第49話 濡れた床板だけを替えても、床下の汚水は残ります
古い地下排水路の下流には、共同住宅六号棟が建っていました。
六号棟では以前から、一階の床が湿る、雨の後に便所のような臭いがするという苦情が出ています。
これまで行われた修理は、傷んだ床板を新しい板へ替えるだけでした。
しかし、水の入口と床下を確認しなければ、新しい板も同じように腐ります。
王都南区の共同住宅六号棟は、第二便所から南へ百二十歩ほど離れた場所にあった。
四階建て。
石造りの一階へ、木造の二階から四階を継ぎ足した建物である。
正面から見れば、周辺の共同住宅と大きな違いはない。
洗濯物。
窓辺の植木鉢。
入口脇の共同炊事炉。
朝の仕事へ向かう住民たち。
だが、建物の裏側へ回ると、壁の下部に黒い染みが続いていた。
「雨の後だけではありませんね」
水務局書記官フィルが、石壁を見上げる。
「昨日から大きな雨は降っていません」
陶山直人は、壁際の土へ測定棒を差した。
表面。
少し湿っている。
指四本ほどの深さ。
さらに湿りが強い。
「地面の下から上がっています」
「古い排水路は、この辺りを通るのですか」
地方監査官エルンが、百年前の区域図を広げた。
線は、六号棟の北西角を横切っている。
現在の建物が作られる前には、洗濯場の水を南の雨水路へ流すための木樋があった。
「建物の真下か、外壁沿いです」
痕跡調査を担当するセラが答えた。
「図面の縮尺が正確ではないので、指十本から二十本ほどずれている可能性があります」
「床下へ入るのですか」
フィルが尋ねる。
「安全な点検口があれば」
直人が答えた。
「なければ、外側から調査穴を作ります」
「一階の住民は?」
「まず、事情を説明します」
◇
六号棟の管理人は、ナムという初老の男性だった。
建物の一階入口横に、小さな管理室を持っている。
「水務局の調査?」
ナムは、エルンの許可書を何度も裏返した。
「第二便所の事故は聞いたが、うちとは関係ないだろう」
「古い地下排水路が、六号棟の近くを通っている可能性があります」
「百年前の水路だぞ」
「現在も水が流れています」
「うちの排水ではない」
「責任を決めるためではなく、床下の安全を確認するためです」
ナムは眉をひそめた。
「一階の床なら、去年直した」
「どの部屋ですか」
「裏側の三室」
「床板を交換した?」
「そうだ」
「梁は?」
「大工が大丈夫だと言った」
「床下を見ましたか」
「板を外した時に見た」
「湿りの原因は?」
「雨が壁から入ったのだろう」
「外壁を修理しましたか」
「石の隙間へ目地材を塗った」
「その後、床の湿りは止まりましたか」
ナムは答えなかった。
「苦情記録では、その後も四件あります」
セラが南区支所の写しを示す。
「去年の秋。冬の初め。今年の春。今月」
「古い建物だ。多少は湿る」
「便所に似た臭いについては?」
「南区全体が臭う」
「虫が増えたという報告は?」
「住民が食べ物を片づけないからだ」
「すべて住民の使い方が原因ですか」
「そうは言っていない」
「では、原因を確認させてください」
◇
一階裏側には、三つの部屋が並んでいた。
一号室。
洗濯仕事をしているユーナと、その母親。
二号室。
日雇い職人の兄弟三人。
三号室。
幼い子ども二人を育てる五人家族。
囲い板事故で怪我をしたユーナは、右手首へ布を巻き、肩を動かさないようにしていた。
「また調査ですか」
「今度は、住んでいる建物の床下です」
セラが答える。
「私の部屋?」
「三室すべてです。ただし、許可なく家具を動かしたり、床を開けたりしません」
ユーナは母親と顔を見合わせた。
「臭いのことですか」
「いつ頃から感じますか」
「去年の夏頃」
「床を直す前?」
「はい」
「直した後は?」
「最初の一月は、ましでした」
「その後は?」
「雨が降ると戻りました。最近は、雨がなくても夜に臭うことがあります」
「どこから?」
「壁際。寝台の下」
「床が柔らかい場所は?」
ユーナは部屋の奥を指した。
「衣装箱の前です。踏むと少し沈みます」
直人は、すぐに床へ乗らなかった。
「衣装箱を動かせますか」
「重いです」
