第46話 酒代に便所代が入っていても、住民を追い出さないでください
王都南区の第三便所は、昼間は共同住宅の住民が使い、夜になると周辺の酒場客が押し寄せます。
酒場の客は、酒代に便所利用料が含まれていました。
そのため夜の便所は「料金を払った客が優先」とされ、近隣住民が使えない時間帯が生まれていました。
王都南区の第三便所は、昼と夜で別の設備のように見えた。
昼過ぎ。
建物の前に並んでいるのは、共同住宅の住民が中心だった。
洗濯籠を抱えた女性。
仕事へ戻る途中の職人。
幼い子どもを連れた老人。
列は七人。
第一便所ほど長くはない。
「第三便所は三室です」
南区支所の書記官フィルが、事前記録を読み上げた。
「男性用一室、女性用一室、共用一室。男性用の外側に立ち小便設備が二か所」
「管理者は?」
陶山直人が尋ねる。
「土地と建物の所有者は酒場《酔い梟》の主人、モルドです」
「便所も酒場の所有?」
「はい。ただし、昼間は近隣住民へ有料で開放しています」
「夜は?」
「酒場客の利用が優先されます」
「住民は使えない?」
「利用できると聞いています」
フィルは少し言いにくそうに続けた。
「ただ、混雑時は断られることがあるそうです」
便所の隣には、大きな酒場が建っている。
まだ営業前。
扉は閉まり、従業員が酒樽を運び込んでいた。
第三便所と酒場の間には屋根付き通路がある。
酒場客は、雨の日でも外へ出ず便所へ移動できる。
一方、住宅側の入口には屋根がない。
「入口が二つあります」
セラが言った。
「酒場側と、住民側」
「中で合流していますか」
「確認します」
◇
便所管理人は、酒場で働く中年男性だった。
名はオグ。
昼は便所料金の徴収。
夕方以降は酒場の入口整理と便所管理を兼任している。
「水務局の調査は聞いている」
オグは腰の鍵束を鳴らした。
「ただし、夜の稼ぎ時に便所を止めるのは困る」
「危険がなければ止めません」
直人が答える。
「危険を探しに来たのだろう」
「安全な部分も確認します」
「ほかの便所で床を止めたと聞いたぞ」
「床が割れていたからです」
「ここの床は石だ」
オグは自信を持って入口を開けた。
確かに、第三便所の床は石敷きだった。
第一便所や第四便所の木床より、水や腐食に強い。
中央に排水溝。
壁の下部も石張り。
「毎晩、水で洗っています」
「洗浄水はどこへ流れますか」
「地下の排水路だ」
「図面は?」
「酒場の主人が持っている」
内部は三室。
男性用。
女性用。
共用。
各室には木製の扉。
鍵。
使用中札。
第一便所より設備状態は良い。
「手洗いは?」
「酒場側に水槽がある」
「住民側は?」
「便所の外に桶がある」
住民側の手洗い桶。
水は濁っていない。
だが、一つの柄杓を全員が使う方式。
「交換は一日何回ですか」
「昼と夕方」
「夜の利用者数は?」
「多い日は三百を超える」
「三百人が使っても、夕方の一回だけ?」
「酒場側の手洗い槽は、減れば足す」
「全量交換は?」
「朝」
水を足しても、汚れが消えるわけではない。
「利用料金を教えてください」
フィルが記録板を開く。
「昼の住民は、小銅貨一枚」
「子どもは?」
「一人で使うなら一枚。親が抱える幼児は取らない」
「第一便所とは違いますね」
「うちは昔からそうだ」
「夜の酒場客は?」
「酒代に含む」
「一杯だけ飲んでも?」
「含む」
「何回使っても?」
「含む」
「住民が夜に使う場合は?」
オグは少し間を置いた。
「小銅貨一枚だ」
「列は同じ?」
「酒場客が多い時は、住民側の入口を閉める」
「なぜ閉めるのですか」
「金を払って酒を飲んでいる客を待たせられない」
「住民も便所料金を払うのでしょう」
「一回分だ。客は酒代の中で、もっと払っている」
「酒代のうち、便所分はいくらですか」
「そんなものは分けていない」
「では、客がもっと払っている根拠は?」
オグが顔をしかめた。
「酒場の客は店の客だ」
