の上部へ落ちる。
「水が落ちています」
フィルが言った。
「貯水槽の水面へ直接触れずに入っています」
「落差があります」
直人は導水口を見る。
「汚れた貯水槽の水が、上流へ戻りにくい構造です」
「逆流しない?」
「通常は」
「通常?」
「導水口が水面より高いので、貯水槽から吸い戻される可能性は低いです」
「なら、安全?」
「上流の水が安全でも、貯水槽の壁や床から汚水が入る可能性があります」
「導水水を、貯水槽へ入れる前に別槽へ受ける?」
「はい」
仮設の白い密閉槽。
上部を開け、導水樋から水を落とす。
樋と水面の間には、指数本分の空間を残す。
「なぜ、樋を槽の中へ入れないのですか」
フィルが尋ねた。
「槽内の水が汚れた場合、樋へ触れないようにするためです」
「空間を空ける?」
「水をつなげず、自由に落とします」
空気の隙間。
清潔な供給側と、受け側を直接接触させない。
「溢れたら?」
「溢流口を、汚染区域と反対側の回収溝へ」
「雨水溝へ流す?」
「未使用の清水なら可能ですが、流れ先を確認します」
「また出口確認ですね」
「はい」
◇
迂回給水設備の仮設計が作られた。
導水樋の手前に、切替板。
通常位置。
既存貯水槽。
調査位置。
仮設白槽。
ただし、切替板が壊れれば水が止まる。
「二系統にします」
直人が言った。
「白槽を二つ?」
「一つへ給水しながら、もう一つを配水」
「満杯になったら切り替える?」
「はい」
「木樋から革ホースで分ける?」
「革ホースを清水用として新調します」
「便壺洗浄場で使った物は?」
「使いません」
「見た目が同じなら、後で混ざる」
「白い革帯を縫い付け、清水専用の刻印」
使用前。
内側洗浄。
漏水試験。
臭い確認。
「新品でも、革の油が水へ出ませんか」
ハイルが尋ねた。
「最初の水は飲用へ使いません」
「捨てる?」
「清掃用へ回します」
最初の洗浄水。
二回目。
三回目。
臭いと濁りがなくなるまで。
給水専用資材だからといって、設置直後から飲用に使えるとは限らない。
◇
迂回設備を作っている間に、貯水槽の外観調査を行う。
給水口側。
大きなひびなし。
南側。
地面が湿っている。
六号棟から続く古い排水路の推定線と重なる。
「こちらの石床が、少し沈んでいます」
セラが測定糸を張った。
中央より、指一本半低い。
「いつから?」
給水所管理人のラウムが答える。
「何年も前からだ」
「修理は?」
「水が流れるよう、低いままにしている」
「どこへ流すためですか」
「給水口からこぼれた水を、裏の溝へ」
正面でこぼれた水は、床の傾斜を通り。
南側の細い穴へ消える。
「排水口ですか」
「そうだ」
「図面にありません」
「昔からある」
直人は排水口へ細い棒を入れた。
下へ。
そして東へ曲がる。
「古い地下排水路へつながっている可能性があります」
「清水が流れるだけだ」
「現在は、給水所でこぼれた水だけですか」
ラウムが黙る。
「容器を洗う人はいませんか」
「時々」
「何を洗います?」
「水壺。野菜。手。汚れた靴を洗う者もいる」
「便壺は?」
「ここでは禁止している」
「見張れない夜間は?」
「夜は栓を閉める」
「貯水槽の水は残る?」
「正面扉を閉める」
給水所の排水も、完全な清水とは限らない。
◇
貯水槽の水を採取する。
流入直後。
槽中央。
底近く。
給水口。
四か所。
「水面は透明です」
フィルが言った。
「見た目だけでは判断しません」
試験液。
使用記録。
流入水。
目立つ異常なし。
槽中央。
目立つ異常なし。
給水口。
弱い腐敗物反応。
底近く。
腐敗物反応、陽性。
「底が汚れています」
ハイルが言う。
「沈殿物の影響もあります」
「いつ清掃しましたか」
ラウムが答える。
「去年の春」
「一年以上?」
「毎年一回だ」
「清掃方法は?」