「作業員二人で、中身を出してから動かします」
「服を全部見られるの?」
「ご家族だけで箱から出していただきます」
設備調査だからといって、私物を勝手に扱うわけにはいかない。
◇
三室の住民へ、調査内容が説明された。
最初に行うのは、非破壊確認。
床の傾き。
表面の湿り。
打音。
臭いの位置。
虫の発生場所。
次に。
危険が疑われる場所だけ、小さな確認穴。
床下へ人は入らない。
採水や土の採取は、長い器具で行う。
「床を開けたら、今夜は寝られない?」
三号室の母親が尋ねた。
「確認穴は、閉じられる大きさにします」
「大きな腐食が見つかった場合は?」
「部屋の一部または全体を使用停止にする可能性があります」
「どこへ行けばいいの?」
「代替部屋を決めずに、全面停止にはしません」
直人は、はっきり答えた。
「本当に?」
「危険が高く、すぐ退避が必要な場合もあります。その場合は、南区支所と住宅管理者が仮住居を用意します」
管理人ナムが顔を上げる。
「空き部屋はないぞ」
「六号棟だけでなく、区域全体の空室と宿泊所を確認します」
「費用は誰が出す」
「原因と責任が確定するまで、緊急住宅衛生費の仮負担を申請します」
「勝手に公費を約束するな」
エルンが直人を見る。
「申請すると言いました」
「その場で決定はしない」
「分かっています」
リリアとの約束を、王都に来て何度確認しただろう。
◇
一号室から調査を始める。
入口付近。
床は乾いている。
中央。
大きな傾きなし。
寝台下。
湿り。
衣装箱前。
板の継ぎ目が黒い。
測定糸を張ると、壁際が中央より指一本ほど沈んでいる。
「去年交換した板ですか」
直人が尋ねる。
ナムが答える。
「そうだ」
「新しい板なのに、もう黒ずんでいます」
「湿気の多い部屋だからだ」
「板の下へ防湿処理は?」
「油を塗った」
「上面だけ?」
「大工に聞け」
床を叩く。
中央。
こん。
壁際。
ぼす。
衣装箱の下。
さらに鈍い。
「梁か、板の下地が傷んでいます」
「板は新しいぞ」
ナムが言う。
「板の下が新しいとは限りません」
「梁は問題ないと言われた」
「記録は?」
「口頭だ」
直人は床板の固定釘を確認した。
去年打った新しい釘。
だが、釘頭の一部が赤く変色している。
「一年以内で錆が出ています」
「南区では普通だ」
「普通にしてはいけません」
◇
床板の端へ、小さな確認穴を開ける許可が得られた。
家具を離す。
床へ布を敷く。
切りくずが生活用品へ飛ばないよう囲う。
「どのくらいの穴ですか」
ユーナが尋ねる。
「手のひらより小さく」
「そこから何が分かるの?」
「板の厚さ、下の湿り、臭い、梁の表面」
釘を一つ外す。
床板の端を少し持ち上げる。
隙間から、湿った臭気が出た。
ユーナが口元を押さえる。
「いつもの臭いです」
「便所に近い?」
「はい」
直人は顔を近づけない。
採気筒を入れる。
白布。
細い鏡。
床下には、黒い土。
梁の側面。
水染み。
そして。
土の一部に、灰色の水が光っていた。
「水があります」
フィルが鏡を覗く。
「床下に水たまり?」
「浅いですが、続いています」
「雨は昨日の夜だけです」
「雨水だけか、旧排水路からの水か確認します」
長い採水器を入れる。
少量。
色。
薄い灰色。
臭い。
便所に似た腐敗臭。
「試験液を使います」
関所で許可を得た薬品箱。
使用場所。
使用量。
残量。
記録する。
結果。
腐敗物反応。
陽性。
石灰反応。
弱い陽性。
「第二便所の清掃水や処理槽水と似ています」
エルンが言う。
「同じ水とは、まだ決めません」
直人が答えた。
「でも、単なる雨水ではない可能性が高いです」
◇
梁の状態を確認する。
長い棒の先へ、小さな金属針。
表面へ軽く押す。
健全部分。
ほとんど入らない。
黒ずんだ部分。
指一本分入る。
「梁も傷んでいます」
ユーナの母親が顔色を変える。
「床が抜ける?」
「今すぐとは言えません」
「安全なの?」
「荷重範囲を確認するまで、壁側へ重い物を置かないでください」
「今夜は寝られる?」
寝台は、問題の壁際にある。
「寝台を入口側へ移します」
「部屋全体を止めるほどではない?」