「住民は便所の客では?」
「夜は酒場の設備になる」
昼と夜で、同じ便所の扱いが変わる。
◇
内部の点検を続ける。
石床には、大きな割れはない。
ただし、男性用個室の壁に深い傷。
扉の下部には蹴られた跡。
鍵は新しい。
「鍵を最近交換しましたか」
「先月だ」
「なぜ?」
「酔った客が中から開けられなくなり、扉を蹴り壊した」
「怪我人は?」
「蹴った本人が足を腫らした」
「記録は?」
「酒場の揉め事帳にある」
「便所設備の事故としては?」
「残していない」
共用室。
手すりが一本。
壁の柱へ固定されている。
大きなぐらつきなし。
「この手すりは良い固定です」
直人が言った。
オグが得意そうに答える。
「大工に金を払ったからな」
「設置理由は?」
「酔った客が転ぶからだ」
「転倒は多いですか」
「月に二、三人」
「少なくありません」
「酔っていれば転ぶ」
「床の濡れも関係しませんか」
石床の中央排水溝。
水を撒いた後は、表面に薄く水が残る。
滑り止めの凹凸はあるが、酒や吐瀉物が混ざれば滑りやすくなる。
「床清掃はいつ?」
「夜中に汚れれば、その都度」
「誰が?」
「酒場の下働き」
「一人で?」
「手の空いた者」
「酔客がいる状態で水を撒きますか」
「汚れを残せないだろう」
「清掃中の使用停止は?」
「一室ずつ閉める」
「表示は?」
「扉を押さえる」
担当者が扉の前へ立つだけ。
赤札や鍵はない。
「清掃担当者が別の仕事で離れた場合は?」
「早く終わらせる」
「清掃中の床へ、客が入ったことは?」
オグは答えなかった。
近くにいた若い従業員が、小さく手を挙げる。
「あります」
「いつ?」
「三日前」
「何が起きました?」
「洗った直後に客が入り、滑って壁へ頭をぶつけました」
「治療は?」
「冷たい布を当てました」
「治療師へは?」
「本人が大丈夫だと言ったので」
「名前は?」
「旅の商人です。もう王都を出たと思います」
旅人宿と同じ。
利用者が去れば、事故の追跡も途切れる。
◇
「夜の状態も確認します」
直人が言った。
「昼だけでは駄目ですか」
オグが尋ねる。
「利用人数、酔客、清掃頻度、列が変わります」
「調査員がいると、客が嫌がる」
「個室内へは入りません。外側の運用を確認します」
「酒を飲まない者が店の中に立つと、雰囲気が悪い」
「水務局の腕章を付けます」
「もっと悪い」
オグは酒場主人へ確認することになった。
「昼の間に、排水と処理槽も確認します」
「地下槽は、酒場裏だ」
「汲み取り記録は?」
「五日に一度」
「夜三百人、昼の住民利用も含めて五日?」
「大槽だからな」
「満杯確認は?」
「汲み取り人が棒を入れる」
「毎日ではない?」
「臭いが強くなれば、私が見る」
「臭いを水位表示の代わりにしている?」
「長年それで分かっている」
直人は処理槽の点検口へ向かった。
◇
第三便所の処理槽は、地面の下に二つ並んでいた。
一つ目。
固形物を受ける主槽。
二つ目。
上澄みを受ける副槽。
「第一便所より整っています」
エルンが図面を見る。
「二十五年前、水務局の補助で作られた設備です」
「古い排水路との接続は?」
「図面上では、南側の共用排水溝へ」
「現状も同じか確認します」
点検口周辺は乾いている。
石積みに大きなひびもない。
水位測定棒を入れる。
「主槽は、満杯線まで指六本」
フィルが記録する。
「五日ごとの汲み取りなら、次回は?」
「二日後」
オグが答えた。
「夜の利用数が増えた場合、二日持ちますか」
「週末ではないから持つ」
「酒場の催しは?」
「今夜は吟遊詩人が来る」
「通常より多い?」
「少し」
「少しとは何人ですか」
「百人ほど増えるかもしれない」
「三百に百人追加?」
「立ち見が出れば」
処理槽の余裕は、通常利用を前提にしている。
「今夜の前に、臨時汲み取りを依頼してください」
「二日前倒し?」
「満杯になってからでは遅いです」
「追加料金がかかる」