「槽を空にして、中へ人が入る」
「外側の地下水が高い時期にも?」
「春にやる」
今は初夏。
六号棟床下と旧排水路には、汚染水が残っている。
「今回は、すぐ空にしないでください」
直人が言った。
「底が汚れているなら、空にして洗うべきだろう」
ラウムが反論する。
「槽内の水位を下げると、外側の汚れた水が壁の隙間から入る可能性があります」
「満杯なら入らない?」
「内側から外へ押す力が強くなります」
「水圧?」
エルンが尋ねる。
「はい。水位が高い間は、小さな隙間があっても内側から外へにじむ可能性が高い」
「空にすると逆になる?」
「外の地下水が高ければ、内側へ入ります」
「清掃するために空にした瞬間、汚水が入る?」
「可能性があります」
貯水槽の外壁を確認する前に、排水してはいけない。
◇
「では、今の水を飲ませ続けるのですか」
ハイルが尋ねる。
「底近くで反応があります」
「迂回給水を開始します」
「完成は?」
「あと一刻」
「その間は?」
給水所前には、まだ列がある。
「新規給水を止めます」
「代替は六号棟前だけ?」
「最初の白槽が到着しています」
「全員が六号棟へ押しかける」
「整理札を配ります」
給水所前で待っていた世帯。
優先札。
六号棟前の配水所へ案内。
「高齢者は歩けません」
「小型水運び班を出します」
「人員は?」
「給水所の管理補助員を二人」
「ラウムさんは?」
「既存槽の停止管理」
役割を分ける。
◇
給水所の六つの栓へ、赤い札が掛けられた。
調査のため一時停止。
代替給水は六号棟前。
飲用水を受け取れない世帯は受付へ。
住民から声が上がる。
「また水が止まった!」
「第二井戸も使えない!」
「いつ戻る!」
「水代を取るのか!」
「緊急飲用水は無料です」
ハイルが声を張る。
「生活用水と商売用水は?」
「生活用水は午後から配布。商売用は個別相談です」
「屋台を閉めろというのか!」
「飲食店の飲用・調理水は、衛生上必要です」
直人が答えた。
「ただし、無料給水を使った大量の食器洗浄は別の水を手配してください」
「水を買えば赤字になる!」
「屋台営業の費用です」
「今まで無料だった!」
「現在は緊急停止中です」
無料で使えていたから、事業者も依存している。
突然すべて有料にすれば、営業できなくなる者もいる。
「三日間は、飲食事業者へ最低調理水を仮配布します」
ハイルが判断した。
「営業規模に応じて上限を設定。追加分は有料」
「誰が量を決める?」
「営業許可上の食数と、昨日の利用記録を基準にします」
「記録がない店は?」
「暫定少量から」
完全な公平ではない。
だが、家庭用水を商業利用へすべて取られないための区分が必要だった。
◇
一刻後。
仮設迂回給水が始まった。
外郭水路から来た水。
導水樋。
切替板。
新しい革ホース。
白い仮設槽へ、空間を空けて落ちる。
「流入開始」
フィルが時刻を記録する。
「漏れは?」
接続部。
わずかな湿り。
「止めます」
「一滴だけです」
ラウムが言う。
「清水側の漏れでも、接続不良です」
革締め具を調整。
再開。
「漏れなし」
「最初の水は?」
「灰色生活用水へ回します」
革の臭い。
わずかにあり。
二回目。
弱い。
三回目。
目立たない。
透明度。
問題なし。
試験反応。
異常なし。
「飲用開始できます」
「白槽は、既存貯水槽へ触れていませんね」
エルンが確認する。
「台も別です」
「地面からの汚染は?」
「白槽の下へ高床。周囲は乾燥。排水は既存の地下穴へ入れず、地上の仮回収樋へ」
「溢れ水は?」
「清掃用として回収します」
清水を流しているからといって、周囲へ捨てない。
地下経路が確認できていないためである。
◇
第二の白槽も設置された。
一槽目。
給水中。
二槽目。
満水待ち。
満水になったら切り替える。