「現在確認した範囲では、壁側の幅三歩分を使用停止にします」
赤い縄。
床上に固定するのではなく、家具と柱を使って区域を分ける。
衣装箱。
寝台。
水壺。
重い物を危険側から移す。
「床へ赤札を置くだけでは駄目ですか」
ナムが尋ねる。
「夜に踏みます」
「縄ならつまずく」
「高さを腰位置にし、入口へ表示します」
「狭い部屋が、さらに狭くなる」
「代替部屋が決まるまでの応急措置です」
◇
二号室。
日雇い職人の兄弟三人は、昼の仕事へ出ていた。
本人たちの事前許可は取れていない。
「管理人権限で開けられる」
ナムが鍵を持つ。
「緊急調査でも、まず連絡を試みます」
セラが止めた。
「日雇い現場は?」
「西門の石運び」
「使者を出します」
「戻るまで待つのか」
「外側から調べられる範囲を先に行います」
二号室の外壁。
湿り。
床下換気口はない。
窓の下。
小さな虫。
室内調査は、居住者の一人が戻ってから行うことになった。
「床が抜ける危険があるなら、勝手に入るべきでは?」
フィルが尋ねる。
「生命の差し迫った危険が明確なら、緊急開錠も必要です」
セラが答えた。
「今は一号室の調査結果から、同様の可能性がある段階です」
「待つことも調査?」
「許可を守ることも、調査の信頼に必要です」
◇
三号室には、五人家族が暮らしていた。
子どもは、七歳と四歳。
床へ座って遊んでいる。
「まず、子どもを別の部屋へ」
直人が言った。
「なぜ?」
母親が不安そうに尋ねる。
「調査道具と床の確認穴があります」
隣人が、子どもを一時預かる。
三号室では、壁際に低い食器棚が置かれていた。
棚の下。
床板の一部が浮いている。
「踏まないでください」
「毎日踏んでいます」
「いつから浮いていますか」
「春頃」
「管理人へは?」
「言いました」
全員がナムを見る。
「板が乾燥して反っただけだと思った」
「確認しましたか」
「上から見た」
食器棚を移す。
床板の隙間から、黒い虫が二匹出た。
「これが増えた虫ですか」
「もっと小さいものもいます」
床板を軽く叩く。
鈍い。
確認穴。
下から、さらに強い臭気。
「こちらの方が水量が多い」
鏡に映る床下。
水たまりが、一号室より広い。
黒い泥。
浮いた木片。
布の切れ端のような物。
「旧排水路が、三号室の下を通っている可能性があります」
「便所の水が、家の下へ?」
母親の声が震える。
「可能性があります」
「子どもたちは、ここで寝ています」
「今夜は、この部屋を使用停止にします」
「代わりは?」
「建物内の共同集会室を仮寝室へ変更します」
ナムが声を上げた。
「あそこは、住民会の部屋だ!」
「今夜だけです」
「五人も入れば使えなくなる」
「床下に汚水のある部屋へ、子どもを寝かせられません」
「ほかの住民が反対する」
「住民代表と協議します」
◇
六号棟の共同集会室は、一階正面側にあった。
床の打音。
乾燥。
大きな沈みなし。
換気窓。
鍵。
五人家族が眠る広さはある。
「寝具は?」
「家から運びます」
「危険側の床を通らず出せますか」
三号室の入口側は比較的安全。
荷物を一度に運ばず、軽い物から。
食器棚は残す。
寝具。
衣服。
子どもの必要品。
調理器具の一部。
「夜だけなら、何とか」
母親が言った。
「一晩で終わるとは約束できません」
「何日?」
「床下の水を止め、梁の状態を確認するまで」
「仕事へ行けない」
「なぜです?」
「子どもを集会室へ残せない」
「日中の見守り場所が必要です」
設備停止は、寝る場所だけの問題ではない。
子どもの世話。
仕事。
食事。
荷物。
「南区支所の臨時保育部屋を使えますか」
ハイルが答える。
「給水停止世帯向けに、昼だけ開けている部屋があります」
「費用は?」
「緊急措置中は無料」
「昼食は?」
「家庭から持参」
「調理場所が使えない場合は?」
「共同炊事場を利用できます」
母親は、ようやくうなずいた。
◇
六号棟の住民会が、急きょ開かれた。
一階三号室の一家が集会室を使う。
一号室は、部屋の一部を停止。
二号室は居住者帰宅後に調査。
ほかの階への影響。
床下の臭い。
仮住居。