「催しの運営費です」
「便所のために、興行利益が減る」
「客を増やすなら、排泄量も増えます」
「全員が便所を使うわけではない」
「何人使うか記録していますか」
「酒場客は数えていない」
「今夜、利用回数を数えましょう」
「調査のために?」
「今後の催し前汲み取り量を決めるためです」
◇
昼の住民利用者からも、別に聞き取りを行った。
第三便所を日常的に使うという年配男性、カダ。
「昼は、ここが一番使いやすい」
「理由は?」
「石床で、足元が安定している。男用の立ち場所もある」
「料金は?」
「第一と同じだが、列が短い」
「夜は?」
「使えん」
「料金を払っても?」
「酒場の戸口から入れと言われる」
「住民側の入口を閉める?」
「日暮れから夜半まで」
「その間、どこへ行きますか」
「第四便所か、路地の端」
「第四便所は現在停止中です」
「だから昨夜は困った」
「第一便所は?」
「遠いし、列が長い」
「第二は?」
「井戸停止で人が集まり、便所も混んでいる」
「住民側入口を閉めることへ、苦情を出したことは?」
「何度もある」
「返答は?」
「夜は酒場が借り切っていると言われる」
「契約書は?」
「見たことがない」
第三便所は私有設備。
所有者が夜間を酒場専用にすること自体は、契約上可能かもしれない。
だが、周辺のほかの便所が不足している中、実質的な生活設備でもある。
「酒場が便所を夜間独占する代わりに、別の便所を用意していますか」
「ない」
「住民へ事前の利用時間表示は?」
「昔からそうだ」
「何時から閉まるか、日によって違いますか」
「客が増えれば早く閉まる」
住民は、夕方に行ってみるまで使えるか分からない。
「閉鎖時刻だけでも決めてほしい」
カダが言った。
「使えないと分かれば、早めに別へ行ける」
設備数だけではない。
利用できる時間の予測も必要だった。
◇
女性利用者の聞き取りは、セラが担当した。
「夜は酒場客と同じ入口を使いたくありません」
若い女性が答える。
「なぜです?」
「酔った男たちの間を通るから」
「住民側入口が開いていれば使いますか」
「はい」
「料金は払う?」
「一回分なら」
「夜間に怖い思いをしたことは?」
「便所から出た時、酒場客に腕を掴まれました」
「いつ?」
「先月」
「オグさんへ伝えましたか」
「酔っていただけだと言われました」
「酒場側の警備は?」
「店の入口にはいる。でも、便所の通路にはいない」
「女性用個室の鍵は?」
「動く。ただ、外で待たれるのが怖い」
「共用室は?」
「夜は使わない」
「なぜ?」
「男女の区別が分からない酔客が入ってくるから」
設備上は三室。
しかし夜の女性住民にとって、安全に使えるのは女性用一室だけ。
その入口へ行くために酒場客の列を通る。
「住民側入口から女性用室へ直接入れますか」
「入れるはずです」
「なぜ閉める?」
「酒場客が住民側から逃げ、料金を払わず店へ戻るからだと言われました」
酒場側は、客の出入り管理のために住民側入口を閉じていた。
「酒場客の料金は酒代込みなのに?」
「店を出て、別の酒場へ行く客がいるそうです」
便所の入口が、酒場客の退店管理にも使われている。
衛生設備と店舗運営が、同じ扉で制御されていた。
◇
夕方。
酒場主人モルドとの話し合いが行われた。
大柄な男性。
赤い顔。
開店前から酒を飲んでいるようにも見えるが、話し方は明瞭だった。
「便所は、私の父が金を出して改修した」
モルドが言った。
「石床も処理槽も、酒場の設備だ」
「水務局の補助も入っています」
エルンが図面を示す。
「三割だ。残りはうちだ」
「昼間は住民から利用料を取っています」
「清掃と汲み取りに金がかかる」
「夜に住民側入口を閉じる理由は?」
「酒場客の安全管理だ」
「住民の安全ではなく?」
「酔った客と住民が出入り口でぶつかる。だから分けている」
「分けるのではなく、住民側を閉めています」
「客が多いからだ」