「一つの槽を満杯にしたまま使わないのですか」
フィルが尋ねる。
「給水を続けながら配ると、使用量が分かりにくくなります」
「槽単位で交互に使う?」
「はい。満杯量、配水量、残量を管理できます」
「片方に異常が出ても、もう片方を止めずに済む?」
「原因が共通しない場合は」
「両方同じ導水だから、上流異常なら両方止める」
「そのとおりです」
白槽一。
白槽二。
番号。
洗浄記録。
使用開始。
担当者。
すべて札へ書く。
◇
既存貯水槽は、新しい流入を止められた。
ただし、すぐには排水しない。
現在水位を記録。
一刻ごとに確認。
「利用していないのに、水位が下がれば?」
フィルが尋ねる。
「外へ漏れています」
「水位が上がれば?」
「外から入っているか、切替板から流入している」
「変わらなければ?」
「大きな漏れはない可能性があります」
最初の一刻。
変化なし。
二刻目。
わずかに低下。
「蒸発ですか」
「蓋付き槽です」
「外へ漏れている?」
「測定誤差の可能性もあります。さらに確認します」
外壁南側。
古い排水路方向。
石目地の一部へ、湿り。
「ここから外へ出ている?」
セラが白布を当てる。
内側からの清水に近い。
「満水時は外へ漏れています」
「なら、空にしたら逆流する可能性がある」
「はい」
◇
貯水槽を空にする前に、外側の調査口を作ることになった。
「今日は開けないのですか」
ラウムが尋ねる。
「支え材と作業員をそろえます」
「明日まで、水を残す?」
「はい」
「底の汚れも?」
「迂回給水へ切り替えたため、住民は飲みません」
「なら問題ない?」
「汚染水が外へ漏れ続ける可能性があります」
「少しずつ水位を下げれば?」
「外側の地下水位も同時に測ります」
内水位。
外側調査穴の水位。
差を見ながら段階的に排水。
一気に空にしない。
「槽の中へ入る作業員は?」
「外壁補修後。空気確認。二人以上。外に監視者」
「毎年、一人で入っていました」
「今年から変えてください」
「何も起きなかった」
「起きる前に変えます」
◇
六号棟前の配水所では、最初の混雑が起きていた。
家庭用の白列。
手洗い用の青列。
事業者の申請列。
三つに分けた。
だが、白列へ大きな樽を持ち込む者がいる。
「飲食店です」
「事業者列へお願いします」
「家族も飲む分だ!」
「家庭分は世帯札で受け取れます。店の樽は別です」
「二度並べというのか」
「用途が違います」
「水は同じだろう!」
給水担当者が困っている。
直人は現場へ来ると、受付台をさらに分けた。
家庭。
事業。
共同施設。
「同じ人が複数の立場を持つ場合は?」
フィルが尋ねる。
「札を分けます」
「不正に二重受給する?」
「利用量を記録します」
「記録で全部防げますか」
「防げません」
「では?」
「異常に多い場合だけ確認します」
全員を疑って給水を遅らせれば、列が進まない。
「最初から完全にはできません」
直人は言った。
「水が必要な人へ届くことを先にします」
◇
高齢者や歩行困難者へは、小型配水班が水を届けた。
小壺二つずつ。
荷車ではなく、二人用の担ぎ台。
「一人で運べます」
若い配水員が言った。
「階段があります」
「軽いです」
「片手が塞がれば、手すりを持てません」
二人。
一人が水。
一人が扉や階段を確認。
部屋番号。
受領。
「一壺届けるのに、人がかかりすぎる」
ハイルが言った。
「転倒事故が起きれば、さらに人が必要です」
「毎日続けられません」
「恒久運用には、建物ごとの小型貯水槽が必要です」
「各棟へ?」
「少なくとも高層階住民が多い場所へ」
「費用が大きい」
「今回は緊急配達。正式計画は別です」
◇
夕方までに、迂回給水設備は安定した。
白槽一。
二回配水。
白槽二。
一回配水。
漏水なし。
異物混入なし。
給水口清掃。
各回後。