「なぜ、一階の住民だけのために集会室を使わせる」
二階の男性が言った。
「うちも狭い」
「床下に汚水が見つかっています」
エルンが説明する。
「病気が出たのか」
「現時点で、汚水が原因と確認された病気はありません」
「なら、部屋で寝ればいい」
セラが男性を見る。
「床が抜ける可能性と、汚染空気への接触があります」
「可能性ばかりだ」
「だから、確認が終わるまで一時退避します」
「集会室の利用料は?」
「三日間は緊急住宅衛生費へ申請」
管理人ナムが割り込む。
「三日を超えたら、六号棟の家賃から――」
「住民全体へ勝手に上乗せしないでください」
直人が止めた。
「建物設備の問題です」
「建物の家賃で直すしかないだろう」
「原因責任が確定するまで、仮負担を分けます」
「第二便所の所有者が払うのか」
「旧排水路は町の記録管理にも関係します」
「井戸管理者は?」
「便壺洗浄水の流入分を調査します」
「六号棟所有者は?」
「床下を確認せず、表面の板だけ交換した維持管理について調べます」
住民へ直接、緊急費を上乗せする前に。
設備所有者。
区域管理者。
汚染源となった事業者。
それぞれの仮負担を整理する。
◇
六号棟の所有者は、王都西区に住む商人レイグだった。
ナムは管理業務を請け負っているだけで、建物修理の最終決定権は持っていない。
「所有者へ連絡を」
エルンが命じる。
「今日中には来ない」
「正式な緊急修理通知を出します」
「大規模工事を勝手に始めるなと言われるぞ」
「生命安全に関わる封鎖と調査は、水務局権限で行います」
「床を全部剥がすのか」
「まだ決めていません」
「所有者が到着するまで、何もしない方が――」
「床下へ水が流れ続けている可能性があります」
直人は床下採水瓶を示した。
「入口を止める必要があります」
「第二便所と井戸側は、もう止めただろう」
「残留水が流れています。下流側に別の入口がある可能性もあります」
◇
二号室の居住者が戻った。
三兄弟の長兄、バロ。
石運びの仕事着のまま、汗と土にまみれている。
「部屋へ水務局が入る?」
「許可をいただければ」
「何か盗まれたら?」
「居住者立会い。調査前後の室内を記録します」
「紙に書くだけ?」
「ご本人にも確認署名をお願いします」
「床を壊したら?」
「調査による損傷は、水務局の緊急調査費で補修します」
バロは考えた後、鍵を開けた。
二号室は、三人分の寝具と仕事道具で埋まっている。
床へ直接置かれた鉄工具。
水壺。
石切り用の槌。
「重い道具を壁際へ置いていますね」
「邪魔にならないから」
「移動します」
「なぜ?」
「床の沈みが疑われます」
三人分の工具は重い。
もし梁が腐食していれば、集中荷重になる。
「どこへ置く」
「管理室前の石床へ、仮保管場所を作ります」
「盗まれる」
「鍵付き木箱と預かり札」
「俺たちは明日も仕事だ」
「必要な工具だけ、朝に受け取れるようにします」
「面倒だな」
「床へ落ちるよりは」
バロは渋々同意した。
◇
二号室の床下も湿っていた。
ただし、水たまりは一号室と三号室より少ない。
壁際の梁。
一部腐食。
中央梁。
比較的健全。
「三室で違います」
フィルが言った。
「水の経路が三号室側へ寄っています」
セラが床下の傾斜を測る。
「旧排水路の中心は、三号室の下かもしれません」
「一号室は枝流れ?」
「または、砂利層へ広がった水」
「二号室は部屋全体を止めますか」
直人は打音と梁の確認結果を見る。
「壁側一歩半を停止。重い工具を移動。寝具は中央側へ」
「三人が寝られる?」
「狭いです」
「一人だけ別の場所へ?」
バロが弟たちを見る。
「俺が仕事場の休憩小屋で寝る」
「所有者の許可は?」
「親方へ聞く」
「休憩小屋が寝泊まり可能な設備か確認してください」
「屋根はある」
「便所と水は?」
「仕事場にある」
「夜間利用は?」
「閉まる」
「では、代替住居として不十分です」
「集会室へ、うちの一人も入れろ」
住民会で、再度調整が必要になる。
集会室。
五人家族。
さらに一人。
床面積。
寝具。
男女の区分。
荷物。
「仕切り布を入れます」
セラが提案する。