「住民は、夜に排泄できなくなります」
「ほかの便所がある」
「第四便所は危険で停止。第一は混雑。第二井戸も停止中です」
「それは、うちの責任ではない」
「南区全体の衛生問題です」
「だから私の店へ負担させるのか」
「まず、今夜の運用を改善してください」
「具体的には?」
「住民側入口を閉めない」
「酒場客が外へ逃げる」
「酒場側通路へ、店の出入り管理者を置く」
「人件費が増える」
「酒場の客管理費です」
「住民が無料で入る」
「住民料金の徴収台を、住民側へ残す」
「オグ一人では両方見られない」
「一人へ二つの入口と三室の便所管理を任せていることが問題です」
モルドは腕を組んだ。
「もう一人雇えと?」
「今夜だけでも、酒場従業員を分担させてください」
◇
夜間運用の試験案が作られた。
住民側入口。
閉鎖しない。
住民料金徴収と優先利用の受付。
担当一人。
酒場側入口。
酒場客の利用確認と店外流出管理。
担当一人。
内部共用通路。
泥酔者の転倒防止と、女性用室前の安全確認。
担当一人。
清掃。
専任二人。
一室ずつ停止札と鍵を使う。
「合計五人?」
モルドが声を上げる。
「清掃担当は酒場業務と兼任できますが、清掃中は別の仕事をしないでください」
「今までオグと下働き一人で回していた」
「その結果、清掃直後の床で転倒事故が起きています」
「本人が酔っていた」
「酔った人が使うことを前提にした設備です」
直人は言った。
「利用者の状態を、想定外にはできません」
モルドは不満そうだったが、吟遊詩人の催しを止めたくない。
「一晩だけ試す」
「利用回数、事故、清掃回数、待ち時間を記録します」
「客へ記録を書かせるなよ」
「担当者が数えます」
「酒場の売り上げまで見るのか」
「便所利用数だけです」
◇
臨時汲み取りも、開店前に行われた。
主槽。
副槽。
回収車。
汲み取り人三人。
「なぜ予定外に呼ばれた」
組合の作業頭が尋ねる。
「今夜、通常より百人以上増える可能性があります」
フィルが答えた。
「急な依頼は割増だ」
「酒場負担で契約します」
モルドが渋い顔で署名する。
「全部抜くのか」
「主槽は満杯線の半分まで下げます」
直人が答えた。
「全部抜けばよいだろう」
「槽内を完全に空にすると、浮き上がりや石壁への圧力変化が起きませんか」
作業頭がうなずく。
「この槽は地下水が高い。少し残した方がよい」
「処理槽の状態も確認してください」
「今夜のために、そこまで?」
「異常があれば、催し前に止めます」
幸い、大きなひびや漏れは見つからなかった。
汲み取り完了。
使用開始水位を記録する。
「明朝、増加量を測ります」
「何人分の排泄量か分かる?」
「利用回数と比較します」
「酒を飲んだ量でも変わるぞ」
「正確な一人分ではなく、催し時の傾向を確認します」
◇
日が沈む。
《酔い梟》の扉が開いた。
吟遊詩人の名を聞いた客が、次々に入ってくる。
酒場側の便所入口には、すぐに列ができた。
開始半刻。
利用数、四十三。
一刻。
百一。
「早いです」
フィルが木札を数える。
「男性立ち小便設備へ分かれているので、個室列はまだ短い」
直人が答える。
「女性用は?」
酒場客六人。
住民三人。
住民側入口が開いているため、酒場客の列を通らず入れる。
「これだけでも、昨日までと違います」
セラが女性用室前を確認する。
通路担当の女性従業員が一人。
泥酔客が住民側へ入ろうとすると、酒場側へ戻す。
「便所へ行くんだ!」
「男性用は向こうです」
「どちらでも同じだろう!」
「同じではありません」
従業員がはっきり止める。
これまでなら、オグ一人が料金徴収中で対応できなかった。
◇
二刻目。
最初の事故が起きた。
男性用個室から出た客が、壁へ手をつき、そのまま座り込んだ。
「転倒ではありません」
通路担当が声を上げる。
「意識は?」
直人と治療係が近づく。
酒場側では、催し用に簡易治療箱を用意していた。