手洗い槽。
補充二回。
生活用灰槽。
午後から一回。
「既存給水所を止めても、水は届いています」
フィルが記録を見た。
「量は十分ですか」
「飲用最低量は」
「生活用水は不足?」
「はい」
「洗濯仕事の人から苦情が出ています」
「明日の灰色水を増やせるか確認します」
「無料ですか」
「最低生活分は緊急費。業務追加分は仮有料案です」
「まだ決定していない」
「その表現も記録してください」
◇
既存貯水槽の水位は、夕方までに指半分ほど下がった。
「外へ漏れています」
エルンが言った。
「南側目地の湿りも増えています」
「旧排水路へ入っている?」
「外側調査で確認します」
「給水所の水が、六号棟側へ逆に流れていた可能性も?」
セラが尋ねる。
「勾配によっては」
これまで。
第二便所の清掃水。
便壺洗浄水。
処理槽漏水。
雨水。
六号棟生活排水。
それらが下流へ向かっていると考えていた。
しかし、給水所の貯水槽から漏れた清水も、同じ地下空洞へ入り込んでいた可能性がある。
「清水が入れば、汚水が薄まります」
フィルが言った。
「安全になる?」
「なりません」
直人が答えた。
「量が増えれば、汚れた水をさらに遠くへ押し流します」
「清水でも、地下空洞を広げる?」
「はい」
水の入口は、汚水だけとは限らない。
清潔な水でも、壊れた経路へ漏れ続ければ。
土を運び。
空洞を広げ。
別の場所へ汚染を押し出す。
◇
「給水所を閉めた原因は、汚水が入ったからですか。それとも清水が漏れたからですか」
ハイルが尋ねた。
「両方を確認します」
「住民への説明は?」
「底近くで腐敗物反応があり、外壁漏水も確認されたため一時停止」
「汚染確定とは言わない?」
「はい」
「安全だった場合、騒ぎすぎたと言われます」
「代替水を用意して止めました」
「営業損失を訴える店もあります」
「記録してください」
「すぐ補償を約束しない?」
「約束しません」
「リリアさんへ報告できますね」
セラが笑った。
「少しは学びました」
◇
夜。
南区支所で、給水所停止初日の記録がまとめられた。
利用停止時刻。
午前。
代替給水開始。
六号棟前。
給水迂回設備開始。
昼過ぎ。
飲用配水。
世帯二百九十一。
共同炊事場三か所。
治療所一か所。
飲食事業者二十二。
高齢者・歩行困難者への個別配達。
三十七世帯。
水不足申告。
十四件。
重複札。
五件。
容器汚染による清掃。
九件。
事故。
なし。
「三百七十人の想定に対し、世帯数が多いです」
フィルが言った。
「未登録住民が想定より多い可能性があります」
「短期滞在者?」
「一室へ複数世帯」
「正式な人口を調べる?」
「給水に必要な範囲で」
登録問題を理由に、水を渡さないことはしない。
「部屋番号と人数だけで暫定管理します」
「不法居住として別の役所へ報告しますか」
ハイルが尋ねる。
住民が登録違反を恐れれば、給水へ来なくなる。
「衛生給水記録を、そのまま取り締まりへ使わないでください」
直人が言った。
「水務局だけで決められません」
「少なくとも、利用者へ目的を説明します」
「登録確認が必要な場合は?」
「別の手続きと通知」
「情報を分ける?」
「はい」
安全な水を受け取るために名乗った情報が、別の罰へ直結すれば。
次の緊急時に、人は隠れる。
◇
翌日の調査予定が決められた。
一。
既存貯水槽南側に外部調査口を作る。
二。
旧地下排水路との位置関係を確認。
三。
内水位と外地下水位を比較しながら段階排水。
四。
外壁目地と基礎の状態確認。
五。
底沈殿物採取。
六。
貯水槽内へ入る前の空気確認。
七。
迂回給水設備を止めずに運用。
「調査中も、給水は続く」
フィルが確認する。
「はい」
「迂回設備に異常が出たら?」
「給水車の白槽を予備にします」
「給水車を全部配水へ使わない?」