「家族区画と単身男性区画を分ける」
「鍵は?」
「集会室入口は共通。貴重品は個別の鍵付き箱」
「費用が増えます」
フィルが記録する。
「住まいを止めるには、便所を止めるより準備が多いですね」
「人の生活全部が入っています」
◇
床下の水路を追うため、建物外側に調査口を作ることになった。
三号室直下。
古い区域図の線。
地表の湿り。
壁の黒染み。
四つの情報が重なる場所。
「建物の内側から開けた方が早い」
ナムが言う。
「梁の状態が分からない場所で、床を広く外せません」
直人が答えた。
「外側から、基礎を傷めない位置へ調査口を作ります」
「石壁の下を掘るのか」
「基礎から指十二本以上離します」
「それで水路へ届く?」
「斜めに掘ります」
大工と土工。
支え枠。
排水受け。
防護具。
作業停止条件。
第二便所の沈下調査と同じ手順。
表土。
湿った土。
砂利層。
そして。
古い木樋。
六号棟の外壁下で、木樋は完全に崩れていた。
元の形はほとんどない。
黒い木片と、空洞。
その空洞が建物床下へ広がっている。
「水路が壊れ、床下が流路になっています」
フィルが言った。
「はい」
直人は空洞の向きを確認した。
上流。
第二便所方向。
下流。
建物南側。
さらに。
東へ小さな枝。
「枝が三号室の下へ」
セラが言う。
「床下の水たまりへつながっています」
◇
現在の流量を測る。
旧排水路上流から。
細い水。
一刻に、小桶八分の一。
「第二便所側の入口は止めました」
「処理槽の残留漏水がまだあります」
「便壺洗い場側の土中水も」
「雨水は?」
「建物の屋根排水も確認します」
六号棟の雨樋。
北側。
途中で外れている。
屋根水が、壁際へ直接落ちる。
「これも入っています」
「去年、外壁へ目地材を塗った時に、雨樋を直さなかった?」
ナムが言う。
「大工へ頼んだが、屋根職人の仕事だと言われた」
「別の職人へ依頼しましたか」
「費用がなかった」
「床板は替えたのに?」
「住民から、床が沈むと急かされた」
見える床板。
見えにくい雨樋。
床板だけが先に直された。
「雨樋を仮接続します」
「今日?」
「これ以上、壁際へ水を落とさないためです」
「本修理ではない?」
「外側の雨水溝へ仮ホースで流します」
「その雨水溝は安全ですか」
フィルが尋ねる。
「出口を確認します」
どこかへ水を移す前に、行き先を見る。
第二共同井戸で学んだことを繰り返す。
◇
六号棟南側の雨水溝は、表面上は正常だった。
だが、落ち葉。
布くず。
泥。
半分以上詰まっている。
「ここへ屋根水を増やせば、あふれます」
「先に清掃」
「清掃物は?」
「一般ごみと、汚染泥を分けます」
溝の泥から、便所臭。
旧排水路の下流漏水が、雨水溝近くへ出ている可能性がある。
「雨水溝も汚染経路になっています」
エルンが言った。
「屋根水を流す前に、下流を確認します」
「作業が進まない」
ナムが苛立つ。
「一つ直すたび、次が出る」
「つながっているからです」
「全部直す金はないぞ」
「優先順位を付けます」
今すぐ。
住民の退避。
重い荷物の移動。
雨樋から壁際への流入停止。
旧排水路から床下への流入を仮回収。
七日以内。
腐食梁の詳細確認。
汚染土の除去。
床下乾燥。
床と基礎の補修計画。
三十日以内。
古い地下排水路の恒久切替。
雨水溝清掃と排水分離。
建物保守契約。
「全部を今日工事しません」
「今日必要な費用は?」
「仮住居、調査、仮排水、雨樋応急接続」
「所有者が払わなければ?」
「緊急費で先行し、後で仮負担を精算します」
◇
旧排水路の水を、床下へ流さない仮受け工事が始まった。
建物上流側。
崩れた木樋の手前。
水を小さな密閉槽へ導く。
「完全に塞がないのですか」
フィルが尋ねる。
「塞ぐと、上流側の土へ水が回ります」
「第二便所側へ戻る?」
「別の場所へあふれる可能性があります」
「受けて、運ぶ?」
「はい」
「一日にどのくらい?」
現在の流量なら、大桶一杯未満。
だが雨天時は増える。
「雨の前後で測ります」
「処理先は?」
「便所汚水を含む可能性があるため、汲み取り処理場」
「雨水も混ざっています」