「酔っているだけだ」
友人らしい客が笑う。
「返事が弱いです」
直人は便所通路から客を移動させた。
吐き気。
顔色不良。
「酒をどのくらい?」
「強い蒸留酒を四杯」
「水は?」
「飲んでいない」
治療師へ連絡。
便所事故ではない可能性が高い。
しかし、通路で倒れれば利用者の流れを塞ぎ、別の転倒を招く。
「泥酔者の休憩場所を便所通路と分けます」
直人が言った。
「店内に置け」
モルドが答える。
「店内は満席です」
「裏の荷物部屋を空ける」
「便所前で座らせない?」
「はい」
酒場利用者の体調管理まで、便所担当へ押しつけない。
◇
三刻目。
清掃が必要になった。
男性用個室で、吐瀉物。
担当者が赤札を掛ける。
扉を施錠。
清掃開始時刻を記録。
「水を大量に撒かないでください」
直人が言う。
「石床だから流せる」
「隣室まで濡れます」
まず、固形物を回収。
吸収材として乾いた木粉。
汚れを集める。
その後、少量の洗浄水。
排水溝へ。
「今までは桶一杯を撒いていた」
清掃担当が言う。
「水を増やすほど、乾くまで時間がかかります」
「臭いは?」
「石けん草液を使います」
清掃後。
乾燥確認。
滑り確認。
赤札を外す。
十二分。
「以前は?」
「五分ほど」
「長くなった」
モルドが言う。
「でも、濡れたまま再開していません」
利用者一人が壁へ頭をぶつけた事故。
それを考えれば、七分の差は必要な時間だった。
◇
夜半。
酒場側の列は、最大十八人。
住民側は、最大六人。
住民側入口を開けても、酒場運営に大きな混乱は起きていない。
「客が逃げたか?」
モルドが酒場入口担当へ尋ねる。
「二人が外へ出ようとしました」
「止めた?」
「会計札を確認し、店へ戻るか精算してもらいました」
「便所入口を閉めなくても管理できた?」
「人は必要です」
モルドは人件費表を見た。
「一晩で銅貨が何枚増えたと思う」
「酒場客は何人増えましたか」
フィルが尋ねる。
「通常より百二十人ほど」
「売り上げも増えています」
「便所管理費を、催しの原価へ入れてください」
直人が言った。
「吟遊詩人への報酬と同じ?」
「客を集めるために必要な費用です」
「便所は客を集めない」
「便所が使えなければ、客は長く店にいられません」
モルドは何も言わなかった。
◇
夜間の住民側では、別の問題が起きた。
幼い子どもを連れた父親が、小銅貨を持っていなかった。
「明朝、払う」
父親が受付担当へ言う。
「後払い札はありません」
「第一便所では、緊急衛生札があると聞いた」
「ここは酒場の便所です」
担当者が困っている。
子どもは足を動かし、我慢している。
「今夜の試験運用中は、南区の緊急利用札を使います」
フィルが札を出した。
「酒場への支払いは?」
「水務局が利用記録に基づいて後払い」
モルドが顔をしかめる。
「誰にでも札を出すな」
「幼児の緊急利用です」
「父親分は?」
「父親は介助者です」
「個室を使うのは二人だ」
「一室一回です」
直人が言った。
「第一便所でも、同じ整理を始めています」
「王都中の子どもを無料にするつもりか」
「介助が必要な幼児を、大人二人分と同じにしないだけです」
料金単位。
人。
排泄量。
個室占有。
介助。
何を基準に取るのか、便所ごとに違う。
「今夜は調査費で処理します」
正式制度は後。
目の前の排泄を止めない。
◇
催しが終わったのは、夜半を大きく過ぎてからだった。
最終利用数。
酒場客。
三百八十七回。
住民。
六十三回。
合計四百五十回。
男性立ち小便設備。
百四十二回。
個室利用。
三百八回。
「一晩で四百五十」
フィルが驚く。
「酒場客の再利用を含みます」
「昼は?」
「住民利用が百一回」
「一日合計五百五十一回」
第一便所の一日百五十から二百回を大きく上回る。
「処理槽の水位を確認します」
明朝を待たず、外側から測定。
満杯線まで指三本半。
「汲み取り前は指六本」