「一台は予備として残します」
「水が足りないと苦情が出ます」
「予備を使い切れば、次の故障で完全停止します」
「使わない水があるように見える」
「緊急予備であることを表示します」
封印予備水。
迂回設備停止時のみ開放。
住民代表と水務局の二重鍵。
「目の前に水があるのに配らないのかと、怒られます」
「理由を説明します」
「それでも?」
「予備を守ります」
◇
直人は、王都南区の区域図を見た。
四つの便所。
二つの井戸。
一つの無料給水所。
仮洗浄場。
便壺回収拠点。
緊急給水所。
仮設便所。
共同住宅六号棟。
古い地下排水路。
町の地図は、調査を始めた時より何倍も複雑になっている。
便器を一台置く場所を探しに来たはずだった。
だが、便器の下には排水がある。
排水の横には井戸がある。
井戸を止めれば給水が必要になる。
給水を運べば、道路と人員が必要になる。
住民を部屋から出せば、仮住居と仕事と子どもの居場所が必要になる。
「便器は、まだ一台も設置していませんね」
フィルが言った。
「はい」
「王都本局は、遅いと言うかもしれません」
「今、水洗便器を置けば、水の使用量と排水量が増えます」
「古い地下水路へ?」
「処理先を作らなければ」
「では、この調査が終わるまで便器は作らない?」
「仮設便所と、既存設備の安全化を先にします」
「王都が期待していた衛生革命とは、違いますね」
セラが言った。
「白い便器を並べる方が、見た目は分かりやすい」
「でも、その下で水が漏れていたら意味がありません」
給水所を止める前に、代わりの水を用意する。
便所を止める前に、代わりの排泄場所を用意する。
部屋を止める前に、代わりの寝場所を用意する。
危険な設備を止める判断と。
止められた人の暮らしをつなぐ準備。
その二つは、別々の仕事ではなかった。
◇
夜半。
六号棟側の旧排水路仮回収槽から、報告が届いた。
「流量が増えています」
「雨は降っていません」
直人が立ち上がる。
「給水所の流入を止めた後です」
「貯水槽の漏水が、地下へ届くまで時間差があった?」
「可能性があります」
現在の貯水槽水位。
さらに低下。
旧排水路回収槽。
流量増加。
「つながっています」
エルンが言った。
「給水所から漏れた水が、六号棟側へ流れている可能性が高い」
「清水が流れたことで、床下水量が増えていた?」
「そして、上流の汚染をさらに下流へ押していたかもしれません」
「下流は?」
セラが地図を見る。
無料給水所のさらに東。
そこには。
南区の共同炊事場がある。
三つの大釜。
毎日、多くの住民が利用する場所。
「古い排水路の出口は、共同炊事場の裏側かもしれません」
フィルが言った。
「明日は貯水槽の調査では?」
「班を分けます」
直人が答えた。
「またですか」
「給水を守る班と、水の行き先を追う班です」
給水所を止める前に、代わりの水は用意できた。
だが、漏れていた水の行き先は、まだ終わっていない。
地下を流れる水は、次の生活設備へ向かっていた。
南区の無料給水所は、通常二百人、井戸停止後は延べ四百人以上が利用していました。
家庭の飲用水だけでなく、屋台、洗濯仕事、工房にも使われていたため、緊急給水では飲用、手洗い、生活用、事業用を分けて管理します。
直人たちは既存貯水槽へ入る前の清水を、二つの白い仮設槽へ落とす迂回給水設備を設置し、給水を続けながら貯水槽を停止しました。
既存槽の底近くでは腐敗物反応があり、南側外壁からの漏水も確認されています。
さらに貯水槽の水位低下と、六号棟側の旧排水路流量増加が一致し、給水所から漏れた水が地下汚染を下流へ押し流していた可能性が高まりました。
次回は給水所の外壁調査班と、古い排水路の下流を追う班に分かれ、共同炊事場の床下へ汚染水が届いていないか確認します。