「安全側に汚水として扱います」
「費用が上がる」
「分離できる恒久設備を作るまでです」
◇
床下から採取した黒い泥には、複数の物が混ざっていた。
細い布繊維。
髪。
石灰。
腐った木。
油のような膜。
「第二便所だけではないですね」
イリナが言った。
「便壺洗い場で、料理油や布も流れていました」
「六号棟の生活排水は?」
ナムが答える。
「炊事水は建物前の溝へ流す」
「裏側へ流している家庭は?」
住民へ聞く。
一号室。
なし。
二号室。
工具を洗った水を、窓から裏へ流したことがある。
三号室。
子どもの洗濯水を、壁際へ捨てることがある。
「建物住民の生活水も、床下へ入っていました」
フィルが言った。
「一部は」
直人が答える。
「だから、全部住民の責任?」
ナムが言う。
「違います」
「自分たちで水を捨てている」
「捨て場所が用意されていましたか」
「建物前の溝がある」
「三号室からは遠い」
「だからといって壁際へ流してよいわけではない」
「はい。住民側の運用改善も必要です」
直人は分けて記録した。
区域旧排水路。
第二便所清掃水。
便壺洗浄水。
処理槽漏水。
雨樋。
六号棟住民の生活排水。
複数の入口。
「一つの原因ではありません」
セラが言った。
「でも、最も量が多い入口は?」
「雨天時は雨樋と地表水。平常時は第二便所系統と生活排水の可能性があります」
「測定が必要ですね」
「はい」
◇
六号棟の裏へ、仮の生活排水台が設置された。
住民が洗濯水や道具洗い水を、壁際へ捨てないためである。
受け桶。
異物網。
密閉回収槽。
「また回収式?」
住民が尋ねる。
「区域排水を修理するまでです」
「毎回、遠くの台へ持っていくの?」
「各階へ小型の運搬桶を置きます」
「誰が下ろす?」
階段。
重い水桶。
一人で運ばせれば危険。
「半分以下で、二人運搬」
「毎日?」
「当番を決めます」
「無償?」
住民の声が厳しくなる。
「建物管理業務として、管理人側の補助員を付けます」
ナムが驚く。
「私の仕事か?」
「建物設備の代替排水です」
「住民が捨てる水だぞ」
「捨て場所が使えない間の運用です」
「一人ではできん」
「臨時補助員を雇います」
「費用は?」
「所有者へ仮請求。支払い決定までは緊急住宅衛生費から先行」
また、原因が決まるまで作業を止めない仮負担。
◇
夕方。
六号棟所有者レイグが到着した。
上質な外套。
磨かれた靴。
共同住宅の湿った裏庭には似合わない姿だった。
「床を勝手に開けたと聞いた」
「居住者の許可と、水務局の緊急調査命令に基づいています」
エルンが書類を示す。
「一階三号室を、使用停止にした?」
「床下へ汚水が流れています」
「汚水と決まったのか」
「腐敗物反応と石灰反応。便所に似た臭気。旧排水路との接続を確認しました」
「建物が原因ではない」
「建物の雨樋破損と、床下点検不足も影響しています」
「雨樋は住民管理だ」
ナムが顔を上げる。
「私の契約では、大規模外装は所有者負担です」
「雨樋一本が大規模か?」
「四階屋根へ上がる仕事です」
「大工を呼べばよい」
「費用承認を出さなかったでしょう」
「申請書は見ていない」
「二度送りました」
「証拠は?」
ナムは管理室から、控えを持ってきた。
半年前。
三か月前。
雨樋修理申請。
所有者代理店受領印。
「私のところへ届いていない」
「所有者内部の連絡問題です」
セラが言った。
「住民の安全責任が消えるわけではありません」
レイグは不快そうに彼女を見る。
「あなたは誰だ」
「調査協力者です」
「商会の者か」
「個人です」
「なら、契約へ口を出すな」
「私は痕跡と記録の事実を話しています」
◇
レイグへ、現場が示された。
床下の水。
腐食梁。
古い木樋。
外れた雨樋。
黒い土。
「床板は去年替えた」
「梁と床下排水を直していません」
直人が答える。
「大工は梁に問題なしと言った」
「点検記録は?」
「ない」
「誰が大工を選びましたか」
「ナムだろう」
ナムが反論する。
「所有者指定の大工です」
「その大工を呼びます」
エルンがフィルへ指示した。
「責任者を増やして、私へ請求するつもりか」