「半分まで下げた後から、ここまで上がった?」
「催し時は、事前汲み取りが必須です」
モルドも数字を見ていた。
「もし汲み取らなければ?」
「満杯線を超えた可能性があります」
「逆流?」
「副槽へ余裕はありますが、処理能力を超えれば臭気や漏出につながります」
「今まで満杯にならなかった」
「客数を数えていなかっただけです」
「運が良かった?」
「安全管理を運へ任せないでください」
◇
事故と異常の記録。
泥酔者一名。
治療師対応。
吐瀉物清掃一回。
濡れ床転倒なし。
扉破損なし。
女性用室への男性侵入未遂二回。
通路担当が制止。
住民側入口の混雑最大六人。
料金後払い札三件。
幼児介助利用二件。
「担当者を増やした効果は?」
セラが尋ねる。
「事故をゼロにしたとは言えません」
直人が答える。
「でも、侵入や濡れ床を早く止められました」
「住民側入口を開けた影響は?」
「酒場客の無銭退店未遂二件。入口担当で防止」
「便所を閉める必要はなかった?」
「はい」
モルドは渋い顔で、記録へ署名した。
「毎晩五人は出せん」
「通常夜と催し夜を分けましょう」
「通常は?」
「利用回数を三日間測ってから決めます」
「また測るのか」
「催し時だけ多い可能性があります」
「通常ならオグ一人でよい?」
「料金と入口管理を兼ねる人。内部巡回。清掃担当。最低三役は必要です」
「三人?」
「一人が一部兼任できるかは、利用数次第です」
「酒場従業員を交代で回す」
「担当時間を明確にしてください」
「手当は?」
清掃を担当した若者が尋ねた。
モルドが彼を見る。
「酒場の仕事だ」
「通常業務に、汚物と吐瀉物の清掃が含まれていますか」
直人が聞く。
「下働きは何でもやる」
「防護具と危険作業手当を設定してください」
「また手当か!」
王都南区の夜に、モルドの声が響いた。
◇
翌朝。
第三便所の改善案がまとめられた。
一。
住民側入口を夜間も開放。
二。
酒場側の退店管理は、便所扉の閉鎖ではなく専任担当者で行う。
三。
通常夜、催し夜で人員基準を分ける。
四。
催し前に予想客数を申告。
五。
一定人数を超える場合、事前汲み取り。
六。
利用回数を記録。
七。
清掃中は赤札と施錠。
八。
濡れ床確認後に再開。
九。
女性用室前へ夜間巡回担当。
十。
泥酔者休憩場所を便所通路から分離。
十一。
住民向け利用可能時刻を表示。
十二。
手洗いを浸し桶から栓付き槽へ変更。
「十二項目」
モルドが言う。
「全部必要か?」
「優先順位を付けます」
直人は三段階に分けた。
今夜から。
住民入口開放。
清掃停止札。
女性側巡回。
催し前汲み取り。
七日以内。
人員表。
利用時刻表示。
事故記録。
手洗い栓付き化。
三十日以内。
排水図確認。
処理槽保守契約。
夜間照明改善。
「全部一度に工事ではありません」
「なら、できる」
「住民入口は?」
モルドは少し黙った。
「開ける」
「毎晩?」
「試験一週間」
「閉める場合の条件は?」
「暴動でも起きた時だ」
「主観ではなく、条件を決めます」
「火事、暴力事件、便所設備の破損」
「水務局へ報告し、代替便所を案内する」
「そこまで書くのか」
「勝手に閉められないようにします」
◇
第三便所前へ、新しい利用時間札が掛けられた。
住民利用 昼夜可。
酒場催し時も、住民側入口を開放。
清掃中の個室のみ一時停止。
幼児介助利用は一室一回として記録。
料金を払えない緊急時は、受付へ申告。
カダが札を見上げる。
「本当に夜も使えるのか」
「一週間の試験です」
フィルが答える。
「また閉められたら?」
「水務局へ連絡してください」
「誰が連絡札を持つ?」
住民代表三人へ、黄色い苦情札が配られた。
「住民が監視するのか」
オグが言う。
「酒場だけを疑うためではありません」
直人が答えた。
「住民側でも、暴力、設備破損、料金逃れがあれば記録します」
「双方の記録?」
「はい」
「面倒だ」