「責任割合を確認します」
「住民も壁際へ水を捨てていた」
「その分も記録しています」
「なら、住民にも払わせろ」
「緊急退避と安全調査費を、先に住民へ負担させません」
「なぜだ」
「建物を所有していないからです」
「使い方の問題は?」
「恒久費用の精算時に分けます」
「全部私が先払い?」
「建物所有者の仮負担分を求めます」
「金額は?」
直人は答えず、エルンを見る。
「正式決定前です」
エルンが言った。
「本日必要な仮住居、仮排水、調査、雨樋応急修理について、町と所有者で仮に折半する案を出します」
「同意しない」
「同意がなくても、生命安全の緊急措置は進めます。費用争いは後です」
「所有者権を無視するのか」
「住民を危険な部屋へ戻しません」
◇
レイグは、集会室を仮寝室に使うことにも反対した。
「集会室は、家賃に含まれる共用設備だ」
「住民の避難先です」
「一部屋だけのために、全員の利用を止めるのか」
「床下の調査が終わるまでです」
「宿へ移せ」
「家族五人と単身一人です。宿泊費は?」
「水務局が払えばよい」
「建物所有者の負担も必要です」
「私の建物へ、外から汚水が来たのだろう!」
「雨樋と床下保守の問題があります」
「古い排水路を放置した町の責任だ!」
どちらか一方だけではない。
だから、仮負担を分ける必要がある。
「今夜、住民はどこで寝るのですか」
直人が尋ねた。
「危険が確定するまで、部屋でよい」
「床下に汚染水があります」
「床はまだ抜けていない」
「抜けるまで使うのですか」
革工房。
街道宿。
第二便所。
同じ言葉を、何度聞いただろう。
「集会室を使用します」
エルンが決定した。
「所有者の異議は記録します」
レイグは唇を噛んだ。
◇
夜までに、六号棟の応急運用が整った。
集会室。
家族区画。
単身者区画。
仕切り布。
鍵付き貴重品箱。
寝具。
臨時灯り。
共同炊事場の利用札。
日中の子ども預かり。
一号室。
壁際停止。
寝台移動。
二号室。
壁際停止。
重工具移動。
三号室。
全面停止。
床下水。
旧排水路仮回収。
雨樋。
仮延長。
生活排水。
専用回収台。
「小さな村なら、住民全員を別の宿へ移せたかもしれません」
フィルが言った。
「王都では、空き部屋も少ない」
セラが答える。
「一部停止と共同室利用で、暮らしをつなぐしかない」
「完全な解決ではありません」
直人が言う。
「でも、今夜を安全に過ごすための形です」
◇
床下の仮回収槽を確認する。
夕方までに集まった水。
小桶二杯分。
「少なく見えます」
フィルが言う。
「毎日続けば、大桶何杯にもなります」
「床下へ流れていた時は、見えなかった」
「見えない水量は、ゼロではありません」
「処理槽の漏水を止めれば、さらに減る?」
「はい」
「住民の生活水も回収台へ変わった」
「雨樋も仮接続」
「入口を一つずつ止めている」
「明日の流量が下がれば、効果を確認できます」
直人は記録板へ、入口ごとの停止時刻を書いた。
第二便所清掃樋。
昨日。
便壺洗い場。
一昨日。
副処理槽汲み取り。
昨夜。
六号棟雨樋。
本日午後。
住民生活排水。
本日夕方。
「どれがどのくらい効いたか、分かりますか」
「流量変化と時刻を比べます」
「全部一度に止めた方が早かったのでは?」
「緊急停止としては早いです。でも、責任と恒久対策を決めるには、入口を把握する必要があります」
◇
夜半前。
三号室の母親が、支所へ駆け込んできた。
「子どもが熱を出しました」
「どちらですか」
「下の子です」
「治療師へ連絡を」
フィルが走る。
四歳の子ども。
発熱。
軽い腹痛。
吐き気はない。
「床下の汚水が原因ですか」
母親が直人へ尋ねる。
「今は判断できません」
「ずっと、あの部屋で寝ていました」
「治療師の診断と、ほかの居住者の症状を確認します」
「もっと早く調べていれば」
その言葉に、管理人ナムが俯く。
「私が床の湿りを、もっと強く言えばよかった」
母親は涙を浮かべていた。
「苦情は出していました」
セラが静かに言った。
「記録に残っています」
「でも、板を替えただけで終わった」
「それは、住民一人の責任ではありません」
◇
治療師の初期判断。
軽い発熱。
腹痛。
現時点では、食事、風邪、汚染水など原因不明。
同居家族。
ほかに明確な症状なし。
同じ一階の住民。
ユーナは怪我のみ。
日雇い兄弟は症状なし。
「一人だけでは、床下汚水との関係は決められません」
エルンが言った。
「でも、飲用水や手洗い水は?」
「六号棟住民へ、第二共同井戸の水を使っていたか聞きます」
多くの住民が使用していた。
井戸停止後は、緊急給水。
「子どもは、いつまで井戸水を飲んでいましたか」
「昨日の朝まで」
「便壺洗い場停止前?」
「はい」
井戸。
床下。
食事。
複数の可能性。
「治療費は?」
母親が尋ねる。
「緊急衛生調査の対象者として、先行負担を申請します」
「原因が違ったら?」
「後で精算方法を決めます」
「今は払わなくていい?」
「治療を遅らせないでください」
原因が決まるまで、水を止めない。
治療も同じだった。
◇
翌朝。
六号棟床下の流量は、前日より大きく減っていた。
前日夕方から夜。
小桶二杯。
夜から朝。
小桶半分。
「入口停止の効果が出ています」
フィルが言った。
「雨が降っていないこともあります」
「床下の水たまりは?」
「水位が指一本分下がっています」
「乾燥を始められる?」
「汚染土を除去してからです」
「床を全部外す?」
「腐食範囲を確認するため、一号室と三号室は広く開ける必要があります」
「住民は何日戻れない?」
「少なくとも数日。梁交換が必要なら、さらに」
所有者レイグは、朝から姿を見せていない。
代理人だけが来ている。
「所有者が工事契約へ署名しなければ?」
ナムが尋ねる。
「水務局の緊急補修命令を出します」
エルンが答えた。
「費用回収は後」
「強制工事?」
「住民の安全に必要な最低範囲です」
◇
古い地下排水路の下流調査も続いていた。
六号棟を過ぎた後。
南側雨水溝へ向かうはずの線。
だが、地面の湿りは東へ曲がっている。
「図面と違います」
セラが言った。
「共同住宅建設時に、経路を変えた?」
「記録はありません」
「東には何がありますか」
フィルが区域図を見る。
共同炊事場。
洗濯場。
そして。
南区で最も大きな無料給水所。
「また水場です」
直人が言った。
「給水所の井戸?」
「井戸ではなく、外郭水路から水を引く貯水槽です」
「地下排水路が、その下を通っていたら?」
「貯水槽の外壁と地面を確認します」
「今すぐ停止しますか」
「異常が確認される前に、三百人以上が使う給水所を止められません」
「第二共同井戸と同じです」
「代替水を準備しながら調査します」
六号棟の床下で終わりではなかった。
古い排水路は、さらに下流へ続いている。
床板を替えれば、見た目は新しくなる。
だが、床下の水は残る。
臭いも。
腐食も。
住民の不安も。
そして、水路の先にある次の設備への危険も。
「給水所の利用人数を確認してください」
直人がフィルへ言った。
「代替給水車は?」
「現在、第二共同井戸の停止で二台使っています」
「追加で何台出せるか、王都本局へ照会」
「給水所を止める前提ですか」
「止める可能性へ備えます」
「検査前に?」
「代替を作る前に危険が見つかっても、すぐ止められない状況を繰り返さないためです」
危険を確認してから、代わりを探すのでは遅い。
次の調査は、給水を止めずに安全を確かめる準備から始まることになった。
共同住宅六号棟の床下から、腐敗物と石灰の反応を示す灰色の水が見つかりました。
去年の修理では新しい床板だけが交換され、梁、床下の水、外れた雨樋、古い地下排水路は確認されていませんでした。
一階三号室は全面停止、一号室と二号室は壁際を部分停止し、住民は集会室などへ一時退避します。
古い排水路、第二便所の処理槽、便壺洗浄水、雨樋、住民の生活排水という複数の流入口を止めた結果、床下の水量は減少しました。
しかし、旧排水路は六号棟の先で図面と違う方向へ曲がり、多くの住民が使う無料給水所の近くへ続いていました。
次回は給水所を突然止めずに済むよう代替水を先に確保し、貯水槽の下へ古い排水路が入り込んでいないかを調査します。