「一方だけの話で決めないためです」
◇
南区支所へ戻ると、第四便所側の便壺回収拠点が初日運用を終えていた。
預かり数。
二十九個。
支所洗浄場までの運搬。
二往復。
返却遅れ。
四個。
「なぜ遅れました?」
フィルが尋ねる。
「荷車が給水車と同じ路地で詰まりました」
担当者が答えた。
「便壺と飲用水の車が、同じ道を通った?」
「時間は分けた」
「路地が一本しかない?」
「別経路は遠回り」
「接触は?」
「ありません」
「今後、運行時刻を固定します」
飲用水車。
便壺運搬車。
同じ細い路地で交差させない。
町の小さな工房より、王都では人と車の数が多い。
設備だけでなく、運搬動線も混雑する。
◇
「次は第二便所ですね」
フィルが区域図を見る。
「囲いが低い場所です」
エルンが答える。
「第二共同井戸も近い」
「井戸は使用停止中」
「便所の排水と、井戸外壁の関係も確認します」
「第三便所は、設備自体は比較的良かった」
セラが言った。
「問題は夜の運用と料金優先」
「第二は、設備そのものの問題が大きいかもしれません」
「有料、無料、酒場併設」
フィルが四便所の欄を見る。
「全部、違いますね」
第一便所。
有料。
男女別。
料金徴収者あり。
床の腐食と幼児設備不足。
第二便所。
安価。
囲いが低い。
井戸近接。
第三便所。
石床。
酒場併設。
夜間の住民排除と酔客事故。
第四便所。
無料。
管理者不在。
危険な床と未管理槽。
「四か所を、一つの料金制度と一つの便器で直せますか」
フィルが尋ねた。
「同じ基準は必要です」
直人が答えた。
「でも、同じ形にする必要はありません」
「共通にするものは?」
「安全停止条件。最低清掃回数。汲み取り記録。手洗い。利用者を完全に締め出さないこと」
「違ってよいものは?」
「料金方法。男女室数。営業時間。子ども設備。利用人数に応じた仮設追加」
「標準と現場対応を分ける?」
「はい」
便器を標準化しても、周囲の運用まで一つにはできない。
◇
その時、王都水務局本局から急ぎの使者が来た。
「南区第二便所で、怪我人です!」
直人たちが立ち上がる。
「何が起きました」
「囲い板が倒れ、利用中の女性に当たりました」
「意識は?」
「あります。肩を強く打っています」
「便所は停止しましたか」
「管理者が、倒れた板だけ外して使用を続けようとしています」
「全面停止を」
エルンが命じる。
「ただし、代替便所を同時に手配します」
「祝祭用の残りは?」
「使用可能な一台が、南区倉庫にあります」
「一台だけ?」
「第四へ二台、第一へ一台。残り一台です」
「第二便所の室数は?」
「二室と聞いています」
「木製仮設枠を追加で作ります」
直人は工具箱を持った。
「囲いが低いだけではなく、固定も弱かった?」
セラが尋ねる。
「現場を見てから判断します」
酒代に便所代が含まれていても、酒場客だけが排泄するわけではない。
設備の所有者が誰であっても、夜になれば住民の排泄が消えるわけでもない。
第三便所では、入口を閉めずに担当者を分けることで、住民と酒場客の利用を両立できた。
しかし、次の現場では、利用者を隠すための囲いそのものが倒れていた。
王都南区の四便所。
最後の一つとなる第二便所の調査は、聞き取りではなく事故対応から始まることになった。
第三便所は石床や処理槽が整備されていましたが、夜になると酒場客が優先され、住民側入口が閉鎖されていました。
直人たちは入口を閉めず、酒場客の出入り管理、住民料金受付、内部巡回、清掃を別の担当へ分けます。
吟遊詩人の催しでは一晩に四百五十回の利用があり、事前汲み取りを行わなければ処理槽が満杯線を超える可能性も判明しました。
設備が良くても、利用人数や時間帯に合った人員、清掃、処理計画がなければ安全には運用できません。
次回は第二便所で倒れた囲い板を調査し、安い利用料のために修理が先送りされていた男女共用設備を緊急停止します。




